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底に知れぬ深い沼の底 番外編6
しおりを挟む翌日は、午前中、バタバタしていた。
顧客である大手通信企業の案件で、俺は東京地裁で弁論準備手続きのため、時間を取られていた。
特定の個人が、ネットに悪質な誹謗を書き込まれ、それを当人が削除すべく法的手段を取った場合、うちの顧客である通信事業者に発信者情報開示仮処分命令申立が成されるんだ。
その書き込みが、名誉毀損にあたる悪質さか否かより以前に、通信事業者は利用者の個人情報と表現の自由を守るべく、その申立には応じない。
そうなると必然的に裁判になる。ネット内の中傷的な書き込みによるこういった案件はかなり多いため、弁論準備手続きには時間がかかるんだ。
俺は、地裁からメトロに乗って最寄駅を出て、やや小走りぎみに事務所を目指していた。
昨日のことを考える。
隆一さんの励ましは嬉しかった。自然と顔がほころぶ。
佐竹について調べたいが、今日は動けないな。
そんなことを思いながら、事務所まであと少しというあたりで、カチカチカチという靴音が後方から聞こえた。
一瞬で血が下がる。
これは、この音は、もしや、カチカチ山…。
さりげなくスマホを出し、話しているフリして横を向き、向かいのカフェの窓に映り込んだ音の主を確認した。
ビンゴ!
カチカチ山だ!水崎さんの声が聞こえた。「とにかく逃げる」。
しかし、軽くパニックになった俺は、どっちに逃げていいのか分からなくなり、無駄に周辺をウロウロみてると、「あら~」という声が聞こえた。
この後に続く言葉は分かる。「海野先生、偶然ですわね~」。
その時、目の前をうちの猫(こ)が横切って、細い路地に走っていくのが見えた。
嘘だろ、なんでこんなところに!どうして家から出たんだ!
俺は猫を追いかけて走った。
すると、室町4丁目の交差点に出て、しかも目の前にタクシーが止まっていた!
迷うことなく俺は乗り込み、「神田駅まで!」といった。ここから神田駅なんて、徒歩数分なんだけど。
タクシー内で水崎さんに電話する。すると、うちの猫(こ)は事務所の俺の椅子の上で、丸まってお昼寝中だという。
俺はスマホを握ったまま、ただ驚いた。
他の猫と見間違えた?
そんなことを考えていると、あっという間に神田駅に着いた。
とりあえずタクシーから降りた俺は、これからどうするか考える。もう一度、タクシーをつかまえて、事務所に戻ろうか。
そのとき閃いた。
佐竹の実家の住所は三鷹市だった。三鷹なら神田駅からJRで乗り換えなしで行ける。
スマホを取り出す。当然、一人で行くなどとは考えない。
迷わず、水野先生に電話した。
「王妃様、これからは海野先生ではなく、王妃様とお呼びしてよろしいでしょうか?」
三鷹駅改札で待ち合わせをした水野先生は、合流してから、ずっとこんな調子で話してくる。
俺は電車の中で佐竹の住所をナビに入れて検索していた。
「駅から徒歩で15分くらいです。タクシーじゃなく、歩いて行きたいんですよ」
水野先生相手に、その場を仕切った俺は、スマホ片手に歩き始めた。
「こっちみたいです」
声を掛けたのに、返事がない。
俺が後ろを振り向くと、やや三白眼ぎみに、いつもよりキリっとした目で、水野先生が腰に手をあて、休めのポーズをとっていた。
俺は構わず言った。
「先生、電車に乗って疲れたんですか?こっちです。行きますよ」
「はい、はい、王妃様。下僕は、どこにでもついてまいります」
「この道をまっすぐ行くようです」
「突然、電話してきて、これから佐竹の実家へ行くからと呼び出され、俺の都合は、一切お構いなし。この状況は下僕というほかないでしょうね」
「あ、コンビニがある。あってる、あってる」
「聞いてます?」
「聞いてますよ。この道で間違ってないです」
俺はスマホを見ながら、さくさく歩いた。
「今なら、何を言っても『はい、はい』っておっしゃりそうですね」
「あ、はい、はい」
「…海野先生、付き合ってください!」
「あ、はい、はい」
「うわ!柏木、冗談だから!今のは全部、冗談だ!」
突然、大声を出し、慌てふためく水野先生を、俺は別の世界の生き物のように見つめた。
「りゅ、柏木先生なんて、いませんよ!どこにいるんですか?」
「いるんだよ!確かにいるの!」(訳:あるんだよ!確かにあるの!盗聴器が!)
「いませんよ!どこにも」
ちょっと頭を抱えた水野先生の腕を取った俺は、「とにかく、さくさく歩いてください」と、引きずって前に進んだ。
三鷹駅から徒歩15分。しかし、実際にはもう少し歩いた。駅前からゆるやかな坂道を上り、コンビニの前を通って、和菓子屋を過ぎ、住宅街を通り抜けた。
「この角を右に曲がるんです」
ちょっと静かになった水野先生と一緒に、バス通りを右に曲がった。すると、高い塀に囲まれた、まさに「ザ・お屋敷」というような大きな邸宅が出てきた。
ここが佐竹の実家だった。
ナビでいくと、確かにそのはずだ。
「ここ?ほんとに人が住んでるんですか?まるでお化け屋敷だ」
大きな門扉から見える中の建物は、どうみても廃屋のような佇まいだ。
「いや、住んでる。あそこ見て」
水野先生が目配せした方を見る。どうやら台所の窓のようだ。窓越しに、中に置いてある物が見えた。
「ほんとに住んでるんだ」
俺は突然、閃いた。
「わかった!佐竹が描いた、あの絵!暗くて重いあの絵は、何を描いたのか、分かりました!」
「いきなり名探偵ですか?」
若干、引き気味の水野先生にはお構いなしに、俺は続ける。
「そうかもしれないです!あの絵は、この家の壁を描いたんですよ!」
勝ち誇ったように言う俺に、水野先生の冷めた目が突き刺さる。
「俺の絵心も、相当ひどいと自覚してますけど、王妃様も、相当におひどいですね。黒と茶色と黄土色が混じって、しかもコケまで生えてる家の壁を、なんで描くんですか?ただ色調が同じってだけでしょ」
「あ、そっか」
「それよりもあそこです」
水野先生が指さす方向を見た。
「清水屋豆腐?お豆腐屋さん?」
佐竹の家を通り越した先に、小さなお豆腐屋が見えた。
「清水屋豆腐です」
水野先生が、俺の読み間違いを訂正した。
「なんで知ってるんです?」
「看板の上の方に『きよみずや』と、フリガナが書いてある。よく間違えられるんじゃないですか?だから、フリガナを後から付け足したんだと思うな。字体の色の濃さが違うし。ま、それはともかく、海野先生、ちょっとジャケットを脱いで、ネクタイ、とっちゃって下さい。はい、サクサクいきましょうね」
そういうと水野先生は、俺のジャケットを脱がして、ネクタイを取った。そして自分は緩んだネクタイをキリっとさせ、髪を整える。
「今から、俺はこの近くのK大学の准教授、海野先生は大学生。あそこはおぼっちゃま大学だから、なんとなくお育ち良くいきましょう。海野先生は、そのままでいけます。専門は郷土史で武蔵野の歴史をフィールドワークしてる。よし、これで行こう!」
この後は、水野先生の独壇場だった。
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