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番外編 果てしなく遠い空の彼方④
しおりを挟む俺は、依頼人が名誉毀損で提訴予定の書籍を取り出した。この作者を訴えるのだ。
その書籍は、枕にするにはちょうどいいくらいの厚さがあり、作者の労力の無駄遣いには感服するが、くだらない上に中身がなく、よく紙媒体で出版したよな、というのが俺の本音である。
そして俺は、川端の顔は一切見ることなく、とっとと仕事にかかった。
「先生は、この案件は私より先に受けておられて、当然、この本は既にお読みになっておられるはずですから、原告の希望に則り、名誉毀損箇所を口頭で指摘していきます。
まず、冒頭から5行目、次に3頁の4行目から5行目にかけて。次が10頁の6行目から7行目。そして15頁の8行目から9行目。少しとんで30頁の3行目から4行目。次が」
「あ、あの、ちょっと」
俺のスピードについてこれない川端が、遮って声を掛けた。
「ごめんなさい、もう少し…」
「あ、遅かったですか?」
「え、ちが」
俺は、さらに加速した。オリンピック100m決勝並みのラストスパートだ。
「次、34頁の6~7行目。特に、ここはひどいな。次いで38頁の4行目と8行目。飛んで48頁の7~8行目にかけて。次が51頁の8行目。たいぶ飛んで87頁の7~8行目。88頁の10行目。次が90頁の2~3行目にかけて。飛んで120頁の9~10行目、125頁の3行目と6行目。ラストが130頁の8,11,12行目。以上!
ここんところ、書証として提出しますので、全部、コピーしといてください」
呆然とした川端は、声を震わせて言った。
「あ、あの一応、もう一度、か、確認させて頂いても」
「何、聞いてたんです?」
そういうと俺は、柏木が「お前の本気の三白眼は犯罪者レベル」と認定した眼差しで川端を睨んだ。柏木には言われたくねーと思ったものだが、柏木お墨付きの目つきの悪さが生きる時がきた。
案の定、川端は、何も言えずに目を逸らす。
しかし、俺は逸らすことなく続けた。
「当然ですけど、アシスタントにコピーを依頼する時は、ちゃんと付箋をつけてお願いしてください。これは当たり前だし、その出来上がったコピーを、提出前に川端先生が確認してください。これも当然のことだ。
ですよね?」
「え、ええ」
「たまに、書証の確認をせずに提出する、弁護士の風上にもおけないのがいるらしいので、先生がそんな弁護士でなく、よかったですよ」
言葉とは裏腹に、俺の三白眼はより一層力を増し、川端は俺と視線を合わせず、あさっての方向を向いたまま「も、もちろんです」と答えた。
「次に訴状についてですが、これは先生が書いてもらえます?」
「あ、はい」
「俺は準備書面を担当しますので。というか、もう出来てるんですよ」
そういって俺はビジネスバックから書面を出した。
「え、もう?」
「だって、この案件、そんなに難しくないでしょ?判例に照らして名誉毀損は明らかだし。俺なら一人で十分に務められる案件、あ、失礼、先生は無理だから俺にも声が掛かったんでしたね。これは失礼」
これっぽっちも悪いとは思ってない声色で、俺は「失礼」を連発し、挙句、「俺なら一人でと言ったけど、普通の弁護士なら一人で十分にこなせる案件でした。そこ、訂正させて下さい」と、傷に塩を塗ることも忘れない。
「それで、これが準備書面。申し訳ないですが、これ、手書きなんです」
そういって川端に分厚い書面を渡した。別件の打ち合わせで大阪に出張した際、往復の新幹線の車中で手書きしたものだ。
法学部の学生時代、俺と柏木が首席争いをしていた頃、忙しい合間を縫って、松井先生が大学に講師で来ておられた。
よく飲みに付き合わされたが、松井先生から「勉強もだが、全てに手間暇を惜しむな」と教えられた。
ほんと、その通り!
松井先生は正しかった!
愛する龍之介のためなら、手間暇を惜しむことなく、手書きで書面を書き上げた!
素晴らしい!
「これの入力をお願いします。川端先生が忙しいようなら、もちろん、アシスタントに依頼してください」
ここらへんになると、川端は、完全に俺と目を合わせようとはしなくなった。
「え、ええ」
「それから入力する時、アシスタントには助詞の間違いがあったら訂正しておいてと伝えて下さい。かえって助かりますし。もちろん俺は、訂正したことを『何様だと思ってるんだ』なんて、恥ずかしいこと、言いませんから」
もはや川端は虫の息だ。
「わざわざ言わなくても、ここのアシスタントは優秀だから、ちゃっちゃとやってくれる。そうでしょう?先生も、その恩恵を受けてるんじゃないですか?」
「……ええ」
「さてと」といって、俺は書類をバックに入れ、帰り支度を始める。
「先ほどの指摘した名誉毀損箇所ですが、間違えてコピーされたら困るから、念のためにこの本、渡しておきます。これに付箋してコピーを依頼してください」
川端は、少しホッとしたようだ。俺とて、ミスを誘発したいわけじゃない。
しかし、最後にトドメは刺しておく。
何しろゴキブリの生命力が強いことから分かるように、低級生物ほど、しぶといのだ。
俺は席を立って、独り言のようにつぶやいた。
「この部屋、このまま窓を開けときましょう。喚起が必要だ。臭くていられたもんじゃない。しばらく誰も使わない方がいいかもしれないな。…それにしても…『自分がされて嫌なことは他人にしてはいけない』」
「え?」
「よく道徳の時間に教師がいってたんですよ。…でも、そうはいっても、それに従えないのが人間で、そういう人間がいるから、我々、弁護士が必要になってくるんですけど。しかし、その弁護士が自分がされて嫌なことを他人にしてたら論外だ。そう思いませんか?」
俺は、まっすぐに川端を見た。視界に入れるのは『これが最後だ』ぐらいに、強い視線で見てやった。
弁護士像を勘違いしている川端は、ゴクリと唾を飲み込んで、「…え、ええ、はい」というのが精一杯。
ここで必殺・侮蔑を含んだ極上の笑み。
「あんたを増長された責任は松井先生にもある。友人の娘だか知らないが、使えないあんたを庇いすぎて、俺や柏木にフォローさせまくった。それでも、あんたにまともな謙虚さがあったなら、自分一人で案件を処理したわけじゃないと知って、そこまで醜くはならなかっただろう。
プライドっていうのは、なさすぎても困るけど、ありすぎても困りものだ。あんたを見てると、ほんとそう思うよ。あ、訴状できたら、メールで送ってください。今後は、極力、メールでやり取りしましょう。その方が、先生もいいでしょう?」
ただただ川端は、消え入りそうな声で頭を下げ「…も、申し訳ありませんでした。宜しくお願いします」といった。
そして俺は、一人、外に出た。
見上げると青空で、彼方に雲が見える。
龍之介は雲がきれいだという。
でも俺は、お前の方が、ずっときれいだと思う。
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