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底に知れぬ深い沼の底 番外編4
しおりを挟む「これが委任状です」
水崎さんが、有馬祥子さんの前に委任状を用意した。
今、事務所の俺の部屋で、テーブルをはさんで目の前に座る女性、この人が今回の俺の依頼人で、離婚した元夫を損害賠償で訴えようとしている人だ。
今日は、正式に有馬さんの代理人になるべく、水野先生を交え打合せをしているところだ。
水崎さんが、有馬さんに委任状について丁寧に説明している間、ソファの隣に座っている水野先生が目配したので、二人で部屋を出た。
水野先生は、共有スペースで声を潜めて「俺からふっちゃった案件だけど、これ、かなり厄介だな。有馬さんは、ダンナの独り言を聞いたというけど、録音したわけじゃない。証拠は、聞いたという、彼女の証言だけ。それだけで、ダンナが『聞こえて話せる』ことを立証するのは厳しいぞ。その立証責任は、こっちにあるんだから。相手方は、当然、『聞こえません、話せません』と主張して、診断書も出すだろうさ。だから、それを虚偽だと言えるほどの証拠が必要だ」といった。
俺も、それは考えた。
俺は有馬さんの元夫で、彼女が訴えようとしている相手・佐竹洋一の住民票を出した。
「この住民票によると、今、佐竹さんは実家に住んでいるようです。有馬さんによれば、離婚前、佐竹さんと実家の関係は良好とはいえなかったらしいですけど、戻れる場所は、ここしかなかったんでしょうね。それで、佐竹さんの答弁書を見てから、俺、彼の実家の近くに調査に行こうとは思っています」
「そうだな、その時は俺も行くから。海野先生を一人で行かせたら、その翌日に俺は世界から消される」
俺が目を見張り、「そんな」と言いかけたら、「全然、オーバーじゃないから!」と、水野先生がかぶせてきた。
その勢いに押され、俺は「宜しくお願いします」としか言えなかった。
二人して部屋に戻ると、もう委任状は出来上がっていた。
「あの、先生、私が訴えたというのは、いつ、その、佐竹に分かるんでしょうか」
有馬さんは、右手で左手の薬指のところを握るようにしながら、おずおずと聞いてきた。
そこに指輪はない。きっと癖になっているんだろう。
俺は努めて明るい声で、「訴状を裁判所に出すと、裁判所から佐竹さんのところに送られるんです。そうですね、提出してから、一週間ほどで送達されるはずです」
「…分かりました。いろいろとお世話を掛けます。着手金と印紙代は、水崎さんに渡しました。領収書は頂きました」
そういって立ち上がった有馬さんは、少し笑って「宜しくお願いします」と、頭を下げた。
「こちらこそ、宜しくお願いします」
俺は、有馬さんよりも低く頭を下げた。
彼女の背負ってきた辛さが、こんなことで軽くなるとは思わないけど。
水崎さんが一階まで有馬さんを送っていくと、水野先生は、少し砕けて長い脚を組み、首元に手をやってネクタイを緩めながら、「まあ、相手方の答弁書を見てからだな」といい、「訴状、頼むわ。出来たらメールで送って。で、俺の名前も書いといて」という。
俺が「そんなわけにはいきませんよ!着手金だって、水野先生は受け取ってないのに」と驚いて答えると、「主任弁護士は、当然、海野先生だよ」と笑いながらも、「マジで、俺の名前、入れといて。そうしないと世界から消滅される」と、途中から真顔になった水野先生は、先程と同じことを言った。
隆一さん!水野先生に何を言ったんだ?!
水崎さんは部屋に戻るなり、独り言のようにつぶやいた。
「どうして、ロバート・ブラウニングの詩なの?」
それが謎だ。
佐竹洋一は、どうしてブラウニングの詩をささやいたのか?
「有馬さんの話じゃ、そんなにこの詩人が好きそうに見えなかったと言ってましたよね。この、佐竹さんでしたか、この方、美大を出て、ずっと絵を描いていたんでしょ」
「でも、全然、売れなかった。俺、ネットで調べたんだよ。そしたら、一つだけヒットした。でもたった一つだけ!それがこれだ」
そういうと、水野先生はスマホを操作して、俺たちに見せた。
「どうやら、6年前に六本木の小さなギャラリーでグループ展を開いたようだ。その時に作成したホームページが、そのまま残ってて、絵もあった」
三人でスマホをのぞき込む。
「…なんか暗い絵ですね」
「抽象画かしら?暗いっていうより、失礼ですけど、絵が古臭い」
「水崎さんは、はっきりいうね」
「だって、暗くても、光っている絵ってあるんですよ。例えばピカソとか」
「ピカソと比べたらダメだろ」
二人の話し声が遠くに聞こえる。
この絵を描いた人が佐竹洋一で、聞こえて話せるのに、それを隠し、ロバート・ブラウニングの詩をつぶやいた。
暗く重い絵。
絵心なんてこれっぽっちもない俺には、さっぱりわからない。この絵を逆さに飾っても、俺は、その間違いに気づかないだろう。
この時は、こんなふうに思っただけだった。
それから約1カ月後、思いがけない展開になった。
佐竹洋一は、答弁書を出さず、第1回口頭弁論期日も欠席してしまった。
これをすると、被告(佐竹)は、原告(有馬さん)の主張をすべて認めたことになる。
裁判所は、被告には「争う姿勢がない」、「反論がない」と判断し、被告欠席のまま、原告の主張通りの判決を下すんだ。
つまり、佐竹は有馬さんが望む賠償金を支払えという判決になる。
俺が「どうしてなんだろう」と言ったら、「海野先生は、誰の代理人なんだ。俺たちは代理人の権利を守るのが仕事だ。刑事じゃないんだよ」と、至極、真っ当に水野先生に説教された。
その通りだとは思った。
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