底知れぬ深い沼の底

春山ひろ

文字の大きさ
7 / 30

底に知れぬ深い沼の底 番外編4

しおりを挟む

 「これが委任状です」
 水崎さんが、有馬祥子さんの前に委任状を用意した。
 今、事務所の俺の部屋で、テーブルをはさんで目の前に座る女性、この人が今回の俺の依頼人で、離婚した元夫を損害賠償で訴えようとしている人だ。
 今日は、正式に有馬さんの代理人になるべく、水野先生を交え打合せをしているところだ。

 水崎さんが、有馬さんに委任状について丁寧に説明している間、ソファの隣に座っている水野先生が目配したので、二人で部屋を出た。
 水野先生は、共有スペースで声を潜めて「俺からふっちゃった案件だけど、これ、かなり厄介だな。有馬さんは、ダンナの独り言を聞いたというけど、録音したわけじゃない。証拠は、聞いたという、彼女の証言だけ。それだけで、ダンナが『聞こえて話せる』ことを立証するのは厳しいぞ。その立証責任は、こっちにあるんだから。相手方は、当然、『聞こえません、話せません』と主張して、診断書も出すだろうさ。だから、それを虚偽だと言えるほどの証拠が必要だ」といった。

 俺も、それは考えた。

 俺は有馬さんの元夫で、彼女が訴えようとしている相手・佐竹洋一の住民票を出した。
「この住民票によると、今、佐竹さんは実家に住んでいるようです。有馬さんによれば、離婚前、佐竹さんと実家の関係は良好とはいえなかったらしいですけど、戻れる場所は、ここしかなかったんでしょうね。それで、佐竹さんの答弁書を見てから、俺、彼の実家の近くに調査に行こうとは思っています」
「そうだな、その時は俺も行くから。海野先生を一人で行かせたら、その翌日に俺は世界から消される」
 俺が目を見張り、「そんな」と言いかけたら、「全然、オーバーじゃないから!」と、水野先生がかぶせてきた。
 その勢いに押され、俺は「宜しくお願いします」としか言えなかった。

 二人して部屋に戻ると、もう委任状は出来上がっていた。
「あの、先生、私が訴えたというのは、いつ、その、佐竹に分かるんでしょうか」
 有馬さんは、右手で左手の薬指のところを握るようにしながら、おずおずと聞いてきた。
そこに指輪はない。きっと癖になっているんだろう。

 俺は努めて明るい声で、「訴状を裁判所に出すと、裁判所から佐竹さんのところに送られるんです。そうですね、提出してから、一週間ほどで送達されるはずです」
「…分かりました。いろいろとお世話を掛けます。着手金と印紙代は、水崎さんに渡しました。領収書は頂きました」
 そういって立ち上がった有馬さんは、少し笑って「宜しくお願いします」と、頭を下げた。

「こちらこそ、宜しくお願いします」
 俺は、有馬さんよりも低く頭を下げた。
 彼女の背負ってきた辛さが、こんなことで軽くなるとは思わないけど。

 水崎さんが一階まで有馬さんを送っていくと、水野先生は、少し砕けて長い脚を組み、首元に手をやってネクタイを緩めながら、「まあ、相手方の答弁書を見てからだな」といい、「訴状、頼むわ。出来たらメールで送って。で、俺の名前も書いといて」という。
 俺が「そんなわけにはいきませんよ!着手金だって、水野先生は受け取ってないのに」と驚いて答えると、「主任弁護士は、当然、海野先生だよ」と笑いながらも、「マジで、俺の名前、入れといて。そうしないと世界から消滅される」と、途中から真顔になった水野先生は、先程と同じことを言った。

 隆一さん!水野先生に何を言ったんだ?!

 水崎さんは部屋に戻るなり、独り言のようにつぶやいた。
「どうして、ロバート・ブラウニングの詩なの?」

 それが謎だ。
 佐竹洋一は、どうしてブラウニングの詩をささやいたのか?

「有馬さんの話じゃ、そんなにこの詩人が好きそうに見えなかったと言ってましたよね。この、佐竹さんでしたか、この方、美大を出て、ずっと絵を描いていたんでしょ」
「でも、全然、売れなかった。俺、ネットで調べたんだよ。そしたら、一つだけヒットした。でもたった一つだけ!それがこれだ」
 そういうと、水野先生はスマホを操作して、俺たちに見せた。
「どうやら、6年前に六本木の小さなギャラリーでグループ展を開いたようだ。その時に作成したホームページが、そのまま残ってて、絵もあった」

 三人でスマホをのぞき込む。
「…なんか暗い絵ですね」
「抽象画かしら?暗いっていうより、失礼ですけど、絵が古臭い」
「水崎さんは、はっきりいうね」
「だって、暗くても、光っている絵ってあるんですよ。例えばピカソとか」
「ピカソと比べたらダメだろ」

 二人の話し声が遠くに聞こえる。

 この絵を描いた人が佐竹洋一で、聞こえて話せるのに、それを隠し、ロバート・ブラウニングの詩をつぶやいた。

 暗く重い絵。
 絵心なんてこれっぽっちもない俺には、さっぱりわからない。この絵を逆さに飾っても、俺は、その間違いに気づかないだろう。

 この時は、こんなふうに思っただけだった。

 それから約1カ月後、思いがけない展開になった。
 佐竹洋一は、答弁書を出さず、第1回口頭弁論期日も欠席してしまった。
 これをすると、被告(佐竹)は、原告(有馬さん)の主張をすべて認めたことになる。
 裁判所は、被告には「争う姿勢がない」、「反論がない」と判断し、被告欠席のまま、原告の主張通りの判決を下すんだ。
 つまり、佐竹は有馬さんが望む賠償金を支払えという判決になる。

 俺が「どうしてなんだろう」と言ったら、「海野先生は、誰の代理人なんだ。俺たちは代理人の権利を守るのが仕事だ。刑事じゃないんだよ」と、至極、真っ当に水野先生に説教された。

 その通りだとは思った。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

側妻になった男の僕。

selen
BL
国王と平民による禁断の主従らぶ。。を書くつもりです(⌒▽⌒)よかったらみてね☆☆

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

敵国の将軍×見捨てられた王子

モカ
BL
敵国の将軍×見捨てられた王子

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

処理中です...