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均衡 8
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「例えば……浅くて寝転がれる湯船、深くてじっくり温まれる湯船、薬草が入っている湯船や、打たせ湯、蒸し風呂……」
「なにそれ風呂の楽園⁉︎」
「あ、そんな感じですね。マッサージ……えっと、指圧やあん摩を受けられる場所があったりとかもしますし」
「えええぇぇぇ、凄い!」
上から覗き込んだような図面で、こんな雰囲気なんですと図を描くサヤ。
水の風呂もあり、泳いだりもすると言い、半ば唖然とする。
風呂ばかりを一箇所にこれだけ集めて意味があるのか? いや、確かに色々あると楽しそうだけど……。
「気分で入る風呂を変えられるでしょう?」
まずはじっくり温まってから、ぬるいお湯でゆったり寝そべって疲れを取ったり、傷の治癒に薬草湯に浸かったり……」
「成る程」
「えええぇぇ、良いな、良いなーっ! 最高じゃんっ、風呂を選べるって超贅沢!」
「汗を流せた上に寛げるなんて……サヤの国に行きたいわぁ」
女近衛の食いつきたるや凄まじい……。けれど、男近衛の面々も、案外興味があるようで、サヤの描く図を、身を乗り出して覗き込む。
それにビクッと、身を固めたサヤであったけれど、俺が口を開く前に、オブシズがサッと手を差し出し、制してくれた。
「申し訳ない。もう少し距離を取っていただけるか。
サヤはもう、レイシール様の婚約者。彼女の国は、添い遂げる者以外とは触れ合わぬ風習が根強いゆえ」
「あ、あぁ……申し訳ない」
「いえ、申し訳ないのは私の方で。
少し、神経質すぎるとは思うのですが、どうしても、苦手意識が優ってしまって……」
背後ではなく、向かい側からならば、とサヤ。
男性に対する恐怖心がまた強まってしまったとは、流石に言いにくいしな……。
けれど、事情を知らないユーロディア殿が「じゃあレイ様の隣に座ったら? その方がサヤも安心できるじゃん!」と、そんなことを言い出す。
「いえあのっ、今は職務中ですから!」
「あっ、そうだった。ごめんね、くっつきたいかなって」
「イチャついてもらって一向に構わぬがな!」
「初々しくて、逆に恥ずかしい……」
もうそれくらいになさい。と、リヴィ様に嗜められ、サッと口を閉ざす面々。調教されている……。なんかもう慣れてるのかな、こんなやり取り。
「ふむ。風呂の楽園か……。確かに、これだけの種類が一度に堪能できるというのは大変興味深い」
「こんな湯屋をひとつ造って、毎日性別ごとに交代で利用日を決めるというのも良いかもしれませんね。
こちらは、毎日湯に浸かるという習慣は無いのですし」
そうなのだよな。
フェルドナレンは、王族であっても日常的に風呂を使うという習慣が無い。大きな会議や式典等の前日に身を清めるとかはするだろうが、日常的には週に一度も利用しないだろう……。
「私の国の湯屋は、一日中誰でも利用できる代わり、身分は関係なしという決まりがありましたし、利用規則には特に厳しかったそうです。
騎士階級も庶民も同じ湯に浸かりますから、行儀の悪いお客様は、位の高い方でもお断りします。
例えば、湯に浸かる前に必ず身体と髪を洗い、汚れを湯船に持ち込まないだとか、横の人に、冷え者が入ります。冷たかったらごめんなさいね。と、一声掛けるとか。
身分の高い人が、それを理由に優先されるということはありませんでした。
裸の付き合い。なんて言葉もありまして、身分の隔たりの無い場所だからこその、新たな交流なども生まれたと言います」
「ほう……交流な……」
「あぁ、それはあるやもな。湯屋の中は何かこう……警戒心が和らぐというか」
そう言った近衛の方に、バッと視線が集中する。
なんだと……お前、湯屋を利用しやがったのか⁉︎ という女性陣の熱気に、うっと言葉を詰まらせたけれど。
「いや、私は昨年夏に、セイバーン村へ派遣されましたので……」
「村⁉︎」
「あぁ、拠点村にも湯屋はありましたものね。あの光景には、些か驚かされましたわ」
「村に湯屋⁉︎」
「うちは村人が日常的に湯屋を利用しますからね」
「いいなーっ⁉︎」
セイバーンに派遣されるような遠征訓練が欲しいと騒ぎ出す女近衛の面々。元気で明るい……。
そんな中、考え込んでいた陛下がよしっ! と、声を張り上げた。
「レイシール、そのスパとやらを注文する! 来年中に完成させよ。
湯屋は王宮勤めの者ならば、指定日と規則を守れば誰でも利用できるとしよう!
予算等は財務大臣と話し合っておく。
冬の会合までに図面と見積もりを提出せよ!」
「陛下英断ーっ!」
パチパチと拍手を浴び、えへんと胸を逸らした陛下。
いや、そんなことで良いんですか……結構な予算を食いますよこれ。明らかに大物……屋敷を建てるようなものなんですよ? 分かってますか?
「良きに計らえ!」
「……畏まりました……」
まぁこの人、本気なんだろうな。
今年中に造れ。じゃなくて良かった…………。
◆
うん。なんか……想定していないことが色々、多かった。
結局。
陛下の所で思いの外時間を取られ、もう夕刻……。
サヤ、オブシズ、クロードを伴い、俺たちはオゼロ公爵様の執務室を目指していた。
先程、受付室で面会希望を提出しようとしたら、オゼロから俺宛の面会希望が、先に出されていたのだ。
もっと早くにお伺いして、日程調整をする予定だったのに、何故か一日が終わろうとしている……。
「硝子筆、全部売れてしまいましたね」
「五十本全部取られちゃったな……。次の時は、職人たちが戻ってきていると思うし、贈答品に関してはこちらでも製造が始まると思うけど」
「練習用はあまり作らないでしょうか?」
「作る暇が無いんじゃないかな。それこそ、職人数が少ないうちは、手慣らし程度にしか、練習用の生産は無理だと思う。
貴族からの注文が殺到するだろうし、贈答品作りに忙殺されるよ」
王都は特にこういった、流行り物に飛びつくきらいがあるからな。
王都からも確か五名の職人が来ていたけれど、五名じゃ王都の貴族全員が満足する数を捌くのは無理だ。
「硝子筆は嵩張らないのが利点だし、ギルの出張時に運んで貰えば、拠点村で作られる筆も売り捌けて丁度良い。
当面はこれで荒稼ぎさせてもらおう」
アギー公爵家からも、量産品の大量注文が入っているので、今回は五十本のみだったけれど、あちらは近い分、職人が増えるのも早いだろう。
だから今は、王都よりもアギーの発注に応えておきたい。
なにより地価の高い領地だし、大店も多い。硝子筆の需要は多く見込める地なのだ。
「レイシール様、あちらがオゼロ公爵様の執務室です」
雑談を切り上げ、クロードが示した部屋を見ると、扉前に立つ従者らしき人物の姿がある。
近付いていくと、先にあちら側から「地方行政官長、レイシール様でいらっしゃいますか?」と、質問が飛んだ。
どうやら、俺が申請を受け取ったら、知らせが入るようになっていたみたいだな。
「遅くなり、申し訳ございません」
「陛下の思し召しとあれば致し方ございません。
本日は、会談の日程調整となりますが、宜しいでしょうか?」
「はい」
「では中へ。入ってすぐ、一番右端の席が担当となります」
少し、サヤが身を強張らせたのを視線の端に捉えた。
即座に顔を上げると、従者の方の視線がサヤに向いている。
「失礼、私の従者が何か?」
「……いえ……」
女が従者などと、侮辱も甚だしい。
その方は、そこまであからさまに表情へ出したつもりなど、なかったのかもしれない。
けれど、される側は敏感だし、サヤは特に、そう言った視線に晒されてきた身だ。俺にだって、それは見えた。
ハインを伴えないから、必然的にサヤが従者として付き従うことになる。
だからどうしたって、女性を軽視する相手に遭遇すると、こんな風になるのだけど……視線ひとつであっても、サヤを侮辱されたくない。
「オゼロの方にとって、女性の職業従事者は侮辱となるのですか?
私が女性の従者を従えていることが、公爵様への不敬となる……というお考えならば、私は入室を控えます。
誠に残念ではありますが、交渉の必要も感じなくなりましたので、本日は帰らせていただきましょう」
即座にそう言うと、従者の方の口が、唖然と半開きになった。
木炭の値段交渉だ。どうせこちらが下手に出てくるだろうと、そんな風に考えていたのかもしれない。
「私の従者は将来的に、領地の運営にも携わる立場。そのために日々、貧欲に学んでおります。
ダウィート殿はそれを理解し、受け入れてくださった。
だからこそ信頼し、交渉の席を得たいと考えましたが、性別ひとつでこちらを軽視する方と、信頼関係を築けるとは到底思えません。
それでは、オゼロ公爵様には、ご縁が無く誠に残念です。と、お伝えください」
一礼して踵を返した。
俺を呼び止めようとする声が背後から追いかけてきたけれど、当然止まるつもりはない。
交渉ごとであるから、こちらの不利を少しでも突いていこうという魂胆だったのだとしても、サヤはうちの不利ではない。彼女の軽視はただの冒涜だ。
「レイシール様っ」
「大丈夫。マルも承知してるし、今後もずっと、うちはこの方針」
焦った声を上げるサヤにそう言うと、クロード、オブシズも頷いてくれた。
「王宮は女近衛を抱えている。サヤもそのうちの一人として名を連ねている。サヤが女性であることを軽視するのは、陛下の思想に反する。時代はもう動いたんだよ。
そして、サヤを従者に選んだのは俺なんだ。だからサヤが性別で侮辱されるなら、それは俺やセイバーンに対する侮辱。俺の大切な人をそんな風に扱われる謂れは無い。
そもそも交渉に性別如きが影響するような相手は、信用できない」
そう説明すると、くっくっと、噛み殺した笑い声。クロードだ。
「そうですね。今後も取引を続ける相手です。
サヤは将来男爵夫人となる身ですし、今、貴女を侮辱する者は、貴女がその地位に就いた後も、考えを改めることはないでしょう。
貴女の性別如きがいちいち影響する相手では、どうせまた性別をネタに、見当違いなことを言ってくるでしょうし、そういった輩と関わる必要はございません」
サヤはずっと、セイバーンにいるのだ。
セイバーンはサヤを守る場所、サヤの家。そこが心休まらないなんて、あってはならない。
「性別以外でもそうですね。セイバーンの拠点村は、特殊を扱う研究施設ですから」
「うん。出自、色、設備に至るまで、そんなのも全部、バカにするってことは、セイバーンを侮辱することだ。
うちと交流を持つ相手に、いちいち蔑視されてたんじゃ、話が進まない。
なにより俺は、俺の好きなものを馬鹿にする相手を気持ち良くしてやるつもりはないんだ。
心配しなくても、ダウィート殿はきっと引き下がらないし、オゼロ公爵様も俺を放置できない。明日になればまた、連絡があると思うよ」
多分これでオゼロ公爵様は、俺が何かしら、燃料となるものを得ているという考えに至るだろう。
木炭の流通を牛耳るオゼロ。立て付く相手は基本的に存在しない。それが不文律となっているフェルドナレンだから、危機感は大きく、強く、彼の方を揺さぶる。
交渉ごとだからね。こちらだって、交渉の席を待ってはいない。打てる布石は、打てる時に打つ。
もう戦いは、始まっているのだ。
「なにそれ風呂の楽園⁉︎」
「あ、そんな感じですね。マッサージ……えっと、指圧やあん摩を受けられる場所があったりとかもしますし」
「えええぇぇぇ、凄い!」
上から覗き込んだような図面で、こんな雰囲気なんですと図を描くサヤ。
水の風呂もあり、泳いだりもすると言い、半ば唖然とする。
風呂ばかりを一箇所にこれだけ集めて意味があるのか? いや、確かに色々あると楽しそうだけど……。
「気分で入る風呂を変えられるでしょう?」
まずはじっくり温まってから、ぬるいお湯でゆったり寝そべって疲れを取ったり、傷の治癒に薬草湯に浸かったり……」
「成る程」
「えええぇぇ、良いな、良いなーっ! 最高じゃんっ、風呂を選べるって超贅沢!」
「汗を流せた上に寛げるなんて……サヤの国に行きたいわぁ」
女近衛の食いつきたるや凄まじい……。けれど、男近衛の面々も、案外興味があるようで、サヤの描く図を、身を乗り出して覗き込む。
それにビクッと、身を固めたサヤであったけれど、俺が口を開く前に、オブシズがサッと手を差し出し、制してくれた。
「申し訳ない。もう少し距離を取っていただけるか。
サヤはもう、レイシール様の婚約者。彼女の国は、添い遂げる者以外とは触れ合わぬ風習が根強いゆえ」
「あ、あぁ……申し訳ない」
「いえ、申し訳ないのは私の方で。
少し、神経質すぎるとは思うのですが、どうしても、苦手意識が優ってしまって……」
背後ではなく、向かい側からならば、とサヤ。
男性に対する恐怖心がまた強まってしまったとは、流石に言いにくいしな……。
けれど、事情を知らないユーロディア殿が「じゃあレイ様の隣に座ったら? その方がサヤも安心できるじゃん!」と、そんなことを言い出す。
「いえあのっ、今は職務中ですから!」
「あっ、そうだった。ごめんね、くっつきたいかなって」
「イチャついてもらって一向に構わぬがな!」
「初々しくて、逆に恥ずかしい……」
もうそれくらいになさい。と、リヴィ様に嗜められ、サッと口を閉ざす面々。調教されている……。なんかもう慣れてるのかな、こんなやり取り。
「ふむ。風呂の楽園か……。確かに、これだけの種類が一度に堪能できるというのは大変興味深い」
「こんな湯屋をひとつ造って、毎日性別ごとに交代で利用日を決めるというのも良いかもしれませんね。
こちらは、毎日湯に浸かるという習慣は無いのですし」
そうなのだよな。
フェルドナレンは、王族であっても日常的に風呂を使うという習慣が無い。大きな会議や式典等の前日に身を清めるとかはするだろうが、日常的には週に一度も利用しないだろう……。
「私の国の湯屋は、一日中誰でも利用できる代わり、身分は関係なしという決まりがありましたし、利用規則には特に厳しかったそうです。
騎士階級も庶民も同じ湯に浸かりますから、行儀の悪いお客様は、位の高い方でもお断りします。
例えば、湯に浸かる前に必ず身体と髪を洗い、汚れを湯船に持ち込まないだとか、横の人に、冷え者が入ります。冷たかったらごめんなさいね。と、一声掛けるとか。
身分の高い人が、それを理由に優先されるということはありませんでした。
裸の付き合い。なんて言葉もありまして、身分の隔たりの無い場所だからこその、新たな交流なども生まれたと言います」
「ほう……交流な……」
「あぁ、それはあるやもな。湯屋の中は何かこう……警戒心が和らぐというか」
そう言った近衛の方に、バッと視線が集中する。
なんだと……お前、湯屋を利用しやがったのか⁉︎ という女性陣の熱気に、うっと言葉を詰まらせたけれど。
「いや、私は昨年夏に、セイバーン村へ派遣されましたので……」
「村⁉︎」
「あぁ、拠点村にも湯屋はありましたものね。あの光景には、些か驚かされましたわ」
「村に湯屋⁉︎」
「うちは村人が日常的に湯屋を利用しますからね」
「いいなーっ⁉︎」
セイバーンに派遣されるような遠征訓練が欲しいと騒ぎ出す女近衛の面々。元気で明るい……。
そんな中、考え込んでいた陛下がよしっ! と、声を張り上げた。
「レイシール、そのスパとやらを注文する! 来年中に完成させよ。
湯屋は王宮勤めの者ならば、指定日と規則を守れば誰でも利用できるとしよう!
予算等は財務大臣と話し合っておく。
冬の会合までに図面と見積もりを提出せよ!」
「陛下英断ーっ!」
パチパチと拍手を浴び、えへんと胸を逸らした陛下。
いや、そんなことで良いんですか……結構な予算を食いますよこれ。明らかに大物……屋敷を建てるようなものなんですよ? 分かってますか?
「良きに計らえ!」
「……畏まりました……」
まぁこの人、本気なんだろうな。
今年中に造れ。じゃなくて良かった…………。
◆
うん。なんか……想定していないことが色々、多かった。
結局。
陛下の所で思いの外時間を取られ、もう夕刻……。
サヤ、オブシズ、クロードを伴い、俺たちはオゼロ公爵様の執務室を目指していた。
先程、受付室で面会希望を提出しようとしたら、オゼロから俺宛の面会希望が、先に出されていたのだ。
もっと早くにお伺いして、日程調整をする予定だったのに、何故か一日が終わろうとしている……。
「硝子筆、全部売れてしまいましたね」
「五十本全部取られちゃったな……。次の時は、職人たちが戻ってきていると思うし、贈答品に関してはこちらでも製造が始まると思うけど」
「練習用はあまり作らないでしょうか?」
「作る暇が無いんじゃないかな。それこそ、職人数が少ないうちは、手慣らし程度にしか、練習用の生産は無理だと思う。
貴族からの注文が殺到するだろうし、贈答品作りに忙殺されるよ」
王都は特にこういった、流行り物に飛びつくきらいがあるからな。
王都からも確か五名の職人が来ていたけれど、五名じゃ王都の貴族全員が満足する数を捌くのは無理だ。
「硝子筆は嵩張らないのが利点だし、ギルの出張時に運んで貰えば、拠点村で作られる筆も売り捌けて丁度良い。
当面はこれで荒稼ぎさせてもらおう」
アギー公爵家からも、量産品の大量注文が入っているので、今回は五十本のみだったけれど、あちらは近い分、職人が増えるのも早いだろう。
だから今は、王都よりもアギーの発注に応えておきたい。
なにより地価の高い領地だし、大店も多い。硝子筆の需要は多く見込める地なのだ。
「レイシール様、あちらがオゼロ公爵様の執務室です」
雑談を切り上げ、クロードが示した部屋を見ると、扉前に立つ従者らしき人物の姿がある。
近付いていくと、先にあちら側から「地方行政官長、レイシール様でいらっしゃいますか?」と、質問が飛んだ。
どうやら、俺が申請を受け取ったら、知らせが入るようになっていたみたいだな。
「遅くなり、申し訳ございません」
「陛下の思し召しとあれば致し方ございません。
本日は、会談の日程調整となりますが、宜しいでしょうか?」
「はい」
「では中へ。入ってすぐ、一番右端の席が担当となります」
少し、サヤが身を強張らせたのを視線の端に捉えた。
即座に顔を上げると、従者の方の視線がサヤに向いている。
「失礼、私の従者が何か?」
「……いえ……」
女が従者などと、侮辱も甚だしい。
その方は、そこまであからさまに表情へ出したつもりなど、なかったのかもしれない。
けれど、される側は敏感だし、サヤは特に、そう言った視線に晒されてきた身だ。俺にだって、それは見えた。
ハインを伴えないから、必然的にサヤが従者として付き従うことになる。
だからどうしたって、女性を軽視する相手に遭遇すると、こんな風になるのだけど……視線ひとつであっても、サヤを侮辱されたくない。
「オゼロの方にとって、女性の職業従事者は侮辱となるのですか?
私が女性の従者を従えていることが、公爵様への不敬となる……というお考えならば、私は入室を控えます。
誠に残念ではありますが、交渉の必要も感じなくなりましたので、本日は帰らせていただきましょう」
即座にそう言うと、従者の方の口が、唖然と半開きになった。
木炭の値段交渉だ。どうせこちらが下手に出てくるだろうと、そんな風に考えていたのかもしれない。
「私の従者は将来的に、領地の運営にも携わる立場。そのために日々、貧欲に学んでおります。
ダウィート殿はそれを理解し、受け入れてくださった。
だからこそ信頼し、交渉の席を得たいと考えましたが、性別ひとつでこちらを軽視する方と、信頼関係を築けるとは到底思えません。
それでは、オゼロ公爵様には、ご縁が無く誠に残念です。と、お伝えください」
一礼して踵を返した。
俺を呼び止めようとする声が背後から追いかけてきたけれど、当然止まるつもりはない。
交渉ごとであるから、こちらの不利を少しでも突いていこうという魂胆だったのだとしても、サヤはうちの不利ではない。彼女の軽視はただの冒涜だ。
「レイシール様っ」
「大丈夫。マルも承知してるし、今後もずっと、うちはこの方針」
焦った声を上げるサヤにそう言うと、クロード、オブシズも頷いてくれた。
「王宮は女近衛を抱えている。サヤもそのうちの一人として名を連ねている。サヤが女性であることを軽視するのは、陛下の思想に反する。時代はもう動いたんだよ。
そして、サヤを従者に選んだのは俺なんだ。だからサヤが性別で侮辱されるなら、それは俺やセイバーンに対する侮辱。俺の大切な人をそんな風に扱われる謂れは無い。
そもそも交渉に性別如きが影響するような相手は、信用できない」
そう説明すると、くっくっと、噛み殺した笑い声。クロードだ。
「そうですね。今後も取引を続ける相手です。
サヤは将来男爵夫人となる身ですし、今、貴女を侮辱する者は、貴女がその地位に就いた後も、考えを改めることはないでしょう。
貴女の性別如きがいちいち影響する相手では、どうせまた性別をネタに、見当違いなことを言ってくるでしょうし、そういった輩と関わる必要はございません」
サヤはずっと、セイバーンにいるのだ。
セイバーンはサヤを守る場所、サヤの家。そこが心休まらないなんて、あってはならない。
「性別以外でもそうですね。セイバーンの拠点村は、特殊を扱う研究施設ですから」
「うん。出自、色、設備に至るまで、そんなのも全部、バカにするってことは、セイバーンを侮辱することだ。
うちと交流を持つ相手に、いちいち蔑視されてたんじゃ、話が進まない。
なにより俺は、俺の好きなものを馬鹿にする相手を気持ち良くしてやるつもりはないんだ。
心配しなくても、ダウィート殿はきっと引き下がらないし、オゼロ公爵様も俺を放置できない。明日になればまた、連絡があると思うよ」
多分これでオゼロ公爵様は、俺が何かしら、燃料となるものを得ているという考えに至るだろう。
木炭の流通を牛耳るオゼロ。立て付く相手は基本的に存在しない。それが不文律となっているフェルドナレンだから、危機感は大きく、強く、彼の方を揺さぶる。
交渉ごとだからね。こちらだって、交渉の席を待ってはいない。打てる布石は、打てる時に打つ。
もう戦いは、始まっているのだ。
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