底知れぬ深い沼の底

春山ひろ

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底に知れぬ深い沼の底 番外編3

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 土曜日は、ちょっと気だるい。
 俺は、とっくに起きていたのに、グズグズと布団の中にいた。ベッドにいたと思っていたけど、布団から顔を出したらリビングだったのには、ちょっと驚いたけどね。
 
 俺が寝ている間に、隆一さんが抱き上げて運んだに違いない。
 彼は、時々、こういうことをする。きっと何か意味があるんだ。水崎さんに「観察力と調査力がない」と言われた俺だけど、これは今までの経験値で予想できた。しかし、予想はできたものの、その「何か」までは分からないんだけどね。

 ニャーと、猫が俺の顔を舐める。めっちゃかわいい、うちの子だ。
 今年、隆一さんから誕生日のプレゼントは何がいいかと聞かれた時、俺は迷わず猫と答えた。毛の長い、横文字系の猫は苦手だから、「普通の猫がいい。色は白!」とだけ伝えたら、彼は一瞬、ものすごい負のオーラを出した後、それを瞬時に打ち消して、最高の笑顔を見せながら、「ここで猫を飼うリスク」とやらを一個づつ挙げ、俺の説得を試みた。

 隆一さんは、立て板に水のように、まずリスクをあげ、次にそれに対応できるか否かを述べて、例えるなら、まるで依頼人と代理人の両方を一人でこなす、主尋問の一人芝居のようだった。
 そんな隆一さんに、ペーペーの弁護士である俺が敵うはずがない。そこで俺は最終手段に出たんだ。
まあ、正直いえば、ただ子供のように「飼いたい、飼いたい。買って、買って」と、手足をばたつかせて我儘をいっただけなんだけどね。

 結局、隆一さんが折れてくれて、元はオス(去勢したので性別不詳)の白い子猫が我が家にやってきた!
 あんなに猫を飼うのを嫌がってた隆一さんだけど、彼のすごいところは、「飼う」と決めたからには、世話に手を抜かず、徹底的に猫を躾たところだ。
 俺は、うちの子以外は知らないけど、この子は、とってもお行儀がいいと思う。トイレのマナーは当然だし、食事はキッチンの床の上以外では摂らない。あとは自由に家のあちこちにいるけど、爪を立てることもない。

 俺の我儘をとことん聞いてくれる隆一さんだけど、この猫に名前を付けることだけは、俺がどんなにお願いしても、首を縦にはふらず、「猫(これ)に名前をつけたら、この地球上に樹の愛情を受ける哺乳類が、自分以外に存在することを、俺自身が受け入れたことになる。それだけは絶対に認めない」と、断言したんだ。

 これを水崎さんに話したら、「要するに、猫に嫉妬したってことでしょ」と、一刀両断されて終わった。つまり、そういうことなのかな。

 だから、うちの子は「猫」が名前だ。「猫、猫」と呼ぶのは、最初は不便だなと思ったけど、うちにはこの子しかいないから、別に個体識別用の名前はいらないかなと思う、この頃だ。

 猫が顔を舐めるので、半身を起こして抱っこしていると、隆一さんが「樹」と声をかけながら、サラダボールを手にしてキッチンから出てきた。
 彼は、俺が猫を抱いている時、必ず、100%、絶対に俺の名前を呼んで近づいてくる。そして猫にいうんだ、「お前に樹の名前は呼べないだろう」って。

 俺は、けっして想像力が豊かな方じゃない。いわゆる天才的なひらめきなんて、あろうはずもないが、この時、隆一さんと猫の間には、どんなに晴天の、いわゆるピーカンの日でも、鎌倉時代の天才仏師・運慶作の金剛力士像と、江戸時代の鬼才絵師・狩野探幽の雲龍図が、真っ黒な雷雲を背負い、轟く雷鳴を効果音に、天界を巻き込む大闘争を繰り広げる映像が、いつも浮かんでしまうんだ。

 これも水崎さんにいったら、極めて冷静に「違うと思います。何しろ魔王ですからね、猫なんて『使い魔』です。だから、主従関係を再確認してるだけです」と、これまた一喝された。
 なるほど魔王なら、猫語も理解して、意のままに操れるのかもしれない、なんてことを考えている間に、猫が腕からするりと抜けていった。

「ほら、樹、あかりちゃんが出産したよ」

 隆一さんの表現力は、時々、おかしい。
「弁護士に文章力なんて必要ない!」と断言する松井先生のもとにいたのに、彼の準備書面は論理的で隙がなく、切れ味鋭い上に、なんといっても文章が整っているんだ。あんなのが書ける人が、プチトマトに「あかりちゃん」と名付け、「出産した」なんて表現する。

 ほんとに不思議な人だよ、隆一さんは。

 あかりちゃんは、俺たちが家庭菜園で育てたプチトマトだ。
 プチトマト以外にナスも育てたけど、これはうまく育たなかった。実はなったけど、食べたら硬くて美味しくなかったんだ。栽培農家の人を純粋に尊敬した。どうしたら、実はつまっているのに柔らかいナスが作れるんだろう。
 ナスはだめだったけど、プチトマトはうまく育った。それが「あかりちゃん」だ。
 隆一さんは、猫に名前を付けることは嫌ったのに、どうしてプチトマトには名付けたのかって?
 彼に言わせると、「樹の体に栄養を補給する、大事な使命をもった食材に、名付けなくてどうする」ということらしい。
 水崎さんに聞かなくても、俺は赤面するしかなかった。

 そんなわけで、今、ソファに座った俺は、サラダボールに入ったあかりちゃんと対面中だ。そして彼が、いつの間にか俺をベッドから抱いてソファに運んだ理由に合点がいった。今日は、あかりちゃんを収穫して初めて食べる日だ。きっと俺を驚かして(でも行儀のいい彼はベッドで食べるなどという作法は許されないから)、内緒で運んで一緒に食べようと思っただろう。

「美味しい!」
俺は、あかりちゃんを1個ほおばって、その瑞々しさに、感嘆の声を上げた。
「うまく育ったな」
 そういって隆一さんもあかりちゃんを食べた。額がくっつくほど寄り添って食べるあかりちゃんは、ほんとに美味しい。
 きっと二人で食べるから美味しいんだ。

「あかりちゃんは、日本橋産のプチトマトだから、コスト面でいったら、途方もない高級トマトじゃない?」
 あかりちゃんは、俺たちの事務所兼住居である隆一さんの自社ビルの屋上で育てたんだ。

 隆一さんの恐るべき才能は、弁護士という仕事面だけでなく、財テクにもいかんなく発揮され、投資や株やらで大きな資産を形成し、彼は30代半ばで中央区日本橋に自社ビルを建てた。
 この地上6階地下1階のビルは、けっしてものすごく敷地面積は広いとまでは言えないし、一見するとちょっと瀟洒なビルくらいの外観だが、実は建物の構造と内装、そしてインテリアにはとことんこだわっていた。
 隆一さんの大学時代の友人に一級建築士がいて、その人に図面を書いてもらったんだけど、あり得ないほど値切って値切って値切り倒したので、「ほとんどうちの利益は出ません」と、そのイケメン建築士は涙目で言っていた。

 こうして竣工したビルは、水崎さん曰く「まさに魔王の城」だそうだ。
 1階から3階がオフィスフロアで、4階から上が居住スペース。俺たちは通勤時間1分以内でオフィスに到着できる環境になった。
 隆一さんが自社ビルにこだわったのは、とにかく俺を満員電車に乗せたくないという、この一点だけだという。
俺の通勤ストレス解消のために、ここまでしてくれたのかと感動したけど、水崎さんは、「世間の下々の者に、海野先生を見せたくない、ただそれだけです」と言い放った。
 俺の外見なんて、心配するほどじゃないのに。でも、通勤ストレスから解放されるのは、願ったり叶ったりだから、素直にうれしかった。

「あかりちゃんは、樹の栄養補給という崇高な使命があるからこそ存在価値が生まれる。よって産地による高級感など、意味がないんだよ」
 そういってにっこり笑う隆一さんに、俺は恥ずかしくて赤面するしかなかった。

「それよりも」と、いつもよりも重々しい口調になった隆一さんの声に、俺は赤い顔をあげた。
「あの案件、引き受けるつもりなのか」
 彼のいう「あの案件」とは、離婚した元夫婦の損害賠償請求の案件だ。
 もともとは水野先生にきた案件だったことで、彼は俺が引き受けることに難色を示していた(事実は難色どころではなく腸が煮えくり返り、脳が沸騰するくらい怒りMAX)。
それでも、既に依頼人から話は聞いた俺は、受けることにしたんだ。

 隆一さんは俺を抱き寄せ、頭のてっぺんにキスをしながら「水野にも、当然、手伝わせる」と、こともなげにいうので、俺は少しだけ体をずらし、彼の顔を下からのぞき見て、「二人も代理人は付けられないと思うよ。依頼人は、そこまで余裕はなさそうだし」と答えた。
 すると、もう一度、同じ仕草で、でもさっきよりも強い力で俺を抱き寄せた隆一さんは、「いや、ヘルプで、だ。水野の費用まで出してもらおうとは思ってない」と言い切った。
「水野先生、納得するかな?」
「心配ない。ヤツは受けるさ」

 それから3日後、依頼人を含め水野先生と3人で会ったけど、その時の水野先生は、げっそりして、まるで10歳くらい老け込んだようにみえた。

 隆一さん、水野先生に何を言ったんだ?
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