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底に知れぬ深い沼の底 番外編2
しおりを挟む目の前の水崎さんが、「まったくもう!」といったので、俺は暗い顔を上げた。
「海野先生は、観察力と調査力がなさすぎです!いいですか、あの魔王の執着偏愛を甘くみたらいけません!」
俺は若干引き気味で、「ま、魔王?」と答えるのが精一杯だった。
「そうです!日本総合法律事務所(あっち)のリーガルアシスタントは、全員、柏木先生のことを『魔王』と呼んでました。『魔王』っていったら柏木先生、柏木先生といったら『魔王』なんですよ!この間、私、空気清浄機が欲しいな~って、魔王におねだりしたんです。そしたら、なんて言ったと思います!『うちには天然の空気清浄機があるだろ』って、本気で答えなさった!」
俺は意味が分からず、「天然の空気清浄機?何それ?」というと、水崎さんは、綺麗な右眉をハリウッド女優のように、くいっと上げ、俺をビジッと指しながら「海野先生のことです!」といった。
「俺?」
水崎さんは、「魔王曰く」と言ったあと、隆一さんの声色をマネて続けた。
「『海野樹。海に野原に樹木。どうだ!既に名前から完璧にマイナスイオンが出てるだろ。それだけじゃない、樹の毛穴からもマイナスイオンが出てるんだ』、ですって。これを魔王は、本気で言ってましたからね。その後も、恥ずかしげもなく、海野先生を抱きしめると、どんな風にマイナスイオンが出るのかっていうことを、微に入り細に渡り、とくとくと話して下さいました。それ、お聞きになります?」
俺は、自覚できるほど全身がゆだり、「あ、いいです」と、顔を下に向けた。
「そんなわけですから、魔王の執着偏愛は揺るぎません。ならば!どうして、あの魔王が、カチカチ山がきたら、海野先生を遠ざけるのか?その答えは簡単です」
カチカチ山というのは、きっと金山さんのことなんだろうとは察しがついたし、どうして「カチカチ山」と呼ぶのか知りたい気もしたけど、水崎さんの勢いに押され、今は話題を遮ってはいけない気がして、俺は沈黙し続けた。
「カチカチ山の狙いは、ずばり、海野先生だからですよ!」
「お、俺??」
「そうです!だいたいあの若さで銀座にお店が持てるといったら、間違いなくパトロンがいるんですよ。それで私はネットワークを駆使して調べました」
出た!「ネットワーク」!この「水崎ネットワーク」、または「水崎ブレーン」(命名:いずれも隆一さん)の存在が、松井先生が水崎さんを買っていた大きな理由の二つ目でもあるんだ。
水崎さんは、大企業で秘書をしている友人が多く、それが彼女を中心に「水崎ネットワーク」と呼ばれる、恐るべき情報収集能力を有した侮れない集団を形成しているんだ。
そこに入れるのは、水崎さんが入会をOKするかしないかで決定するという、甚だ主観に基づく好き嫌いの世界だ。
以前、彼女に具体的な入会決定基準を聞いたら、「ちょっと不幸感を漂わせてないとだめ」と言われた。不幸感ってなんだろう。
「ハッピーオーラ全開でも、海野先生なら、私たちの集まりに参加してもよろしくてよ」などと、水崎さんから誘われたことがあるけど、俺は丁寧にお断りしている。おっかなくて、とてもじゃないが行けやしない。
「あのカチカチ山は、某大手人材派遣会社社長の愛人なんです。それで」といって、水崎さんはスマホを操作し、俺に見せた。
「これ、カチカチ山の裏アカです。見てください」
よくそんなこと知っているなという疑問は、とりあえずおき、差し出されたスマホを覗き込むと、そこには、若くて綺麗な細身の男性の立ち姿の写真がアップされていた。よく見ると、男性の右腕には女性の腕がからまっていたので、ほんとは男女二人で写っている写真を、あえて男性を中心にトリミングしてアップしたようだ。
「次はこれ」
水崎さんが次に見せてくれた写真は、同じ裏アカにアップされていた別の写真で、先ほどとは違う男性が写っていた。
「まだ他にも何人も若い男性が写っているんですよ。この写真みて、何か気づきません?」
俺は、水崎さんのスマホの画面を見ながら、「これ、金山さんの彼氏たち?つまり、彼女は、モテるってことかな?」と、考えた末に答えると、即座に「みんな、顔立ちが似てるでしょ!」と、水崎さんに指摘された。
「これが彼氏かどうかは分かりません。単なる遊び友達なのかもしれないし、この件については今後の調査が必要です。それはともかく、みんな似てる。大事なのは、そこです。男性は、全て綺麗系で、小柄で細身で色が白い。でしょ?」
そういって水崎さんは俺を見た。それはつまり、そのカテゴリーに俺も入るってことだよね?観察力はなくても、なんとなく分かった。
「ええと、もしかして金山さんは俺狙いってこと?」
「よくできました!海野先生は、カチカチ山の好み、まさにドストライクなんですよ!それを、あの魔王が気付かないはずがありません。間違いなく、魔王は初対面の時、カチカチ山の目つきや空気で察して、海野先生を遠ざけようとしてるんです!」
俺は、思ってみなかった回答に「そ、そうなのかな」と答えるのが精一杯だ。
水崎さんは「いいですか!魔王の執着偏愛は絶対ということが分かっていれば、おのずと、この回答にたどり着きます!」と言ったあとに、声を潜めてブツブツ(「この部屋にだって、いくつも盗聴器やカメラが仕掛けてあるし、海野先生の時計やスマホにもGPSやら何やらかんやら仕掛けてあるし」)言っていたけど、聞こえなかった。
水崎さんは、「そんな訳ですから」と、俺を見定めて「海野先生、そのお綺麗な顔を曇らせたらいけません。あと、これだけは絶対に忘れちゃだめです」といって、声を潜めた。
「あのカチカチ山には、十分、注意して下さい。なんやかんやと事務所にきても、ていよく魔王があしらっていますけど、万が一、いいですか、万が一にも外で、カチカチ山に『あら~、海野先生、偶然ですわね』とかいって、声を掛けられたら、すぐに逃げるんですよ!分かりましたか!」
その勢いに押されて、俺が高校時代でもしたことのないような「ハイ!」という、百点満点の返事をした時、隆一さんの部屋のドアが開く音がした。
「あら、カチカチ山が帰るようだわ」
「あの、なんでカチカチ山なの?」
ずっと聞きたかったことが、やっと聞けた。このままだと、俺の中でも金山さんではなく、「カチカチ山」と認識してしまいそうだ。
「だって、ヒールをカチカチ、音を立てて歩くでしょ、あの女は!」
まるで水崎さんの答えを裏付けるかのように、カチカチとした音が聞こえた。
「あんな下品な歩き方してたら、そりゃ、音もするわ!」
「そうなんだ」
「今日は、グッチのパイソン柄のピンヒールでしたけど!あのカチカチ音で、ウン十万円のお品物も台無しですわ!」
「何が台無しだって?」
気が付けば、隆一さんが俺の部屋のドアを開けて、やってきた。
地色が濃紺で細かいチェック柄の、一見すると普通のスーツに見えるけど、お気に入りのアンティークボタンがついたベストによって、実はただのスーツじゃないことが分かる。水崎さんなら、「見る人が見れば分かるんです!」と、鼻息荒くいいそうなカッコよさだった。
場の空気を読むのが最高にうまい(これであらゆる修羅場を回避した:隆一さん調べ)水崎さんが、いつの間にかカップ類をトレーにのせて「美しさが台無しだった海野先生のお顔に、本来の輝きが戻ってらしたということです」と、にっこり笑って、さっさと出ていく。
「あれはなんだ?」
隆一さんが、水崎さんの言葉に状況説明を求めてきたけど、彼の愛情を疑ったわけではないが(ここが大事!)、カチカチ山への対応に、ちょっと(だいぶ)、勘違いの嫉妬をしたことで、俺はなんとなく顔が赤くなり、言葉が出なかった。
隆一さんは、俺が挙動不審になっても、あまり突っ込んで聞いたりしない(それはあちこちに仕掛けてある盗聴器具類によって、後で調べればいいと思っているから:作者注釈)。
「樹、顔が赤い」
そういって迫力の魔王が近づいてくる。
そして、いつでもどんな時でも、そこは俺だけの場所である彼の腕の中にすっぽりと納まると、久しぶりに心の底から安堵して、ほっと溜息をついた。
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