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番外編 春はあけぼの③
しおりを挟む片瀬さんが新しいお茶に口をつけてから言った。
「南雲さん、先ほど弁護士さんに健太さんには借金があったかと聞かれたのですが」
南雲さんは「健太は大学卒業後に一人暮らしを始めました。いい大人ですから、クレジットカードなどは使っているとは思いますが、犯罪に手を染めるほどの借金はけっしてなかったと思います」と、静かに断言した。
俺は「その様子ですと、むしろ貯金していたということでしょうか」と尋ねた。
「はい。将来的には私と同居するためのマンションを購入したいと考えてくれていたようで、そのためにかなり真面目に貯金したり、個人投資に回したりしていたようです。私は自分で出来ることは自分でやるからと言ったのですが、『そんなに近い将来というわけじゃないよ、いずれだよ、いずれ』、なんて言って。先日、電話で話した時、あの子は『とっくに頭金は貯めたよ』と…。ですから借金はないと思います」
弁護士は受けた案件によっては、金融機関に弁護士照会をかけて調査できる権限がある。もし警察が南雲さんを逮捕したら、この権限で調査し、南雲さんの口座に相当な預貯金があった場合、こちらに有利な証拠になる。個人資産を有するエリート社員が強盗するというのは不自然だ。
「そうですか。…これまでのお話からですと、健太さんが強盗するはずがないという裏付けが揃いますね。…そうすると誰かが健太さんを嵌めたと考えるのが、一番自然です。お母さまは、何か心当たりはありますか?」
俺の答えにくい質問に、南雲さんは驚いた様子だったが、「ないと思いますが…」としばらく考えたあといった。
「…先ほども言いましたが、健太は大人です。未成年の時でしたら、交友関係は全てではなくても、なんとなく把握しておりました。仲の良いお友達とかですね。しかし、社会人になりますと、仕事優先になりますでしょ。特に健太が最初に勤めた会社は忙しくて」
片瀬さんがすかさず「まあ、この業界自体がブラック業界みたいなものですからね」と相槌を打つ。
「そうなんですね。…あの子は小さい時から、凝り性といいますか、根を詰めるところがありましたので、仕事に熱中してしまうんです。ですから、もし先生がおっしゃるように、誰かの恨みを買うようなことがあったとすれば、それは会社関係しかないと思うんです」
うちの子は人から嵌められるような事をする子じゃありません、という返答ではないあたり、この母親は冷静なんだなと思った。仕事のできる女性だろう。まあそうでないとA航空の社長秘書室長なんて勤まらないだろうし。
片瀬さんは「いや、会社では健太さんに感謝する者はいるだろうが、健太さんの万年筆を盗んで、それを現場に置くなんてことをする人間はいないですよ」と、母親を慮った。
俺たちは弁護士で刑事ではない。あくまでも現在、任意の取り調べを受けている南雲さんの潔白を証明すればいいのだ。だから、なぜ彼の万年筆が盗難車の近くに落ちていたのか、それについては現時点では推測する必要はない。
これまで黙って聞いていた隆一さんが口を開いた。
「南雲さんにはお付き合いされていた方はいらっしゃいますか?もしご存じでしたら、教えてください」
会社関係ではないとすると、プライベートか。
「…これまで紹介されたことはありません。高校や大学で付き合っていた方はいたようですが、社会人になっても付き合っていたのかどうかまでは分からないんです」
この時だけ、南雲さんの視線が揺らいだ気がした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「結局、引き受けましたのね」
二人が帰った後、水崎さんがお茶を片付けながら、俺たちに聞く。
「委任状、この名刺のアドレスに送ってくれ。相手は『㈱大和組 法務部 石垣法務部長』だ」
隆一さんが名刺を水崎さんに渡しながらいった。
集めた茶器をテーブルに置いた水崎さんは、しげしげと受け取った名刺を見る。
「大和組の法務部長の名刺ですか…。でも委任状なら片瀬さんにお渡しになればよろしかったのに」
「まあそうなんだが…」
隆一さんが口ごもると、察しのいい水崎さんは「本来は、これは法務部長の仕事なのに、片瀬さんが口出したため、なんとなく片瀬さんからは法務部長に渡しづらい、ですか?」と指摘する。
「そんなところだな」
「とってもお急ぎの案件なんですから、本当は片瀬さんお一人ではなく、その場で決済できる権限のある方、この場合でしたら大和組の法務部長になるのかしら。そういった方をお連れして下さったら良かったのに」
水崎さんの指摘は最もだと思う。片瀬さんは南雲さんの直属の上司ではあるものの、建設部の人間だ。社内秩序的にいえば、片瀬さんは法務部長に同行を願うべきだった。
「水崎のいう通りだが、片瀬は法務部長には、うちへの弁護依頼については事前承認を取っていたそうだから、同行までは不要と思ったんじゃないか」
さりげなく隆一さんが片瀬さんをかばった。水崎さんはちょっと肩をすくめる。
「…承知しました。すぐにメールします」
間髪を入れず、隆一さんが「水崎ネットワークで調べたんだろ?南雲さんの母親の評判はどうだった?」と聞いた。これは水崎さんの機嫌を取る作戦だな。
彼女は途端ににこやかになった。
「すこぶる上々ですよ。女性が多い企業って、逆に女性にとって働きにくい陰険ないじめなんかあるんですけど、少なくても社長秘書室はないそうです。こういう部署って、その部署のトップの雰囲気で、空気まで変わるんですよ。彼女は3年前に室長になったそうですけど、それ以前はいじめが横行していたそうです。で、退職者まで出る始末で、その当時の室長を更迭して、別の役員付き秘書だった南雲さんを抜擢したそうです。以来、空気が一変!
しかも南雲さん、息子が大和組に勤務していることは一切、社内では口にしなかったって。ほら、いるじゃないですか、息子が医大にいくと自慢する親が。お前が医大に行くんじゃないでしょって思いますけどね。とにかく南雲さんはそんな息子自慢もなく、淡々とでもいい仕事ぶりだって」
「でも、水崎が気に入ったのはそれだけじゃないだろ?」
水崎さんはにやっとした。
「さすがは魔王、失礼、柏木先生。彼女、香水つけてなかったんですよ。でも普段はつけていると思うんです。時間に遅れないように急いでうちに来たらしくて、私が最初に対応した時、すこし額に汗をかいておられました。それを拭くのにハンカチを出したんですけど、そのハンカチはうっすら香りがしたんです。初対面の人と会うのに香水はつけないという気遣いに感心しました。秘書だから当然といえば当然ですけど、最近は秘書の質も落ちてますからね。そのうえ、手土産が満腹堂のどら焼き6個入り!個人事務所で人数が多くなく、今日明日で食べきれる量というところまで計算し、しかも評判のどら焼きときたら、気に入るでしょ」
俺の目は丸くなった。
「水崎さん、初対面でそこまで分かったんだ!」
「あら、海野先生。ちょっと観察すれば分かりますわよ」
「隆一さん、うちは柏木・海野法律事務所じゃなくて、柏木・海野法律事務所兼水崎探偵事務所にしたら!」
俺は真顔で隆一さんに進言。
「あら、いやです。これは仕事じゃないからいいんです。仕事にしたら、とたんに興味がなくなりますよ、私は。さあ、冗談はさておき、新しいお茶入れますから、どら焼きをいただきましょう」
そういって給湯室に下がる水崎さんに、俺は「日本茶はもういいや。中国茶でどら焼き食べよう!手伝います!」といって追いかけた。
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