いろどりの追憶〜星森の大陸の生きとし生けるものの安寧を強く願った人々〜

裕邑月紫

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走れ!新人官吏くん!

新人官吏は祈る

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杏莆の元でアルバイトを終えた彩棐は、将軍院の西方将軍の官房に戻ってきていた。
午後一杯留守にしていたので案じていたが、彼がいない間も官房の者たちは頑張って仕事をしていたらしい。できていなければ居残りだ、と言う言葉が効いたのかもしれない。
とはいえ、精度はまだまだだ。
 
「…………」
渡された書類を受け取り、彩棐は再び頭痛を覚える。彼はこめかみに指を添えた。そんな彼を官房の主・西方将軍の眞威が気遣わしげにみる。

「だ、大丈夫?主簿っち」
「将軍…」
「うん…」
彩棐の手には、誤字虫踊る書類。
計算を間違えた次の遠征の輜重隊についての書類。
目の前の上司は多分わかってる。この書類の出来ではまずいことに。
 
ーーーこの人は、武術のセンスはピカイチなのに…

彩棐はため息を禁じ得ない。
人間、適材適所というものがあると思う。この眞威については、事務作業よりも体を動かしたり、兵を動かす方が良いのだろう。
「……頑張りましたね」
絞り出すように彩棐がそういうと、しょんぼりしていた眞威は驚いたような顔をした。

「え?いいの…?」
「修正すべきところは正直ありますが、苦手な書類仕事に取り組み、きちんと予定通りのところまで終わらせたのです。それは素晴らしいことだと思います」
ぱあぁぁぁっと眞威の顔が明るくなる。
「主簿っちがほめてくれるなんて!!!」

ーーー人を伸ばすには、叱ってばかりではダメだから。褒めて伸ばす、これも一つの方法。

自分に言い聞かせ、彩棐は微笑む。
「お疲れ様でした、将軍。また、明日よろしくお願いします」
「うん!主簿っちもお疲れ~!」
そう言って眞威は立ち上がり、家人に声をかけて帰り支度を始める。

眞威が官房を立ち去ると、彩棐は壁に貼られたタスクボードを見て今日の官房としての仕事の進捗状況を把握する。これまでよりは、安定した進み具合にほっとする。あとは、この後さくっと自分が修正すれば、どうにかなりそうだった。
いつの間にか、官房は彩棐だけになっていた。眞威の書類の修正、他の武官の作成した書類のチェックをし、全てきちんと整理し終えた頃にはすっかり暗くなっていた。
彼はするりと立ち上がり、さやと袂を捌くと身を翻し、官房を出る。
 
少数民族との交戦が増えてきたとは言え、今聖都の近くでの戦はなく派兵もまだ先の予定であるため、夜になれば将軍院も静かだ。この静けさが、彩棐にとっては大変心地よい。彼は元来、静かなところで一人で過ごすのが好きな質だった。
将軍院を出て、のんびりと歩く。基本的に皇宮内は警備がしっかりしており、こうして歩いていても問題はない。さらに彩棐自身、魔術も剣術もそこそこ腕に覚えがある。多少の危険は一人で跳ね返す自信もある。
 
そのまま彼は聖星森堂院の官舎にやってきて、例のアレルギー患者についての聞き込みをする。すると、聞いていた一人以外にもう一人いることが発覚した。
 
「目が見えにくくなった…?」

聞いた中で最も重い話に彩棐はあからさまに顔を顰める。彼の対応をした聖星森堂の司祭は、神妙な面持ちで頷いた。
「はい。他の方たちと同じように、手の甲と顔が腫れるだけでなく、目も見えにくくなってしまったというのです」
「目が見えにくくなったというのは、やはり百官宴の後の夕方からだろうか」
「そうですね。そのあたりから徐々に違和感を感じたようです。もともと視力が良い方なので随分焦ったようですよ。聖星書が読みにくくてかなわぬ、と」
聖星書とは、星森教の教えを綴った書である。患者はこの聖星森堂で助祭を務める者だった。
ふむ…と彩棐は考え込む。

ーーー何かが目に何か入った、ということか。ということは、やはり食べるものではない、と考えてよさそうだ。

「目が見えにくくなる前、その助祭は何を?」
「その者は百官宴の際、大きな花から落ちてきた雨水に濡れたとかで、すぐに濡れたまま歩いて自宅に戻ったようです」
助祭ともなれば、聖星森堂院の中でも下の位の者である。車や馬車を使わず歩いて帰ったというのも頷ける。聖国百官を務めるは貴族だけではない。厳しい宮官試験にパスすればなることができる。もっとも、試験は簡単なものではないし、受験資格を得るだけでも大変なのだが。

「その者は医師には診てもらっているのだろうか」
彩棐の問いに司祭は首を振った。
「いえ。目が見えにくくなったため、大事をとって出仕を控えております。こちらにはきていないので、聖医療館にも行けていないようです。自宅に医師を呼ぶ余裕もなさそうでした」
確かに歩いて自宅に帰るくらいだ。自宅に医師を呼ぶ、など経済的に厳しいだろう。
「様子を見に行った他の助祭曰く、独り身で目も見えにくいため、医者の元へ行くのもなかなか難しいようで。」
然もありなん、と彩棐は頷く。
「さようか。その者の家の住所を教えてもらえるだろうか。私の方から、聖医療館の医官に診察へいくように手配しよう」
「宮さまのお心遣い感謝します。すぐにお持ちします」
司祭は頷いて、部屋を出ていく。

ーーー雨水に濡れて…歩いて帰った…か。

ーーー「彼は確か…百官宴で濡れてしまったのですよ」

ふと、杏莆の言葉を思い出す。

「…雨水?」

そこまで考えて、彩棐はかぶりを振る。
雨だけで発疹とは聞いたことがないし、それに腕にでた3人と出なかった者たちの差の説明もできない。視力が落ちてしまった助祭との違いも…。

ーーーあと、もう少し…もう少しで辿り着く気がする。

頼んでいた住所のメモを受け取り、聖星森堂院を出て、隣の聖星森堂の礼拝堂へと足を向ける。今夜はもう誰とも会わないことをいいことに、頭に頂いた若草の冠を取り、髪を解く。さらりと絹の黒髪が夜風に揺れる。
幼い頃から通い慣れた礼拝堂に入り込む。時間はすでに20時を過ぎている。この時間、この礼拝堂に誰もいないことは知っている。

冠とメモをベンチに置き、静かな足取りで正面にある星森の申し子の像の前に進む。
ふわり、とどこからともなく不思議な光が現れる。
その光は、静かに歩く彩棐を追いかけ、追いつくとぐるりと彼の周りをまわる。そして、彼の眼前でふわりふわりと滞空した。

「るぅるる」

光から、不思議な鳴き声が上がる。
彩棐と同じ印象的な紫色の瞳が、きらきらと光った。その不思議な存在に、彩棐は微笑みかけそっと撫でる。すると、その光はるぅるぅと小さく鳴いて白い光を撒き散らした。

星森の申し子の像の前に跪く。首から下げた聖印を手に、両手を胸の前で組む。
もう何度口にしたかわからない祈りの言葉を今宵も口にする。

「星を創りし、星森の申し子よ
我が声、我が心に、その傾聴を賜わん

申し子よ、それに連ねたる精霊よ
その清き水で我が穢れを流し、
その清き火で我が宿世の業を焼き
その清き風で我が罪を舞上げ
その清き土で我が咎を穿ち
その清き空で我が過ちを正し
今、ここに我が在ることを許されん

星を護りし、星森の申し子よ
我が心の主よ
 
その清き眼差しで、その清き声で、その清き手で、その清き心で
我が前にあなたの道をお示しください
その道へ至る小道をお教えください

星を抱きし、星森の申し子よ
その御心の愛を遍く人々にお与えください
この星の安寧が永遠に続かんとお導きください」

凛とした声が、静謐な礼拝堂に響く。
彼の周りを飛んでいたあの不思議な光はいつの間にか姿を消していた。

心を落ち着け、ひたすらに祈る。
この星に生きるものの安寧を。
それが、物心ついた頃からの大切な時間。
この時間だけは、誰にも邪魔をされずに、申し子と精霊と対話をする。
そうして、この星に己が立つことに、赦しを乞う。

ーーー私の存在は、いつか赦されるだろうか。

申し子に、精霊に、誰かに、己の存在を赦してもらい生きながらえようとすること自体間違っているのかもしれない。
だが、わずか十四年の生の中で、己の存在が忌むべきものなのでは、と疑念を持たぬ日はなかった。それだけの日々を、彩棐は送ってきてしまっていた。
無理やり心の奥底に仕舞い込んだ想いは、消えることは決してない。

ーーーこのような赦しを乞うても、栓なきことと知っているのに。それでも、私は弱いから。こうして、毎夜、赦しを乞うてしまうのだ。愚かだとわかっていても。


今宵は新月。
聖星森堂を出て、帰途に着く。
5月の夜風は心地良い。彩棐は思わずほぅと息を吐いた。魔法庁の裏門通りを歩む。いつも無意識に見上げてしまう大樹には、今日も羽を休めるためにたくさんの小鳥が止まっていた。
 
大樹の枝間に白い鞠が引っかかってしまっていた。誰かが蹴り上げでもしたのかもしれない。
意識を集中し、左手で印を切り、土の精霊に呼びかける詞を口にする。
「樹々のざわめき」
彼の言葉に応じて、件の大樹の根元に魔法陣が浮かび上がり、その大樹が大きく揺れた。すると、枝間に引っかかっていた白い鞠が、木から離れて落ちてくる。
 
大樹に止まっていた鳥たちが驚いて一斉に鳴きながら飛び立つ。
そうして、月のない暗い空に吸い込まれるようにして、その姿を消す。

あの日のように。


ーーー「小聿さま!」


声が。
聞こえた気がした。
息を飲む。

あの時の自分は何もわかっていなかった。

ーーーあの時から、私は…何も変われていない。

どれだけ、学びを深めても。
どれだけ、武術や魔術を極めても。
どれだけ、芸の腕を磨いても。

ーーー私は無力なままなのだ……それでもこの世にしがみつくのは……

  幼き日に、交わした約束があるから。
  これまでの日々で、多くの人に託された想いがあるから。
  己がどれだけ無力だと分かっていても、見るべきものから目を背けて逃げるような真似を重ねたくはない。
  逃げ出した己に失望しているであろうあの人の想いをこれ以上裏切りたくないのだ。
 
 『できれば、閑職に。地方太守に』
 
 口を開けば出てくるやる気のない言葉とは裏腹に、胸に宿るのは何かせねばという焦燥感。
 一つずつ積み重ねて歩いて行ったその先に何があるのか、わからない。
 それでも、立ち止まってはならぬ、考えよ、歩け、とせき立てるものがある。
 その感覚に背を押されるままに、今、ここに立っている。
 
 
 ぐっと、胸に下げた翡翠の聖印を握りしめる。
  
「だから…どうか……私が今しばらく足掻くのを許してほしい」 
 
 そんな彼の声は誰にも届かないまま、闇夜に溶けていった。
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