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マルクス 1
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自分のことは人任せにしたくないというサヤの意思を尊重することとなり、マルとの交渉はサヤが主体となって行われることとなった。
とはいえ、怪我もある。血を沢山失っている。サヤの体調を優先するために、当初言っていた通り、ギルがマルを確保してくることが決定した。
血で汚し、袖を断ち切ってしまった使用人の服も、着替えることとなり、腕の怪我に障るといけないからと、ルーシーが再度呼ばれ、サヤの着替えを手伝ってくれた。
サヤは自分で出来ると言っていたのだが、傷口がちゃんと癒合するまではと拝み倒して了承してもらった。
腰帯を閉めるときは、どうしても力を入れてしまうような気がしたのだ。
俺が手伝うわけにもいかないし……。ここにいる間に極力無理をしないでおいでもらって、ちゃんと治そうと、サヤに言い含めた。
何度も傷口が開くようなことをすると、傷自体も残りやすくなってしまう。サヤの腕に傷を残したくなかった。
朝と同じ服に着替たサヤだったが、腰帯を縛る位置が背中ではない。正面のやや左側だ。
蝶結びをわざと片側だけ解いたような括り方で、丸く膨らんだ部分が上を向くように調節する。
長く垂れた腰紐が、揺れる感じが可愛い。
こういった括り方をした女性は見たこと無かったが、違和感は無かった。
「サヤさんって、細々した部分に拘りますね。でも可愛い。解けてしまった感じに見えないのが不思議」
「拘ってるわけではないのですけど……背中に手を回しにくかっただけですよ?」
先程の怒れるサヤはもう影を潜めていた。
いつもの優しげな、おっとりしたサヤに戻っている。
さっきのあの姿はなんだったんだと思うほどの落差だ。
女性は怒らすと怖いって、ホントだな……身に染みた。
「明日の大店会議は、袖のある服にしましょっか。
ちょっと暑いけど、時期的にはまだ大丈夫だし。お揃いにしましょうね、サヤさん」
「ルーシーさんにまでお付き合い頂くのは申し訳ないですよ……。
私のことは気になさらないでください。流行の衣装を着て頂きたいです」
「もう! サヤさん堅苦しい! 私がお揃いにしたいの!
ずっと他人行儀に話すし、ちょっと落ち込んじゃう」
ぷうっと頬を膨らまして、ルーシーが言う。
それに対しサヤは少し困った顔で答える。
「この話し方を止めると、訛ってしまいますから……。意味が伝わりにくいのは、困ります」
「ええ~、私、女学院に行っていたから、大抵の地方の言葉は聞き慣れてますよ?大丈夫だから、話してみてくださいな!」
なんだかワクワクと待っているルーシーに、サヤは苦笑する。
「ほな、ちょっとだけ。ルーシーさん、さっきはおおきに。それと、かんにんな。ギルさんに怒られへんかった?」
「かっ、可愛い! 意味よくわからないけど、なんだか可愛いサヤさん!」
「……通じひんかったらあかんやん……」
むしろ二人のやりとりが可愛らしい。
俺は二人から視線を外し、長椅子の背もたれに頭を預けた。
俺の横の方で何かやりとりしていたギルとハインが、二人の様子を微笑ましそうに眺めているのが視界に入る。
俺が閉じこもってた半日の間に何かやり取りがあったのか、ギルとサヤが、案外気安く口を利くようになっていた。
それを見て、サヤはここに残っても、上手くやっていけるに違いないと、ふと思う。
頭を埋めていた雑音が消えたとはいえ、問題自体は無くなったりしていない。
むしろより複雑になった気がしなくもない。
サヤを男装させて過ごさせるのは、やはり無理だと思うし、ここにいた方がサヤにとって良いのでは……という考えは変わらない。
ただ……サヤは、自分の責任を自分に置く。
きっとギルに従い大人しく生活するということはしないのだと思う。
そして先程のあの宣戦布告だ。
なんとなく、ここ残ってくれる気がしないんだよなぁ……。
思い出すと、頬が熱くなる……サヤが、俺を大切な思い出の方に分類してくれてると知って、妙に気持ちが、ふわふわしてしまっている。
サヤがいなくなった後のことなんて、考えたくもなかったのに……。
例えばだ。
サヤが教えてくれた料理を、ハインは、サヤがいなくなっても作るだろう。
麦穂の干し方だって、前のようには戻らないだろう。
河川敷が完成したら……俺は毎日のように、その風景を見るだろう。
サヤがいない。それは相変わらず、考えるだけでも、胸が張り裂けそうなほど苦痛だ。けれど……そこにサヤを感じられたら……それは苦しいけれど、幸せなのではと思えてしまった。
辛くても、悲しくても、サヤが俺を憶えていてくれるなら……大切なものの中にしまっていてくれなるなら……俺も忘れたくない……。記憶の中でくらい、繋がっていたい……。
共有した時間がもっと積み重なれば、この苦しさは、同じ量の幸せになるのだろうか……。そうすれば、耐えていられるように、なるのだろうか……。
けれど、真夏の暑さの中で男装し続けることはやはり無理だと思うし、異母様や兄上の脅威も取り払われることはない。
そうである以上、サヤを連れ帰るなんてどだい無理な話だ。
そんな風に、思考の中でぐるぐる考えていると、ルーシーとのやりとりを終えたサヤがやって来た。
俺は、長椅子に座るよう勧める。できるだけ休んでいてほしかったのだ。意図は通じたようで、サヤは大人しく、向かいの長椅子に座ってくれた。
ルーシーはいつの間にやら退室していたようだ。見当たらない。
「レイシール様、マルさんのことについてお伺いしておきたいんですけど。
マルさんが、特に好む情報とかってあるのでしょうか?
できるだけ、良好な状態でご協力頂きたいので、好みがあるなら教えてください」
俺の斜め後ろに直立していたハインが、俺の代わりに口を開いてくれる。
「別段、選り好みはしないと思いますよ。
強いて言うなら……貴族間の人間関係に関する情報は、若干興味が薄いですかね」
ドロドロしすぎて食あたりを起こしそうなんだそうですよ。と、ハイン。
そして、食事は燃料くらいの感覚なので、味への興味も薄いと付け足した。
「食事を忘れて情報分析に没頭する人間ですからね。
分析中は水と塩で過ごしたりしてるみたいです。食べる時間も勿体無いそうで。
それで死んだら、その大切な時間が大幅に減るとは、考えないんですかね」
辛辣なハインに苦笑する。
思考に没頭するマルは、鬼気迫る。何日だって集中し続けるのだ。それが途中で邪魔されるのは、本当に嫌なことであるらしい。その邪魔に食事も含まれるのはどうかと思うが。
水と塩を取るだけ相当マシになったと思う。気付いたら動いてない。は、格段に減ってるわけだし。
……まあ、頭が痛くなって考えられなくなるからって言ってたから、なんかいまいち、生きるための摂取になってない気がするが。
「……うん。それ使えそうですね。
食事が面倒なのは、手早く済ませられないからだと思うので、そこから攻めてみましょうか。腸詰めがあることが分かったし。作れますね……」
そんな風に呟いて、懐から紙を取り出す。
腸詰め……という単語が出てきたということは、新しい料理かな。
「あと、これをマルさんに差し上げようと思うんですけど。如何でしょう」
懐から取り出した紙……四つ折りにされたそれを広げると、それは文字の一覧だった。
なんでこれを?と、思ったのだが、その隅に書かれた謎の記号が目につく。
「これは……サヤのために作ったんじゃなかったか?」
ギルが訝しげに問う。それにサヤは首肯した。
「はい。これは私用ですから、このまま差し上げるわけではないです。
でも、害がなくて興味を引くものといったら、文字かなと思ったんですよね。
私が異界の人間だという証拠にもなるでしょう?
私の国の文字は特殊ですから」
そう言ってにこりと笑った。
「簡単に説明しますね。
私の国では、常時三種類の文字を織り交ぜて文章を構成します。場合によってはもう少し増えますけど。
これって、他の国にも類を見ないことみたいなので、とても珍しいと思うんですよ。
こちらの世界ではどうですか?」
サヤの問いに、俺たち三人の眉間にシワが寄る。
意味が全く分からない……。三種類の文字を織り交ぜるということ自体の意味がだ。
外国の言葉を混ぜて使うのか?
で、考えるのを一番はじめに放棄したハインが、サヤに問う。
「サヤ……仰ってることの意味が分かりません……。
三種類の文字を織り交ぜるとは、どういうことですか?」
その返事に、サヤは楽しそうに笑った。
なんだろう……なんか、活き活きしてる……。すごく楽しそうだな。
紙の端に、赤墨で書かれた小さな文字を指差し、言葉を続ける。
「これは、片仮名と、呼ぶ文字です。
それと、平仮名、漢字と呼ばれる文字があります。
他にもアルファベットという文字を混ぜたりする場合もあるんですけど……これは外国の文字なので、今は割愛しますね。
ちょっと書いてみましょうか」
長椅子を立って、執務机から紙と墨壺、筆を持ってくる。
それに、何かさらさらと書き付けた。
「『私の名前は、鶴来野小夜です。セイバーンで、レイシール様の従者見習いをしています。』って書きました。
この、画数の多い、ごちゃごちゃした文字が漢字です。
セイバーン、レイシール様…このカクカクとした文字が片仮名。
丸みのある、残りの文字が平仮名です。
点や丸が書いてあるのは、文章を区切るための記号ですね。
文字の基本は平仮名です。それを軸に、他の文字を使って単語を表記することで、言葉の区切りをつけます」
スラスラと説明するサヤだが、そのあまりに異質な文章構成に、俺は言葉が無かった。
数種類の文字を織り交ぜて表記するだなんて、聞いたことがない。なのにサヤは、更に呆れたことを言った。
「私の国の文字は、五万文字を超えると言われています。
正直、全部を把握している人がいるとは思えない文字数なんですけどね。
私が知ってるのはせいぜい五千文字程度だと思います。とはいえ、読めても書けない文字が多いですし、使わない漢字はどんどん忘れてしまうので、習ったもの全部を覚えている自信は無いんですけど」
「ご、ごまん……」
「あり得ないよな……五万文字に、三種類。必要か?」
「意味が分かりません……何を表現するために覚えられもしない文字を作ってるんですか……」
「さあ……二千年以上の歴史の中で増えに増えたんでしょうね」
けろっと答えるサヤに、俺は天を仰いだ。規格外だ……規格外すぎる……。
「この平仮名と片仮名は、それだけでも文章を書くことができます。でも、とても長くなるし、区切る部分も分かりにくいんです。他の文字で単語を表記することで、同じ文章に書く文字の量は格段に少なくなりますし、理解しやすくなるんです。
特に特殊なのが漢字ですね。
この文字は、一つで数種類の意味や読み方があるんですよ」
「サヤ、ちょ、ちょっと待って、全然、頭がついてこないんだ……」
とりあえず待ったをかけた。
つまりサヤは常時三種類の文字を使うのが日常だったわけか。たかだか十六年の人生の中で、既に数千の文字を憶えている……と。
そして一文字に意味と読みが一つではない文字が何千文字とあると……。それってどうやって使い分けてるんだ……どんな状態が的確か、どうやって判断してるんだ……。サヤの頭の状態が尋常じゃない……今までも相当なのに、数千の文字まで、体得済みだなんて……。
当たり前のような顔をして、ニコニコと笑うサヤだが、これって本当に、一般の教育を受けている状態なのか?相当な、英才教育じゃないのか?
「サヤの国の文字ですか……。
確かに、凄いのは分かりましたが、この世界では全く価値が無いですね。使える人がいませんし」
ハインが眉間をもみほぐすようにしつつ呟く。本当にな。だが、その言葉にサヤはまた、嬉しそうに笑うのだ。
「でしょう?でも、マルさんは、情報の選り好みをなさらないんですよね?」
あ…………ああぁ!そうか‼︎
唖然とする俺の横で、ギルがパチンと指を鳴らす。
「平仮名で83文字。
片仮名が84文字。
残りはほぼ漢字です。
文字ですから、細かく分けてお伝えできますし、貨幣の代わりといった使い方に便利かなって思うんです。
どうでしょう?これをマルさんへの報酬としたら、喜んでもらえるでしょうか」
俺は顔を抑えて俯いた。
苦笑するしかないじゃないか…。確かに害は無い。この世界のどこにも無い文字だなんて、誰も必要としないと思う。この文字の価値を知るのは、マルと、サヤだけなのだ。笑えてしまう。
「喜ぶんじゃないか?飛びついてくるのが目に見える」
「そうですね。異世界の文字など、教えてくれる人間はサヤしかいませんから、充分報酬としての価値があると思います」
これ以上ないほど無価値で、価値のある情報だよ。
俺たちの承認に、サヤは嬉しげに微笑んだ。
とはいえ、怪我もある。血を沢山失っている。サヤの体調を優先するために、当初言っていた通り、ギルがマルを確保してくることが決定した。
血で汚し、袖を断ち切ってしまった使用人の服も、着替えることとなり、腕の怪我に障るといけないからと、ルーシーが再度呼ばれ、サヤの着替えを手伝ってくれた。
サヤは自分で出来ると言っていたのだが、傷口がちゃんと癒合するまではと拝み倒して了承してもらった。
腰帯を閉めるときは、どうしても力を入れてしまうような気がしたのだ。
俺が手伝うわけにもいかないし……。ここにいる間に極力無理をしないでおいでもらって、ちゃんと治そうと、サヤに言い含めた。
何度も傷口が開くようなことをすると、傷自体も残りやすくなってしまう。サヤの腕に傷を残したくなかった。
朝と同じ服に着替たサヤだったが、腰帯を縛る位置が背中ではない。正面のやや左側だ。
蝶結びをわざと片側だけ解いたような括り方で、丸く膨らんだ部分が上を向くように調節する。
長く垂れた腰紐が、揺れる感じが可愛い。
こういった括り方をした女性は見たこと無かったが、違和感は無かった。
「サヤさんって、細々した部分に拘りますね。でも可愛い。解けてしまった感じに見えないのが不思議」
「拘ってるわけではないのですけど……背中に手を回しにくかっただけですよ?」
先程の怒れるサヤはもう影を潜めていた。
いつもの優しげな、おっとりしたサヤに戻っている。
さっきのあの姿はなんだったんだと思うほどの落差だ。
女性は怒らすと怖いって、ホントだな……身に染みた。
「明日の大店会議は、袖のある服にしましょっか。
ちょっと暑いけど、時期的にはまだ大丈夫だし。お揃いにしましょうね、サヤさん」
「ルーシーさんにまでお付き合い頂くのは申し訳ないですよ……。
私のことは気になさらないでください。流行の衣装を着て頂きたいです」
「もう! サヤさん堅苦しい! 私がお揃いにしたいの!
ずっと他人行儀に話すし、ちょっと落ち込んじゃう」
ぷうっと頬を膨らまして、ルーシーが言う。
それに対しサヤは少し困った顔で答える。
「この話し方を止めると、訛ってしまいますから……。意味が伝わりにくいのは、困ります」
「ええ~、私、女学院に行っていたから、大抵の地方の言葉は聞き慣れてますよ?大丈夫だから、話してみてくださいな!」
なんだかワクワクと待っているルーシーに、サヤは苦笑する。
「ほな、ちょっとだけ。ルーシーさん、さっきはおおきに。それと、かんにんな。ギルさんに怒られへんかった?」
「かっ、可愛い! 意味よくわからないけど、なんだか可愛いサヤさん!」
「……通じひんかったらあかんやん……」
むしろ二人のやりとりが可愛らしい。
俺は二人から視線を外し、長椅子の背もたれに頭を預けた。
俺の横の方で何かやりとりしていたギルとハインが、二人の様子を微笑ましそうに眺めているのが視界に入る。
俺が閉じこもってた半日の間に何かやり取りがあったのか、ギルとサヤが、案外気安く口を利くようになっていた。
それを見て、サヤはここに残っても、上手くやっていけるに違いないと、ふと思う。
頭を埋めていた雑音が消えたとはいえ、問題自体は無くなったりしていない。
むしろより複雑になった気がしなくもない。
サヤを男装させて過ごさせるのは、やはり無理だと思うし、ここにいた方がサヤにとって良いのでは……という考えは変わらない。
ただ……サヤは、自分の責任を自分に置く。
きっとギルに従い大人しく生活するということはしないのだと思う。
そして先程のあの宣戦布告だ。
なんとなく、ここ残ってくれる気がしないんだよなぁ……。
思い出すと、頬が熱くなる……サヤが、俺を大切な思い出の方に分類してくれてると知って、妙に気持ちが、ふわふわしてしまっている。
サヤがいなくなった後のことなんて、考えたくもなかったのに……。
例えばだ。
サヤが教えてくれた料理を、ハインは、サヤがいなくなっても作るだろう。
麦穂の干し方だって、前のようには戻らないだろう。
河川敷が完成したら……俺は毎日のように、その風景を見るだろう。
サヤがいない。それは相変わらず、考えるだけでも、胸が張り裂けそうなほど苦痛だ。けれど……そこにサヤを感じられたら……それは苦しいけれど、幸せなのではと思えてしまった。
辛くても、悲しくても、サヤが俺を憶えていてくれるなら……大切なものの中にしまっていてくれなるなら……俺も忘れたくない……。記憶の中でくらい、繋がっていたい……。
共有した時間がもっと積み重なれば、この苦しさは、同じ量の幸せになるのだろうか……。そうすれば、耐えていられるように、なるのだろうか……。
けれど、真夏の暑さの中で男装し続けることはやはり無理だと思うし、異母様や兄上の脅威も取り払われることはない。
そうである以上、サヤを連れ帰るなんてどだい無理な話だ。
そんな風に、思考の中でぐるぐる考えていると、ルーシーとのやりとりを終えたサヤがやって来た。
俺は、長椅子に座るよう勧める。できるだけ休んでいてほしかったのだ。意図は通じたようで、サヤは大人しく、向かいの長椅子に座ってくれた。
ルーシーはいつの間にやら退室していたようだ。見当たらない。
「レイシール様、マルさんのことについてお伺いしておきたいんですけど。
マルさんが、特に好む情報とかってあるのでしょうか?
できるだけ、良好な状態でご協力頂きたいので、好みがあるなら教えてください」
俺の斜め後ろに直立していたハインが、俺の代わりに口を開いてくれる。
「別段、選り好みはしないと思いますよ。
強いて言うなら……貴族間の人間関係に関する情報は、若干興味が薄いですかね」
ドロドロしすぎて食あたりを起こしそうなんだそうですよ。と、ハイン。
そして、食事は燃料くらいの感覚なので、味への興味も薄いと付け足した。
「食事を忘れて情報分析に没頭する人間ですからね。
分析中は水と塩で過ごしたりしてるみたいです。食べる時間も勿体無いそうで。
それで死んだら、その大切な時間が大幅に減るとは、考えないんですかね」
辛辣なハインに苦笑する。
思考に没頭するマルは、鬼気迫る。何日だって集中し続けるのだ。それが途中で邪魔されるのは、本当に嫌なことであるらしい。その邪魔に食事も含まれるのはどうかと思うが。
水と塩を取るだけ相当マシになったと思う。気付いたら動いてない。は、格段に減ってるわけだし。
……まあ、頭が痛くなって考えられなくなるからって言ってたから、なんかいまいち、生きるための摂取になってない気がするが。
「……うん。それ使えそうですね。
食事が面倒なのは、手早く済ませられないからだと思うので、そこから攻めてみましょうか。腸詰めがあることが分かったし。作れますね……」
そんな風に呟いて、懐から紙を取り出す。
腸詰め……という単語が出てきたということは、新しい料理かな。
「あと、これをマルさんに差し上げようと思うんですけど。如何でしょう」
懐から取り出した紙……四つ折りにされたそれを広げると、それは文字の一覧だった。
なんでこれを?と、思ったのだが、その隅に書かれた謎の記号が目につく。
「これは……サヤのために作ったんじゃなかったか?」
ギルが訝しげに問う。それにサヤは首肯した。
「はい。これは私用ですから、このまま差し上げるわけではないです。
でも、害がなくて興味を引くものといったら、文字かなと思ったんですよね。
私が異界の人間だという証拠にもなるでしょう?
私の国の文字は特殊ですから」
そう言ってにこりと笑った。
「簡単に説明しますね。
私の国では、常時三種類の文字を織り交ぜて文章を構成します。場合によってはもう少し増えますけど。
これって、他の国にも類を見ないことみたいなので、とても珍しいと思うんですよ。
こちらの世界ではどうですか?」
サヤの問いに、俺たち三人の眉間にシワが寄る。
意味が全く分からない……。三種類の文字を織り交ぜるということ自体の意味がだ。
外国の言葉を混ぜて使うのか?
で、考えるのを一番はじめに放棄したハインが、サヤに問う。
「サヤ……仰ってることの意味が分かりません……。
三種類の文字を織り交ぜるとは、どういうことですか?」
その返事に、サヤは楽しそうに笑った。
なんだろう……なんか、活き活きしてる……。すごく楽しそうだな。
紙の端に、赤墨で書かれた小さな文字を指差し、言葉を続ける。
「これは、片仮名と、呼ぶ文字です。
それと、平仮名、漢字と呼ばれる文字があります。
他にもアルファベットという文字を混ぜたりする場合もあるんですけど……これは外国の文字なので、今は割愛しますね。
ちょっと書いてみましょうか」
長椅子を立って、執務机から紙と墨壺、筆を持ってくる。
それに、何かさらさらと書き付けた。
「『私の名前は、鶴来野小夜です。セイバーンで、レイシール様の従者見習いをしています。』って書きました。
この、画数の多い、ごちゃごちゃした文字が漢字です。
セイバーン、レイシール様…このカクカクとした文字が片仮名。
丸みのある、残りの文字が平仮名です。
点や丸が書いてあるのは、文章を区切るための記号ですね。
文字の基本は平仮名です。それを軸に、他の文字を使って単語を表記することで、言葉の区切りをつけます」
スラスラと説明するサヤだが、そのあまりに異質な文章構成に、俺は言葉が無かった。
数種類の文字を織り交ぜて表記するだなんて、聞いたことがない。なのにサヤは、更に呆れたことを言った。
「私の国の文字は、五万文字を超えると言われています。
正直、全部を把握している人がいるとは思えない文字数なんですけどね。
私が知ってるのはせいぜい五千文字程度だと思います。とはいえ、読めても書けない文字が多いですし、使わない漢字はどんどん忘れてしまうので、習ったもの全部を覚えている自信は無いんですけど」
「ご、ごまん……」
「あり得ないよな……五万文字に、三種類。必要か?」
「意味が分かりません……何を表現するために覚えられもしない文字を作ってるんですか……」
「さあ……二千年以上の歴史の中で増えに増えたんでしょうね」
けろっと答えるサヤに、俺は天を仰いだ。規格外だ……規格外すぎる……。
「この平仮名と片仮名は、それだけでも文章を書くことができます。でも、とても長くなるし、区切る部分も分かりにくいんです。他の文字で単語を表記することで、同じ文章に書く文字の量は格段に少なくなりますし、理解しやすくなるんです。
特に特殊なのが漢字ですね。
この文字は、一つで数種類の意味や読み方があるんですよ」
「サヤ、ちょ、ちょっと待って、全然、頭がついてこないんだ……」
とりあえず待ったをかけた。
つまりサヤは常時三種類の文字を使うのが日常だったわけか。たかだか十六年の人生の中で、既に数千の文字を憶えている……と。
そして一文字に意味と読みが一つではない文字が何千文字とあると……。それってどうやって使い分けてるんだ……どんな状態が的確か、どうやって判断してるんだ……。サヤの頭の状態が尋常じゃない……今までも相当なのに、数千の文字まで、体得済みだなんて……。
当たり前のような顔をして、ニコニコと笑うサヤだが、これって本当に、一般の教育を受けている状態なのか?相当な、英才教育じゃないのか?
「サヤの国の文字ですか……。
確かに、凄いのは分かりましたが、この世界では全く価値が無いですね。使える人がいませんし」
ハインが眉間をもみほぐすようにしつつ呟く。本当にな。だが、その言葉にサヤはまた、嬉しそうに笑うのだ。
「でしょう?でも、マルさんは、情報の選り好みをなさらないんですよね?」
あ…………ああぁ!そうか‼︎
唖然とする俺の横で、ギルがパチンと指を鳴らす。
「平仮名で83文字。
片仮名が84文字。
残りはほぼ漢字です。
文字ですから、細かく分けてお伝えできますし、貨幣の代わりといった使い方に便利かなって思うんです。
どうでしょう?これをマルさんへの報酬としたら、喜んでもらえるでしょうか」
俺は顔を抑えて俯いた。
苦笑するしかないじゃないか…。確かに害は無い。この世界のどこにも無い文字だなんて、誰も必要としないと思う。この文字の価値を知るのは、マルと、サヤだけなのだ。笑えてしまう。
「喜ぶんじゃないか?飛びついてくるのが目に見える」
「そうですね。異世界の文字など、教えてくれる人間はサヤしかいませんから、充分報酬としての価値があると思います」
これ以上ないほど無価値で、価値のある情報だよ。
俺たちの承認に、サヤは嬉しげに微笑んだ。
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