底知れぬ深い沼の底

春山ひろ

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後編

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 何度かキスされたけど、俺はほけたように、されるがままだった。

「あ、あの、でも俺に近づくためだったら、もっとシンプルに、ただ俺に声をかければ良かったんじゃないの?」
柏木さんは、まさにとろけるような笑みを浮かべ、「二人の初めてキスの場面でする質問としては、非常に空気を読まない質問ではあるが、俺は樹に対しては、いつでもとても寛大なので、答えるとしよう」

 もう、呼び捨てかよ。
「ちなみに、俺は隆一だ。柏木さんではなく、隆一」
こくこくとうなずく俺。言いなりになっている自覚はあったが、もはや抵抗する気力はない。

「まず、いきなり見ず知らずの、しかも年上の男から声を掛けられて、君は俺を信じたか?」
俺が首を振ると、満足気な笑みを浮かべ、隆一さんはさらに続けた。
「そうだろう。さらに『この事務所に勤めている弁護士だ』なんて、さも自分の職業を君に知らしめるために話したら、それも樹は信じられる?」

 やっぱり俺は、首を横に振った。
「だから直接、樹に近づけなかった。俺が何者で、職業や職場がどこであるかという点についても、第三者、それも樹の身近で、ごく自然に樹が信じられる相手からの紹介というのが、一番、確実だった。それで実行した。さらに言えば、樹は一度、新宿のゲイバーに行っていた。これは、よくない傾向だ。つまり、あまり時間をかけられないと思ったんだ。また、樹が行くかもしれないからね。その上で、今日、こうやって告白したのは、これ以上、お母さんやお姉さんに誤解され続けるのは、賢明ではないと判断したんだ」
俺が、ちょっと胡散臭そうな顔をして「誤解?騙すの間違いじゃないの?」と聞いたら、「些細な単語の誤用について、そうやって突っ込む樹もかわいい」といって、隆一さんは笑った。
俺が何を言っても、もはやこの人は「かわいい」で片づけそうだ。

 そして、俺は大事なことに気づいた!
「早く下に行かないと!姉ちゃん、おかしいと思うって!」
「大丈夫。まだ40分しかたってない。さっきお母さんに『急に来られたから何も用意してなくて。お寿司でもとろうかしら』と言われたから、『お寿司よりも、だし巻き卵が食べたいです』と、言っておいた。初めて、ここにお邪魔した時、ざっと台所を拝見したけど、だし巻き用の焼き器はなかったし、4回中、4回ともお母さんの手料理は洋食だった。つまりお母さんは日本食よりも洋食が得意なんだ。そして、お姉さんからは『料理が得意』アピールが一切なかった。これは、作らないか、作れないんだと判断したんだ」
 俺は、ため息をつきながら「作れないが正しい」と答えた。隆一さんは、「よくできました」というように俺の頭をなでて、「そう思ったので、だし巻き卵と言っておいた」と、得意げにいった。

 俺は少し呆れて、「きっと、慌てて駅前のスーパーに卵焼き器を買いに行ったと思う」というと、「そうだろうね」と、まるで柏木さんは他人事のように笑った。
「姉ちゃん、作り方を検索するところから初めて、悪戦苦闘だ」

 そして、俺はどうしても気になっていたことを口にした。

「さっき姉ちゃんは、傷ついたフリをするだけだと言ったけど、やっぱり傷つくよ。だって、彼氏が」
「彼氏だと誤解した、だ」
「もう、どっちでもいいけど、彼氏に振られ、その彼氏が弟と付き合ったら」
「それは心配ない。俺は、ごく自然にお姉さんの人生からフェードアウトする。だんだん会う間隔をあけ、その間にお姉さんには、別の弁護士が、まあ、『めでたしめでたし』的な、お姉さんの御眼鏡に適う人材が現れ、いつの間にか、そいつと肉体関係も結んで、俺をとるか、それともこっちにするかという、『罪作りな私』という自己満足も与えつつ、消えてなくなる」
「もしかして、その『人材』というのも、もう用意してあるとか」
柏木さんは、にっこり笑って「俺は仕事ができるんだ」といった。

「さっき樹は、ごく自然に『彼氏が弟と付き合ったら』と言った。つまり、これはOKということでいいんだよね?」
 これまで自信満々だった隆一さんが、少しだけ(もしかして演技かもしれないけど)、ほんの少しだけ、自信なげに俺に問うたので、俺は、そんな彼がかわいいと思ってしまった。
 ああ、もう無理だ。自分がゲイだと自覚して以来、叔父さんだけが、俺の味方だった。唯一、正直に話せたのは、叔父さんだけだった。その叔父さんが亡くなった。
 俺は、叔父さんがゲイであることを悲観して自殺したのかもとか、もしかしたら、俺も自殺することになるのだろうかとか、そんなことまで考えていた。

 ずっと、一人なんだと思っていた。
 誰とも人生を共有できないと思っていた

 こんなに手の込んだ方法で、俺に本気で恋をしているという人が現れるなんて思わなかったんだ。

 俺は、若干、涙目で、でも半笑いのへんな顔で頷いていた。
 柏木さんが俺を抱きしめながら言った。
「これからのことなんだが、まず受験先は法学部。俺はあと数年したら独立するが、独立のタイミングは、樹が弁護士になるタイミングに合わせてもいい。受験は心配いらないよ。俺は、大学時代に家庭教師のバイトもしていたんだ。なんでも聞いてくれ。そして樹が晴れて弁護士になったら、俺の事務所で一緒に働き、ゆくゆくは共同経営者だ。なにしろ、ゲイというのはマイノリティで、様々な偏見がある。悪意もある。だから、我々は仕事においても、またプライベートにおいても忙しく、闘うべきことが、常にあるんだ。そのため、俺はいつも、本気で『この人だ』と思った人間に出会ったら、どんな手を使ってでも、可及的速やかに囲い込むと決めていた。なにしろ、人生は有限だからね」

 俺は、大爆笑し、柏木さんは笑っていた。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 
 数年前。
「これが樹くん?」
「そうだ。かわいいだろ。俺のかわいい甥だ。樹は、男にしか興味がないといってきた。…それだけで、彼の人生は難しい。俺が助けてやれるといいんだが…。知っての通り、あまり時間がない。だから、もし柏木が助けてくれるなら…」


 その写真で一目ぼれし、それからずっと君を見てきたよ。これは、声を大にして言いたいが(もちろん伝えるつもりはないけど)、叔父さんに頼まれたからでは、絶対にない。

 かわいい樹。
 

 底知れぬ深い沼の底であろうと、君が入りたいというのであれば、俺は一緒に入ってあげる。
 
 
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