底知れぬ深い沼の底

春山ひろ

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番外編 果てしなく遠い空の彼方⑤

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 ※途中で視点が水野から白川に変わり、過去に戻ります。



 俺が東京地裁の弁護士控室に入り、上着を脱いでPCを立ち上げようとしていると、ノックをせずに柏木が入ってきた。
 不機嫌丸出しの声で「なんだよ」と言えば、柏木は「正義の味方の後ろ姿が見えたから、追いかけてきた」と、意味不明のことをのたまった。
 
 俺が理解していないと察したのだろう、柏木は「松井先生ボスからのメール。俺とお前にきただろう」という。

 川端ヤツは、松井先生に「態度を改めます」とかなんとか言ったらしく、川端ヤツから聞き出した松井先生が、わざわざ俺と柏木宛に謝罪のメールをくれたのだ。

 俺は別に松井先生に謝ってほしかったわけじゃないが、先生は「本当にすまなかった」、「白川君に辛い思いをさせてしまった」と、何度も謝罪の言葉を述べていた。
 しかしだ!
「白川君さえよければいつでも戻ってきてほしい」などと、聞き捨てならない文言もあった。
 龍之介は、今は俺の事務所で働いているのを知っていながらいうのだから、ほんとに狸じじいだ。

 そうはいっても、松井先生ボスの気持ちは、(戻って欲しい云々は全て省略して)、きっちり龍之介には伝えた。

 龍之介は、辛そうな口調で言っていた。
「俺が、もっと松井先生を信頼してれば良かったんです。すごい先生だって尊敬していたけど、川端先生のことを気にかけておられたから、俺が言ってもと思ってしまって、卑屈になってた。だから、俺も悪いんです。…もっと松井先生を信頼してれば」
 すかさず俺が「いや、そこはあんまり信頼しなくてもいいんじゃないか」と釘を刺すと、彼は、まるで異世界の生物でも発見したかのような顔を見せた。

 ほんと、どんな表情でも、龍之介はかわいいな。


  俺が龍之介を思い出してニヤニヤしていると、柏木が水を差してくる。
 「松井先生ボスから電話がきた。お詫びに5人で一席、設けたいとさ」
 「5人?なんだそりゃ」
 「たつきと白川君を入れてだろ」
 「親戚の集まりかよ。冗談じゃない。松井先生ボスなら『お詫びに、この案件を』とか言い出して、めんどくさいのを押し付けられるのがオチだろ!」
 「俺もそう思う。だから!お前だけいけよ」
 「なんでそうなる!俺はいやだっていってるだろ。それに柏木に電話きたんだろ?お前が行けよ」
 「カ行(※柏木)とマ行(※水野)の違いで、早く検索できた俺にかかってきただけだろ。そもそもお前が発端だし」
 「俺は新婚なんだよ!お前のとこみたく熟年夫婦じゃなくて、うちは新婚なの!」
 「何をぬかすか。うちは永遠に新婚だからな」
 「あのな、俺はディープキスのやり過ぎで、牛タンが食えなくなったの!」
 「なんだ、それ。お前はほんとにおかしいな!」


 誰かがノックしてドアを開ける。
 「先生方!お静かに!」


 俺と柏木は同時に頭を下げた。
 
 ドアが閉まると柏木はムキになって「牛タンのせいで注意されたんだから、お前がいけよ」と、支離滅裂なことをのたまい、結局、あり得ないほど低レベルな言い合いを続けたのだった。




 それから数日たったある日、事務所に宅配便が届き、受け取った龍之介が「柏木先生からだ!」と声を上げた。
 書面を作っていた俺は「何?すぐに110番だ!爆弾処理班も呼んだ方がいいな!」と叫んだが、呆れ顔の龍之介が「クール便ですよ」といい、品名欄を見て喜んだ。


「牛タンだ!」


 ほんとに柏木は、やなヤツだなと思ったが、ふいに閃いた!
「龍之介!この牛タンをツマミにお茶するぞ!」
「なんですか、それ?」
「いいから、緑茶をいれろ!おやつのせんべいも忘れるな」
「牛タンは?」
「それはテーブルに置いとけ。いいから早くお茶、入れろって!」


 その後、俺たちは来客用の三人掛けソファに、窓の方を向いて肩を並べて座った。
 朝から降っていた雨は上がり、晴天が眩しい。
 天気予報は大当たりだ。
 開け放った窓から気持ちのいい風が入ってきた。
 テーブルには豪華な牛タン(ただ見るだけ)、そして固焼きせんべいに濃い目のお茶。

「気持ちいいですね~」
 龍之介が、彼方の空を見ながらつぶやく。

 俺は深呼吸して言った。
「おらあ、龍之介が好きらすけ、ばか大事らて」

 龍之介は、鳩が豆鉄砲を食ったように目を見開き、俺を見上げてガン見した。
「え、あ、通じてない?新潟弁!“今日からあなたも新潟県民”という動画サイトで習ったんだけど。龍之介は新潟だろ?実家から蜜柑が送られてきたから、温かいとこの出身かと思ったんだけど、新潟なんだよな?」
「な、なんで?」
「龍之介のご両親にちゃんと挨拶したいから。へんだったか?」

「なんで、そんな…」
 そういうと、龍之介は俺に抱きつき、肩を震わせて泣き出した。
 俺は、そんな彼を抱きしめる。
「俺にとって龍之介は宝物だけど、きっとご両親にとってもそうだと思う。だから、ちゃんと挨拶しときたい。でも、さすがに俺もビビるから、今から新潟弁を習おうと思ってな。なおかつ贈り物作戦を決行するんだ。これは、実はさっき思いついたんだけど。手始めに、この豪華な牛タンだ。ご両親に送らないか?毎月だと恐縮されそうだから、二ヶ月に一回とかさ。うまそうな肉とか、肉とか、肉とかさ」
 龍之介はくぐもった声で「…肉ばっかり」といって、俺に抱き着いたままで、顔をあげてくれない。
「龍之介のかわいい顔が見たいな~」
 
 俺の願いが通じたのか、龍之介が顔を挙げた。目は真っ赤で、ついでに顔も赤い。
「もう、なんで先生は!」
「そんなにかっこいいのかって?」
「違う!ここ!」
 龍之介は、俺の股間を指す。


「もう、た、たってるし!なんで?」
「そりゃおまえ、龍之介に抱き着かれたら、俺のだって大喜びするだろ」
「そうじゃなくて、せっかく、もう!」


 龍之介は「もう、もう」と、笑い泣きしながら怒り出した。


 やっぱり牛タンは、食えないな~。
 




◇◇◇◇◇◇◇◇※白川視点


 ――三か月前

「この度は、一身上の都合により…」
 俺は、PC画面を見ながら、入力したばかりの退職願を声に出して読んだ。

 会社には1ヶ月前に辞める意思を伝えた。引継ぎも終わってる。あとはこれを明日、出せばいいだけだ。出すのはいつでもいいと言われて、ここまで引っ張ってしまった。

 空しくなった。

 木曜日の夜。

 事務所には誰もいない。

 ここは、日本でも指折りの法律事務所だ。転職しても、ここ以上の待遇は得られないだろう。
 考えると、どんどん暗くなる。
「保存」、「印刷」と機械的にクリックして複合機まで取りに行く。

 そこから見渡す事務所内は広く、さらに目を移せば、窓から夜景が見渡せた。


「ここから見る雲は、きれいだったな…」
 明日は、せめて晴れればいい。最後の日だけは、もう一度、きれいな景色がみたい。


 辞めたくない。

 でも…。


 あの先生は、自分の部屋に俺を呼んで怒鳴るんだ。

 思い出すと、体に震えが走る。
 …もう無理だ。
 俺は机に戻り、白い封筒に退職願を入れた。



「うわ!」
 突然、目の前に折詰の寿司が現れ、上から水野先生の「よう、お疲れさん」という声がした。
「びっくりした!」と言いながら、俺はさりげなく机の引き出しに退職願を隠す。


「お土産。これ、ちゃんと握ってもらったものだからうまいよ。一緒に食べよう。お茶、いれてくれる?」
「あ、はい」

 そういって俺は給湯室にいった。

 水野先生は、うちの事務所のエースだ。3か月前にもう一人のエース、柏木先生が独立してからは、特に忙しくされていた。
 柏木先生と水野先生は、男から見ても非の打ちどころのない美丈夫で、仕事はできるし、気遣いもあるから女子の人気が凄い。
 ただ、柏木先生にはずっと同棲されている恋人がいるらしく、「全ての女性範疇外オーラ」がすごいらしい。

 水野先生は、特定の彼女の話は聞かないけど、あれだけかっこよかったらいないはずない。
 
 スラックスのポケットに手を入れ、スマホに触る。
 …胸が痛い。
 
 俺はそんなことを考えながらお茶を入れ、折詰を開けてびっくりした。二段の折詰の上は全部ウニで、下は全部大トロだったのだ。
 偏った寿司のチョイスに面食らいながら、用意したお茶と一緒に机に戻る。


「うまそうな寿司だろ?」
「美味しそうですけど、ウニと大トロだけっていうのが、びっくりしました」
「だって白川、ウニと大トロが大好物なんだろ?」
「え、そうですけど」
「お前が事務所にいると思ったからさ、好きなもの、握ってもらった」


 なんで知っているだろう。
 混乱している俺にお構いなく、水野先生は何事もないように「これ」といって、俺が書いた退職願を出した。
 い、いつの間に…。

「辞めるの?」
「あ、あの、はい…」
「次、決まってんの?」
 俺は、首を振った。
「これさ、まだ白川の名前が入ってないから、コピーすれば、俺も使えるよな?」
「は?」


 水野先生が複合機のある方向に、さっさとと歩いていく。
 俺も、慌てて追いかける。


「あ、あの」
 複合機を慣れた手つきで操作した水野先生は、ブーンという音と一緒に言った。
「ほんとはさ、柏木が独立する頃に、俺も独立するはずだったの。でも、ヤツの方が先に松井先生ボスに伝えてて、俺は割を食った。でも、もういいころだ。松井先生ボスは分かってくれた。
 それに柏木がいなくなってから、俺は忍者並みに仕事をした。もはや分身の術を習得したと断言できる。ここ1ヶ月は、ほぼ引継ぎだったしな。
 はい、これ、ありがとう」


 水野先生は、俺に退職願の用紙を返しながら「あと、これだな」といって、鍵をくれた。
 俺は全然、状況が読めない。
「俺の個人事務所の鍵で、お前の分な。実は、もう物件は押さえててさ。これから登記したり、複合機やら電話やらを揃えるから忙しくなるぞ」
「あ、あの」
 
 俺の問いかけに水野先生はにっこり笑った。
「大丈夫だ。なんの心配もいらない。俺はごっそり顧客を持っていくし、食いっぱぐれることはない。白川は、ここに来るのは明日が最後で、来週からは有給消化だろ。
 さっそくだけど、月曜日に待ち合わせしないか。場所はJR中野駅」
「な、中野?」
「偶然だろう?ほんとビックリするくらいの偶然なんだけど、俺の事務所、中野なの。白川なら歩いて通勤できる距離。それで、さっそくだけど、色々と備品を揃えたいから付き合って。
 あ、もちろん白川が動いてくれた分の日当は払うよ」
「え、あの」
「すごいな、白川は。今月は有給消化で来月に給料入るだろ。それに俺が払う日当を入れたら、結構、稼ぐな」
「先生…、お、俺を雇ってくれるんですか?」
「最初から、そのつもりだけど、何か問題あるか?」



 目頭が熱くなる。



「問題なんてない、ないです」





 夜も遅い高層ビル。
 空に太陽なんてあろうはずがない時間。



 でも、水野先生がいれば、そこは青空だ。



 ほんとに、なんて青空が似合う人なんだろう。



 
※「沼」は、色で例えれば明度は低めなので、こちらの明度は高めにしました。最後までお読み頂き、ありがとうございました。少しでも楽しんで頂ければ幸いです。また思いついたら書いてまいります。

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