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番外編 春はあけぼの②
しおりを挟む片瀬さんがいうには南雲さんのアリバイは完璧だという。
「アリバイは完璧だ。その日、南雲はかなり残業していて、会社を出たのが午後9時40分。うちの本社は港区で最寄駅は品川だ。その時間に会社を出たら強盗が発生したH市に午後10時に着くのは不可能だ。品川からH市までは車だと1時間ちょっと、電車だと1時間半はかかる」
「おまえのとこはセキュリティー会社と契約しているだろうから、社員の出入口の防犯カメラ映像も、当然、あるんだろうな」
「もちろんだ。昨今、企業相手に恐喝してくる輩もいるから、表と裏の出入口のカメラ映像は5年保管なんだ。それだけでなく、うちは社員のIDカードがルームキーになっているから、その記録も残っている」
俺は二人の会話を聞きながら思った。
そもそも南雲さんが住宅に押し入る理由があるか?スーパーゼネコンに勤務する、いわばエリート社員がすることか?
どうやら隆一さんも俺と同じことを思ったらしい。
「今回の被疑者4人は、報道ではネットで知り合った者同士で面識がなく、全員が経済的に困窮していたという。エリート会社員の南雲さんとは明らかに毛色が違う。…南雲さんに莫大な借金があるとか?」
片瀬さんは「うーん、それは分からないな」と言ったあと、スマホで時間を確認し、「もうすぐここに南雲の母親が来る。呼んでいるんだ。それについては直接、親に聞いてくれ」といった。
するとノックの音が部屋に響き、水崎さんがドアを開け「南雲さんとおっしゃる方が来られました。こちらにお通ししますか?」という。
隆一さんが頷く。俺たち三人は自然に立ち上がった。
南雲さんの母親は、センスのいいシンプルなスーツにハイヒールで、控えめな化粧をした女性だった。俺は、なんかこう主婦、お母さんというイメージを連想していたので、だいぶ外れた。
彼女は「南雲健太の母でございます。この度はお世話になります」といって頭を下げた。
名刺を渡そうとすると、彼女も名刺を出す。なんとA航空の社長秘書室長だった。
「A航空の社長秘書室長ですか?」
思わず声を出した俺に「長く勤めているだけで、年功序列なんですよ」と、彼女は謙遜して答えた。そんなことはないだろうと思っていると、応接から出る直前の水崎さんと目が合った。
あの目。絶対に「水崎ネットワーク」を駆使して、彼女のことをあっという間に調べるなと思った。
水崎さんには松井先生さえ信頼?というか、恐れている「水崎ネットワーク」と呼ばれる(命名:隆一さん)、侮れない情報ブレーンがついているんだ。
もともとは様々な企業に勤務する秘書仲間数人が、お互いの仕事に役立つ情報を交換するグループだったらしい。それがいつしかそのメンバーの社歴の長さに加え、立場が上がるに従い、グループの人数が膨れ上がった。
そのお陰で俺は、「全国展開している病院のC院長は愛人が病院内に何人もいて、C牧場と呼ばれている(飼っているから)」とか、「D会社の社長はマザコン」やら、「E運輸の会長は熟女クラブの常連」など、あまり知りたくもなく、役立ちそうにない情報まで教えてくれるのだ。外に漏れたらあっという間にスキャンダルになる情報さえ、水崎ネットワークのメンバーは共有しつつも、週刊誌に売るとか、SNSで漏らすなどという愚かなことをしない。外に広がった情報は、その時点で情報として価値がなくなるからだ。ほんとに頭のいい人たちだよ。
そして俺は、いつの間にか水崎ネットワークの特別会員になっているらしく「男性会員は海野先生だけです!」と、水崎さんに胸を張られた。喜んでいいのか微妙。
実は今回、片瀬さんからのアポが入った時点で、当然、水崎さんはネットワークを駆使していた。
「片瀬さんの評判は上々ですね。H市在住で、同期の中では出世頭。いずれ上に行くらしいですよ。大和組の副社長の姪御さんとの縁談がまとまりそうなんですって。まあ、将来の役員じゃないですか。大企業だと縁故入社も多いでしょ。副社長の姪も縁故で入社。そこで片瀬さんを気に入って、話がきたんですって。片瀬さん、魔王と同年でしょ。大企業でいつまでも独身だと、縁談が沸くでしょ」
ちなみにこの片瀬さんの情報は隆一さんには伝えていない。
「魔王の次点生涯の友とやらを丸裸にしたら、どんな報復がくるか分かりませんので、海野先生、片瀬さんの情報は魔王には内緒です」
水崎さんに頼まれたら、俺も隆一さんには言えない。今回は、片瀬さんは窓口で案件そのものに係っていないからね。
さて南雲さんの母親に話を戻そう
南雲さんの母は控えめに語り始めた。
「健太が保育園の時に夫が亡くなり、私は女手一つであの子を育てました。幸いといいますか、子供は健太一人だったことと、私の勤務する会社は女性が多く、働きながら子供を育てるには都合のよい企業でした。社内に保育園や学童保育所、職場近くには母子寮も完備しております。それで仕事をしながら健太を育てることができました。ほんとに恵まれた環境だったと思います。…健太には父親がおりませんので、寂しい思いをさせていたのかもしれないと思ったことはありましたが、いつだったか、あの子はサバサバした表情で、同じ保育園にはシングルマザーも多かったから、寂しくなかったって」
そこに水崎さんがお茶を運んできた。茶たくにのせて出す茶器は俺たちと同じだが、俺には分かる。そのお茶、玉露だ!
水崎さんと俺の間には「茶語」(命名:俺)という言語が存在する。世界に二つとない俺と水崎さんしか話せない立派な言語だ。
水崎さんが気に入った(ここが大事!)顧客には「玉露」、まあまあには「かぶせ茶」、論外には「特売の安い煎茶」。俺は茶の色で見分けられるように水崎さんに厳しく訓練された。
水崎さんが玉露を出したということは、ネットワークを駆使したうえで、南雲さんの母親を気に入ったということだ。なるほど。
ちなみに片瀬さんの時は「特売の安い煎茶」だった。
南雲さんにお茶をお出しするタイミングで、俺たちにも新しいお茶を出した水崎さん。ちらっと隆一さんのお茶を見る。それは玉露。俺のも玉露。片瀬さんのお茶の色、あれはさっきと同じ「特売の安い煎茶」だ。
すみませんと片瀬さんに心の中で謝っておいた。
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