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◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月
絶望《過去》
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その日が来たのは、一が十七になった年の夏だった。
狭く薄暗い一室。四方を障子と襖に遮られた、何の飾り気もない六畳間で。
「――は?」
外から聞こえる蝉の声がやかましくまとわりつく中、一は愕然として、目の前に座す相手を凝視した。上質な着物を、暑苦しいほどかっちりと着込んでいる初老の男。その、白髪交じりの眉の下に伏せられている鉛色の瞳を、穴が開きそうなほどじっと見据える。
急速に喉が渇いて、同時に酷いめまいを感じた。
「ッ、あの」
声を出すと、次はガンガンと頭の中で大鐘が打ち始められる。
「……申し訳ありません、今、何と……?」
無理やり喉を絞り、問い返す。言葉は、情けないほどに震えていた。
けれど声の震えなどに構っていられる余裕はなかった。今、相手から告げられた言葉が嘘であって欲しいと祈るばかりで……他のことなんて、一切どうでも良かった。
それなのに、
「この春に葛様が亡くなられたと、そう言った」
淡々と返された言葉は、望みとは裏腹に残酷な鋭さをもって、一の胸を改めて貫いた。
「……ご家、老……」
瞬間、何かがふっつり途切れた音を聞いた気がした。
声を上げても、急にそれがまるで己の言葉ではないみたいに感じられて、
「ご家老、私は……」
「山口殿は、今年でいくつになられたかな」
「……じゅう……十七、に」
「十七か。……そなたも、もう充分に分別のつく大人となられたわけだ。今後は改めて『山口家』の者として我が殿に――」
「ご家老!」
無礼だとか何だとか考えるよりも先に、一は声を張り上げていた。
急な大声に渇いた喉が破れて、血でも出てくるかと思った。げほんと意味のない空咳が出て、喉を押さえる。が、何も感じられなかった。喉が痛いと言うよりは単にざらついた違和感があるばかりで、手を当てた喉に脈や体温があるのかさえ、わからなかった。
それでも一は瞬きもせず相手を見据えて、一心不乱に言葉を続けた。
「嘘だ……嘘です! 私は、私はずっと……ずっと、一人前になれば葛様の居場所を教えてくださると、そうおっしゃったご家老の言葉を信じて、だからこそこの九年間ずっと!」
「そなたの葛様への忠心は、誠に天晴れと思う。しかし、亡くなられたものは仕方がない。悔やまれるが、そなたももう良い大人なのだ。そなたの本来の立場をわきまえねば」
「仕方がないって、そんな……信じ……っ、信じられません。葛様は、葛様はどこにいらっしゃるのですか、どこに!」
「もうおられない」
「信じられません!」
「たわけ者!!」
のしかかるような重い響きで叱咤されて、一は継ぐ言葉を出せなかった。
「……怒鳴ってすまぬ。だがそなた、殿にも同じことが申せるか。殿とてご傷心なのだ。それでもこの慌しい世情、目まぐるしくご奔走しておられる。殿は将軍家茂公のご信頼も篤い。何かと混乱の多い御世だ、悲しみに暮れておられる場合でないことを、殿は充分にご承知なのだ」
静かに、諭された。
しかしそれで納得がいくわけもなく、ギリと奥歯を噛み締めて視線を落とす。知らず膝の上で握り締めていた拳が、小刻みに震えていた。
ただ、握り締めた拳は何故か痛くはならなかった。それどころか、先刻まで確かに感じていたはずの渇くような暑さも、相反してじわりと滲んでいたべたつく汗の不快感も、先の一瞬ですべて吹っ飛んでしまっていて……。
気が付けば、目に痛いほどの真夏の光も、まとわりついて離れなかったはずの蝉の声も、何もかもが色を失い、崩れ去り、沈黙を落としていて。
――何だろう。これは何だろう。
己とその周りに、とてつもなく大きな隔たりが生まれてしまったような気がした。己だけがどこかに取り残されたような、己だけが放り出されたような、そんな錯覚に囚われる。
「……ならば……ならばせめて、墓、に……本当に、亡くなられたというなら……」
「それはならん」
突き放したひと言に、こめかみが引きつる。
「何故……ですか」
「そなたの父からの達しだ」
一は、ひゅ、と小さく喉を鳴らして息を吸った。
己を支配する感覚の正体が『絶望』だと気付くのに、大した時は要さなかった。
「すまぬが聞き分けてもらいたい。それで早速のところ申し訳ないが、またそなたに調べてもらいたいことがあるのだ。それが――」
……ああ、誰か。
握り締めていた拳を解くと、強張っていた肩から自然と力が抜けた。瞬きすら忘れていた目を細めれば、自然とまぶたが重くなってくる。逆らうことなく、目を閉じたら――
急に『静か』になった気がした。
何も耳に入らない。何も目に映らない。
……何も耳に入れたくない。何も目にしたくない。
何もいらない。呼吸も――、したくない。
一はそっとまぶたを上げて、目の前に座る家老を見た。素直に話を聞いているとでも思っているのか、相手は変わらぬ淡々とした表情で手元の書面に目を落としては、何やら口をぱくぱくと動かしている。
――『聞き分けてもらいたい』
先刻のひと言を思い返した時、嘲笑にも似た笑みが一瞬だけ、一の口の端に浮かんだ。ただ、表情を維持するのも気だるくて、そんな表情すらすぐに消え去ってしまった。
馬鹿らしい。
一にとっての葛という存在が、「聞き分けろ」というひと言で済むものだったなら……。
一は今、間違いなく、ここにはいない。
狭く薄暗い一室。四方を障子と襖に遮られた、何の飾り気もない六畳間で。
「――は?」
外から聞こえる蝉の声がやかましくまとわりつく中、一は愕然として、目の前に座す相手を凝視した。上質な着物を、暑苦しいほどかっちりと着込んでいる初老の男。その、白髪交じりの眉の下に伏せられている鉛色の瞳を、穴が開きそうなほどじっと見据える。
急速に喉が渇いて、同時に酷いめまいを感じた。
「ッ、あの」
声を出すと、次はガンガンと頭の中で大鐘が打ち始められる。
「……申し訳ありません、今、何と……?」
無理やり喉を絞り、問い返す。言葉は、情けないほどに震えていた。
けれど声の震えなどに構っていられる余裕はなかった。今、相手から告げられた言葉が嘘であって欲しいと祈るばかりで……他のことなんて、一切どうでも良かった。
それなのに、
「この春に葛様が亡くなられたと、そう言った」
淡々と返された言葉は、望みとは裏腹に残酷な鋭さをもって、一の胸を改めて貫いた。
「……ご家、老……」
瞬間、何かがふっつり途切れた音を聞いた気がした。
声を上げても、急にそれがまるで己の言葉ではないみたいに感じられて、
「ご家老、私は……」
「山口殿は、今年でいくつになられたかな」
「……じゅう……十七、に」
「十七か。……そなたも、もう充分に分別のつく大人となられたわけだ。今後は改めて『山口家』の者として我が殿に――」
「ご家老!」
無礼だとか何だとか考えるよりも先に、一は声を張り上げていた。
急な大声に渇いた喉が破れて、血でも出てくるかと思った。げほんと意味のない空咳が出て、喉を押さえる。が、何も感じられなかった。喉が痛いと言うよりは単にざらついた違和感があるばかりで、手を当てた喉に脈や体温があるのかさえ、わからなかった。
それでも一は瞬きもせず相手を見据えて、一心不乱に言葉を続けた。
「嘘だ……嘘です! 私は、私はずっと……ずっと、一人前になれば葛様の居場所を教えてくださると、そうおっしゃったご家老の言葉を信じて、だからこそこの九年間ずっと!」
「そなたの葛様への忠心は、誠に天晴れと思う。しかし、亡くなられたものは仕方がない。悔やまれるが、そなたももう良い大人なのだ。そなたの本来の立場をわきまえねば」
「仕方がないって、そんな……信じ……っ、信じられません。葛様は、葛様はどこにいらっしゃるのですか、どこに!」
「もうおられない」
「信じられません!」
「たわけ者!!」
のしかかるような重い響きで叱咤されて、一は継ぐ言葉を出せなかった。
「……怒鳴ってすまぬ。だがそなた、殿にも同じことが申せるか。殿とてご傷心なのだ。それでもこの慌しい世情、目まぐるしくご奔走しておられる。殿は将軍家茂公のご信頼も篤い。何かと混乱の多い御世だ、悲しみに暮れておられる場合でないことを、殿は充分にご承知なのだ」
静かに、諭された。
しかしそれで納得がいくわけもなく、ギリと奥歯を噛み締めて視線を落とす。知らず膝の上で握り締めていた拳が、小刻みに震えていた。
ただ、握り締めた拳は何故か痛くはならなかった。それどころか、先刻まで確かに感じていたはずの渇くような暑さも、相反してじわりと滲んでいたべたつく汗の不快感も、先の一瞬ですべて吹っ飛んでしまっていて……。
気が付けば、目に痛いほどの真夏の光も、まとわりついて離れなかったはずの蝉の声も、何もかもが色を失い、崩れ去り、沈黙を落としていて。
――何だろう。これは何だろう。
己とその周りに、とてつもなく大きな隔たりが生まれてしまったような気がした。己だけがどこかに取り残されたような、己だけが放り出されたような、そんな錯覚に囚われる。
「……ならば……ならばせめて、墓、に……本当に、亡くなられたというなら……」
「それはならん」
突き放したひと言に、こめかみが引きつる。
「何故……ですか」
「そなたの父からの達しだ」
一は、ひゅ、と小さく喉を鳴らして息を吸った。
己を支配する感覚の正体が『絶望』だと気付くのに、大した時は要さなかった。
「すまぬが聞き分けてもらいたい。それで早速のところ申し訳ないが、またそなたに調べてもらいたいことがあるのだ。それが――」
……ああ、誰か。
握り締めていた拳を解くと、強張っていた肩から自然と力が抜けた。瞬きすら忘れていた目を細めれば、自然とまぶたが重くなってくる。逆らうことなく、目を閉じたら――
急に『静か』になった気がした。
何も耳に入らない。何も目に映らない。
……何も耳に入れたくない。何も目にしたくない。
何もいらない。呼吸も――、したくない。
一はそっとまぶたを上げて、目の前に座る家老を見た。素直に話を聞いているとでも思っているのか、相手は変わらぬ淡々とした表情で手元の書面に目を落としては、何やら口をぱくぱくと動かしている。
――『聞き分けてもらいたい』
先刻のひと言を思い返した時、嘲笑にも似た笑みが一瞬だけ、一の口の端に浮かんだ。ただ、表情を維持するのも気だるくて、そんな表情すらすぐに消え去ってしまった。
馬鹿らしい。
一にとっての葛という存在が、「聞き分けろ」というひと言で済むものだったなら……。
一は今、間違いなく、ここにはいない。
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