3 / 3
第一章
惨憺たる光景
しおりを挟むそれから、どれほどの日が経ったのか。
正確な時間は、もう分からなかった。
だが体感では、少なくとも一週間以上は過ぎている。
三日目までは、床に転がるパンに手を伸ばすことができなかった。
見るだけで喉が詰まり、胃が拒絶した。
それでも――
三日目を過ぎた頃、結李は無言でそれを拾い、口へ運ぶようになっていた。
理由は単純だ。
――生きるため。
味は、ほとんどなく、硬く乾き、噛むたびに口内の水分を奪われた。
手ですくった水を流し込み、無理やり喉へ押し込んだ。
食べて、水分を補給しなければ、身体が動かなくなる。
この先殺されたとしても、まだ生きる時間があるのなら、その少しの時間生きよう。
絶望と恐怖の中でもそう思った結李は、この先、何が待っているのか分からない状況でも、空腹で倒れるわけにはいかなかった。
毎日が、同じことの繰り返しだった。
扉の開く音。
鈍く重たい足音。
どこかの牢から響く悲鳴。
そして――誰かが、消える。
日を追うごとに人は減っていった。
それに比例するように、地下牢を満たす悪臭は濃くなっていった。
排泄物。汗。体臭。
時間が過ぎ、声も減った今、この牢に残っている者こそが「最後の生き残り」なのだと、結李は悟っていた。
周囲の人々は完全に弱り果てていた。
壁にもたれ、呼吸だけを繰り返す者。
床に倒れたまま嗚咽する者。
餓死寸前の者や、すでに精神を壊している者もいた。
結李はその光景を見つめながら、膝を抱えて心の奥で、必死に家族の無事を祈り続けていた。
(お願いだから……生きていて……)
家族への想いだけが、結李をこの世界につなぎ止めていた。
そんな、ある日。
いつものように、あの怪物と白衣の老人が現れた。
もう悲鳴は少ない。
それに慣れてしまった自分に、結李は薄ら寒さを覚えた。
だが――今回は、違った。
何も持たない彼らは、結李たちの牢の前で立ち止まる。
ガチャン、と鍵が外された。
――来た。
自分たちの番だ。
「いや……いやあああ!!!」
叫ぶ者。
弱り、抵抗すらしない者。
声も出せず涙を流す者。
結李は牢の奥に座ったまま、その光景を見つめていた。
(……もう、ここまでか)
今までの日々が、どれほど幸せだったか。
家族との記憶を必死に思い出し、心を保とうとする。
泣き腫らした目にあるのは、底の見えない絶望だけだった。
一人、また一人と連れて行かれる。
気づけば、牢内には結李を含めて数人しか残っていない。
――次は、確実に自分だ。
どこからか、かすかな嗚咽が聞こえる。
「……なんでよ……なんで、わたしが……」
結李はその声の主に目を向ける。
(……同じだよ)
誰もが同じ気持ちだ。
そう思った瞬間――
「ガチャ……」
再び扉が開く。
鈍い足音。鍵の外れる音。
巨大な影が、結李を含めた残り五人の元へと近づく。
三メートル近い体躯。
床を揺らしながら、怪物が結李の前で止まった。
心臓が大きく跳ねる。
近くで見るとよりおぞましいその巨体に、結李は久しぶりに恐怖を感じた。
次の瞬間、怪物の巨大な手が結李の腕を掴んだ。
「――痛っ!」
骨が砕けるかと思うほどの力。
身体は軽々と持ち上げられる。
逃げる隙も、叫ぶ余裕もない。
抱えられながら牢が遠ざかっていく。
――連れていかれる。
すべてを、諦めろと言わんばかりの絶望。
牢を出ると、石造りの長い廊下が続いていた。
両側には無数の扉。
白衣の老人はその一つの前で立ち止まり、扉を開く。
中に入った瞬間、強烈な鉄の臭いが鼻を突いた。
床は血で染まっている。
乾いたものと、まだ湿り気を帯びたものが混在していた。
棚には、得体の知れない何かが入った瓶が整然と並ぶ。
中央には、手術台のようなベッド。
そのとき。
「いやあああああ! 放して! やめて!」
絶叫が響く。
結李が視線を向けると――
血に染まった床の奥に、死体の山が無造作に積み上げられていた。
腕と脚が絡み合い、誰が誰か分からない。
顔は潰れ、血と正体不明の液体に濡れている。
それは紛れもなく、あの地下牢にいた人々だった。
数日前まで隣で息をしていた者たち。
この光景に、他の者たちも取り乱す。
嘔吐する者。
「なんでこんなことを……」と震える声。
「母さん!父さん!助けて!」と叫ぶ声。
結李の胃の奥からも激しい吐き気が込み上げ、咄嗟に口を押さえた。
死体の中には、
胸を切り開かれたもの。
身体がひび割れたようなもの。
目が飛び出しているものもあった。
――ここで、何が行われていたのか。
生きたまま受けた傷なのか。
死後の処置なのか。
そんな疑問さえ、意味を持たない。
床に滴る血は、この部屋で何度も同じことが繰り返された証だった。
「……ひっ……」
視界が揺れ、力が抜ける。
逃げられない。
叫べない。
助けも来ない。
結李は、ようやく理解した。
あのパンや水は――
実験用のネズミに与える餌と変わらない。
材料を生かしておくためのものだったのだ。
呼吸が浅くなり、心臓が耳の奥で鳴り響く。
そのとき、白衣の老人が一歩前へ出た。
「……▲≒≡▼■∵」
初めてはっきりと声を聞く。
だが意味は分からない。
老人はやれやれと言わんばかりの表情を浮かべ、手にした器具をこちらへ向け、光を浴びせた。
「っ!」
まばゆさに目を閉じた瞬間、脳裏に声が直接響く。
「これで、我々の言葉も理解できるだろう」
顔を上げると、老人がにやりと笑っていた。
「これから君たちには、神位精霊を身体に宿してもらう。
もちろん身体は拒絶反応で壊れるだろう。
それを耐え抜いた者だけが、神位精霊の依代になれる」
(神位精霊…?なに?どういうこと?)
言葉は分かれど何を言っているのか結李には理解できなかった。
そして、老人が値踏みする視線が、結李をなぞる。
「恐怖と絶望の中を長く生き延びた個体ほど、反応に“深み”が出る」
老人が不敵な笑みを浮かべると、金色の歯が光った。
「君は、実に興味深い」
怪物が結李たちを床へ降ろす。
足が震え、立っているのがやっとだ。
ベッドの金属が、かすかに軋む。
「……さあ」
老人が静かに告げる。
「始めようか。
まずは――君からだ」
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
さようなら、あなたとはもうお別れです
四季
恋愛
十八の誕生日、親から告げられたアセインという青年と婚約した。
幸せになれると思っていた。
そう夢みていたのだ。
しかし、婚約から三ヶ月ほどが経った頃、異変が起こり始める。
お前は要らない、ですか。そうですか、分かりました。では私は去りますね。あ、私、こう見えても人気があるので、次の相手もすぐに見つかりますよ。
四季
恋愛
お前は要らない、ですか。
そうですか、分かりました。
では私は去りますね。
そんなにその方が気になるなら、どうぞずっと一緒にいて下さい。私は二度とあなたとは関わりませんので……。
しげむろ ゆうき
恋愛
男爵令嬢と仲良くする婚約者に、何度注意しても聞いてくれない
そして、ある日、婚約者のある言葉を聞き、私はつい言ってしまうのだった
全五話
※ホラー無し
愛しの第一王子殿下
みつまめ つぼみ
恋愛
公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。
そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。
クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。
そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる