底知れぬ深い沼の底

春山ひろ

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底に知れぬ深い沼の底 番外編5

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 俺は自宅の玄関に座り込み、隆一さんの靴を一つひとつ磨いている。
 頭をからっぽにしたいとき、俺は靴を磨く。
 とくに隆一さんの革靴については、ほとんどプロじゃないかってくらい、きれいに磨き上げる。

 以前、水崎さんが教えてくれたんだ。
「海野先生、ダンナの靴は、女房の顔です!」

 それ以来、俺は気分転換したいとき、とにかく靴を磨く。
 今、磨いている靴は、初任給が出たとき、その大半をつぎ込んで隆一さんにプレゼントした靴だ。
 彼は涙目で「ありがとう」といいながら、世界に一つしかない宝物のように靴を抱きしめた。
 その後、俺にオーダースーツ2着と靴2着を「お礼だ」といって買ってくれた。これじゃ、プレゼントした意味がない。そっちの方がはるかに高額だったから。

 俺が無心で磨いていたら、「樹」と、隆一さんが声をかけた。
 振り向くと、ネコ柄の赤いエプロンに、大きなネコの顔がついたモコモコスリッパをはいた彼が立っていた。
このダサイ柄のエプロンとスリッパも俺が買った。百均で見つけて、かっこいい彼に、こんなの着せたいというイタズラ心からプレゼントしたんだけど、隆一さんの反応は、革靴をあげた時と同じで、百均のエプロンとモコモコスリッパを、まるで宝物のように大切に受け取ってくれた。

 俺は自然に笑顔になった。
 隆一さんは近づいて、玄関先に座り込んでる俺の後ろに同じように座り、背中から抱きしめてきた。

「せんべい鍋、できたぞ」
 二人の食事は、俺も作る時はあるけど、主に彼が作ってくれる。
 何事もスマートにこなす人だから、一緒に暮らし始めた頃、作る食事はイタリアンとかフレンチなのかと思ったけど、以外にも和食中心で、しかもご当地料理が得意だった。
 富士宮やきそば(静岡)とか、のっぺい汁(新潟)、今日の南部せんべい汁(東北地方)など、食材を取り寄せて、それはそれは美味しく作ってくれるんだ。

 クロスで磨く俺の手に彼の手が重なる。
 そこに、うちの子がやってきて、俺と彼の横に、体を押し付けるように丸くなった。


「俺は、男が好きなんだと思ってた」
 唐突に、隆一さんがいった。

 俺は手を止める。

「でも、今は違う」

 俺の手は動かない。

「男じゃなくて、樹が好きなんだ」

 俺は赤い顔を見られないように、そっと息をはく。
 恥ずかしさを隠すように、俺は笑った。
「変なの」
「何が?」
「キッチンには美味しい食事があって、広いてきれいなリビングもあるのに、家族全員が玄関先にうずくまってる」

 背中越しでも、彼が笑ったのが分かる。

 
 幸せだと思った。
 玄関先で二人と一匹、うずくまって、手には汚れた靴磨き用のクロス。

 それで幸せだった。


「『睡蓮』をモチーフにした連作を描いたモネって画家がいたろう」
 また、唐突に隆一さんが話し始めた。

 俺は、はっきり言って、よく知らないので、「う~ん、いたかも」と記憶をたぐって答えた。
「もう何年も前だ。そのモネの睡蓮ばかりを集めた展覧会が上野であった。やたらCMで『もう日本にはこない』とか煽ってたから、見に行ったんだよ。まだ法学部の学生の時だ。そしたら、ほんとに睡蓮ばっかりだった」
「あたり前だよ、その展覧会なんだから。綺麗だった?」
「綺麗というか、リビングに飾るには、ちょうどいいなという絵があった」
「え?だって、巨匠の絵なんでしょ?それをリビングに飾るの?」
「今もだが、当時も巨匠なんて思ってないから。だから、将来、自分の家を建てたら、そこに飾りたいと思ってな」

「え、もしかして、盗んだの?」
「…樹、お前の俺に対する認識はどうなってる?」
「ごめん、ごめんなさい」
「それについては後で話すとして、とにかく飾りたいと思って、警備員に声をかけて言ったんだ。『この絵を買いたい。いくらだ』って」
「マジで?そしたら?」
「その警備員は、今の樹と同じような表情して、『これは売り物ではありません!』と、えらい剣幕で答えたよ」
「それで?どうしたの?」
「『売りもしないのに、ただ見せるだけで金を取るとは、どういうつもりだ』と、悪態ついて帰った」

 俺は大爆笑した。
「画家は絵を売るために描くんだろう。たくさんの人に見てもらい、気に入ったら買ってほしい。それが彼らの生活の糧になる。違うか?」
 俺は、笑い過ぎて涙が出て、それを手でふきながら「確かに」といった。


「佐竹が、6年前に六本木で開いたグループ展、それは美大の同級生数人で集まって開いたそうだ」


 俺は、一気に笑いが止まった。後ろを振り返り、彼の目を見た。
 隆一さんは、なんでもないように続けた。
「そのうちの一人は、ウェブデザイナーをやっていて、そいつに話を聞いたんだ」
「どうやって?」
「電話して弁護士だといい、うちのホームページを作れるかと聞いた」
「マジで?ほんとに作るの?」
「まさか。これ以上、仕事が増えたら、パンクする。それはともかく、談笑しながら、さりげなくグループ展のことを聞いた。展示は1月中の4日間だけ。しかし、開催中に大雪が降った。それで、4日のうち、2日間は、なんと来場者ゼロという日があったらしい。さすがにへこんだそうだ。それで『みなさん全員が落ち込まれたのですね?』と、突っ込んでみた」

 俺はただ、穴があくほど彼を見続けた。
「なんと答えたと思う。一人だけ、まるで普段と変わらない様子のメンバーがいたという」
「それ、それって、もしかして」
「そのグループ展のホームページを見せて、『どの画家ですか』と、さらに聞いた」

「暗くて重い絵?」
「そうだ」
「佐竹だ!」
「そう…佐竹だけは、来場者ゼロなのに、少しも様子が変わらなかったそうだ。強がりではなく、見てくれる人がいないのに、落ち込んだ様子もなかった」
「画家なのに?」
「そうだ。変だろう?…俺も変だ」

「何が変なの?」
「俺の案件じゃないのに、まるで刑事みたいに聞き込みをした。そうだろう?」
「…隆一さん…」
「俺も、水野に説教される。でも、俺は知りたかった。だから人生で初めて、自分の案件でもない事案のために、わざわざ新宿まで行って聞き込みをした。でも行ってよかったと思う。佐竹は、何のために絵を描いていたんだ?ほんとに絵を描きたかったのか?どっちにしろ、かなり胡散臭いヤツだろう?それが分かった」

「隆一さん…」

 俺は泣きそうで、でも涙は出なくて、ただ彼の後押しに応えてみようと思った。
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