底知れぬ深い沼の底

春山ひろ

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底知れぬ深い沼の底…の風景

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「柏木!」
 俺は、ここが地裁(ちさい)のロビーにも関わらず、先を歩く長身の男を大声で呼び止めた。

  柏木は振り向きながら、俺と分かった途端に嫌そうな顔をし、隣の細身の美人に何やら話しかけている。なるほど、これが大事にしている「樹(たつき)くん」かと、すぐに合点がいった。大方、元同僚と言ったんだろう。
「こんなところで大声を上げるな」
「悪い!さっき弁護士控室にいたろ?隣の個室からおまえの声が聞こえたから、追いかけてきた」

  俺は樹くんに、「柏木とは前の事務所で同僚だった、水野といいます」と、自己紹介しながら、名刺を差し出す。
「あ、お、自分は、今年から柏木法律事務所でお世話になっている」といいながら、樹くんが名刺を差し出そうとしたのに、柏木は無常にも「樹、もったいないから、渡さなくていいぞ」と、言い放った。
しかし、そんな柏木をスルーして、樹くんは「新人の海野 樹といいます」と、名刺をくれた。

 樹くんは、俺の名刺を見ながら「水野先生のことは知っています。まだ学生だったころ、一度先生の尋問を傍聴席で伺いました。かっこよかった!」と、興奮気味にいった。
「うれしいね、どの案件?」
「確か、民事で名誉毀損の事案でした。先生は原告側の代理人をされてて、被告への反対尋問の時に、被告が原告のことを『嘘が多い』とかなんとか供述したんです。すぐさま裁判長が『今のは不適切な発言なので調書から削除します』と言ったら、先生が『裁判長!調書から削除しないでください。この発言は被告の人格を端的に分からしめる発言ですので、あえて残して頂きたい!』と言われて。かっこよかった!」
「あの時、傍聴席にいたんだ」
「そうなんですよ!」
「…で、水野、要件はなんだ?」と、不機嫌丸出しで、柏木が口を出した。
「おまえは、ほんとに『樹くん』がらみだと、狭量な男だな。こんなの、めんどくさくない?」と、樹くんに言えば、「でも、おもしろいんですよ。この間、靴下をリビングに脱ぎっぱなしにしてるから、『これ、洗うの?今日は、もうはかないよね?』と聞いたら、『樹がはいてっていうのなら、もう一度はいてもいい』って、言い返してきて。素直じゃないところが面白いんです」という。なるほど、いいパートナーだ。

「それで、要件は?」
  俺が、樹くんに渡した名刺を指しながら、「まず、一つ目!柏木先生、海野先生、それが俺の個人事務所です」と、にっこり笑えば、柏木が樹くんの手から名刺を抜き取り、「わかった」といって、自分の胸ポケットにしまいこんだものだから、樹くんから「俺がもらったんだよ」と、反撃された。
 しかし柏木は、悲劇の主人公のような作りこんだ苦悩の表情で、「こんな重い名刺、樹に持たせられないだろ」と、のたまわったかと思えば、俺にはツンドラ気候なみの冷え冷えした声で、「口座は変わってないな?」というなり、スマホを操作して「今、開業祝い金、振り込んどいた」と、答えたのだ。

  樹くんは、顔を真っ赤にして「そういうのは、のし袋に包んで渡すもんだろうが」というので、「あ、俺も柏木が独立した時、開業祝い金を振込したんだ」というと、彼はがっくり肩を落とした。
柏木だけは、にっこり笑って「日本の伝統を大事にする樹は、かわいいな」という。バカ丸出しだ。

「ところで、樹。俺は、ここ数年来で最も聞き捨てならない、おまえの発言を聞いたんだが」
「はあ?」
「俺の前で、他の男を『かっこいい』といったな。いくらかわいくても、また初犯であっても、情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)の余地はないぞ」
「何、言ってんだよ!意義あり!」
「…取り込み中、申し訳ないが、二つ目の要件なんだが、口を挟んでもいいか?」
「なんだ、まだいたのか」
「あのな~。柏木も、松井先生に呼ばれてるだろ、このあと」
「松井?誰だったかな?」
これは柏木得意の「瞬間健忘症→ドタキャン」コースだなと、俺はすぐに理解した。が、ほんとに分からない樹くんだけが、「誰?」と聞いてきた。
「元・ボス弁だよ。前の事務所の」
「え?ボス弁?それって『日本総合法律事務所』の?そこのボス弁で、松井先生っていったら、日弁連(※日本弁護士連合会の略)の会長でしょ?」
「そういう肩書もあったか?」
「あったな」
「このあとに松井先生とのアポなんて、聞いてないよ!場所はどこですか?」
「あ~、弁護士会館だったような…」
「目の前じゃないですか!早く行かないと!」
「待て、樹。俺の経験上、松井先生が会いたいという時は、だいたい複雑な案件を押し付ける時だ。いいかい、樹」と、柏木は勿体ぶって言葉を切り、「俺たちには『猫』がいるだろ。『猫』が待ってる」というので、俺が「猫?」と問えば、「もったいないが、見せてやる」と、柏木はスマホを操作して、白い子猫を抱いた樹くんの写真を披露した。
「へえ、可愛いな。樹くんが産んだの?」
「そうだ。愛があれば、樹は猫も産めるんだ」
「そんなわけ、あるか!とにかく行かないと」といいながら、樹くんは、大男二人の腕をとって、弁護士会館に突進しだした。
非常識の権化・柏木に純粋培養された割には、常識的な行動を取る樹くんに、俺が感心していると、ふと横の柏木と目があう。俺とヤツとは身長が同じだから、視界の高さが一緒なんだ。
「ところで、猫の名前はなんだ?」
「だから『猫』だ」
「え、名前が『猫』?」
「猫(ヤツ)は、樹が膝に乗せたり、抱っこしてるんだぞ。それだけでも許せないのに、あえて個体識別用の名前まで欲しがるとは、笑止千万!」
かしわぎぃ…。お前は俺から見ても、ほんとにイケメンだ、いー男だ。仕事はできるし、手際はよく要領もいい。ほんとはペットなど飼いたくないだろうに、樹くんが「飼いたい」と言えば、受け入れる度量の深さもある。きっと「子猫の飼い方」とか検索したんだろうさ。嫌味なくまとめた服のセンスも、たいしたもんだ。
 だけど、なんだろうな‥‥樹くんに関してだけは、ほんとに、ほんとに、ざんねんだな…。


数十分後――。
 弁護士会館の入り口で、樹くんは、まさに激おこしていた。
「信じられない!二人とも!松井先生が、ちょっと案件の説明して、『こ』って言ったら、『依頼人との約束があるので失礼します』って、さっさと部屋を出るとか!」
「怒る樹も、かわいいな」
「かしわぎぃ~。ちゃんと説明してやれよ。樹くん、松井先生は、ほんとに変わってて、あれくらいじゃ、怒ったりしないよ。器が大きいというか、型破りというか」
「そう、法廷で居眠りできるのは、松井先生ぐらいだ」
「マジで?」
「マジだ。裁判長に注意されたら、『つまらん尋問だったので』と、平気に答えておられた」
「す、すごい。でも『こ』で、どうして、いきなり二人とも立ち上がったんです?」
「あの状況で、『こ』といったら、国賠(こくばい)だからだよ」
「国賠…国家賠償!?」
「新人の樹くんだからはっきり言うけど、国賠(こくばい)は、時間と労力だけ取られて、結局、勝てないケースが多いんだ」
「だから、依頼人が『国を訴える』と言ってきたら、最初は、やめるように説得する」
「そうなんだ…」
その時、柏木に電話が入った。
「ちょっと悪い。樹、ここから動くな。水野、樹を見てろ」
そう言い残して、柏木が少し離れた場所に移動していった。

俺は樹くんに、「なんだアレは。…この執着、きつくない?」と聞いてみた。
樹くんは、少し離れたところで電話対応している柏木の後ろ姿を目で追いながら、「…俺、太宰治が好きなんです。…好きなのは小説であって、太宰の生き方じゃない」と、ポツリといった。
「心中で、入水自殺だっけ?」
「そうです。…でも、無理心中とも言われているんです。入水したと思われるあたりに、すごく抵抗したような跡が残っていたそうです。その抵抗は、太宰じゃないかって言われてる。つまり、太宰は直前で死にたくないと思って抵抗したけど、相手の女性が、無理やり入水したんじゃないかって。でも、逆かもしれないですよね?もしかしたら、女性の方が嫌がったのかもしれない。分からないけど、どちらかが、直前で抵抗した。…全部、推測でしかないけど。…死に際で、『一緒に死のう』とまで思った相手に拒否られる。それは、どんな気持ちだったんだろう…。」
俺は、ただ聞いていた。
樹くんは、独り言のように続けた。
「…もし、俺がそういう状況になって、隆一さんに『やっぱり怖いからやめよう』って言ったら、隆一さんは『やめよう』って言ってくれる。その後、『やっぱり入ろう』って俺が言ったら、彼は『入ろう』って言ってくれる。…隆一さんは、根本的なところで、絶対に俺を否定しないんです。俺のことを100%受け入れてくれる。これって、奇跡だと思うんです。だから、俺は隆一さんを絶対に裏切らないし、執着がきついなんて、思ったことはないんです」

俺は後ろに気配を感じ、そっと振り向く。

そこには、電話を終えた柏木が立っていた。

その様は、まさに魔王。
しかし顔は…至福の笑みだ。
背筋が凍るオーラを出しながら、同時に、ずっと見ていたいような、笑みをたたえて立っていた。

前言撤回、前言撤回!
柏木、お前は樹くんの純粋培養に、完全なる純粋培養に成功したんだ。
細胞レベルまで、柏木隆一、一色に染めこんだ。


底知れぬ深い沼の底は、透明度が低く、視界は悪かろう。
なのに、俺は、その風景が見えたように思った。

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