櫻雨-ゆすらあめ-

弓束しげる

文字の大きさ
10 / 217
◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月

幼い共依存《過去》

しおりを挟む
「……だれ?」

 ひざまずいている大人に、葛は人が変わったような白けた視線を送った。

「殿からのお文をお届けくださった、つかいのかたです」

 一の説明に、葛は「ふうん」と気のない返事をした。一の懐に入った文をチラと見やり、七つの子供とは思えないほどの冷たい声を男に投げる。

「ごくろうさま。もう、ご用はないんでしょう?」
「は、いえ……」
「帰ってもらっていいですよ、おれ、あなたと話したくないので」

 きっぱりとした葛の言葉に、男はとっさの様子で顔を上げた。

 けれど葛は変わらずの冷たい声で、「おもてを上げていいなんて言ってないですけど」と追い討ちをかける。

 男は慌てた様子で再び頭を垂れた。

「これは、ご無礼を……どうかご容赦くださいませ」
「帰ってください。ごくろうさまでした」
「お待ちを……っ、殿より、葛様の具合を伺うようにと」
「なにも変わりないです。父上にもそう伝えてください。帰ってください」

 取り付く島もなく言い放たれ、男はしばらく戸惑いに視線をさ迷わせていた。が、少しして仕方なく立ち上がり、一礼して踵を返す。

 一度だけこちらを振り返ったけれど、結果として葛と一の突き放した視線に追いやられる羽目になり、そそくさと足を速くして去って行った。

 外門にある木の柵が開閉する音を聞き届けて、一はようやく、本当の意味でほっと気が抜けたのを感じた。

「……おれ、ああいう大人って大っきらい」

 葛が息詰まったような声を上げた。強く、一の胸にしがみつく。大人を突き放した冷たい声とは違い、我侭を言うような甘えた声だった。

 見下ろせば、葛はふてくされたように唇を突き出していた。

「一のこと、なんにも知らないくせに。一は一だもん、おれが知ってるもん。すごくがんばってるの、知ってるもん。八つでも剣術すごいんだぞ、おれのお師匠さまなんだぞ。読み書きだって、もう十一の人がやるようなの、やっちゃうんだから。ばかにすんな」
「葛さま……」

 まるで一の心境を代弁してくれるかのような文句に、胸の奥がすっきりした。一は口元をほころばせて、葛の体を右腕で抱き返す。

「俺、気にしてませんよ」
「ふふっ、ウソ。一がお兄さんと比べられるの一番きらいってことくらい、知ってるもん」

 クスクスと肩を揺らし、葛は小憎らしい笑顔で舌を出した。

 その時だった。

「……ッ」

 唐突に、葛の体が軽く痙攣する。

「葛さま?」

 何の前触れもなく黒目がちな瞳が見開かれ、細い喉から「ウ」と掠れた呻き声が漏れた。

「げほっ、ひ……ッ!」
「葛さま!」

 発作だ――!

 一は慌てて握ったままだった木刀を放り出し、膝を折る葛を両腕で支えた。

 葛は小さな手で自身の胸元を掴み、苦しみに耐えるように体を丸くする。呼吸が上手くできず、咳のような歪な音が喉を鳴らす。

 その背に手を回し、一は葛の顔を下から覗き込んだ。

「葛さま、大丈夫ですか? お薬飲めますか?」

 葛は答えず、浅く荒い息を繰り返しながら目を瞑り、かすかに首を横に振った。

 ――小さな体だ。いくら七つと言ってもあまりにも小柄で、「おれ」なんていう一人称が似合わないほどに線の細い少女ヽヽの体。

 葛は生まれて間もなくから、心の臓を患っている。あまり食べ物を多く口にすることもできなくて、体の成長が遅れているのだ。

 こうして発作が起きると、葛はいつも、小さな体をさらに小さくして苦しむ。だから一はいつも、葛がそのまま目に見えない何かに押し潰されてしまうのではと不安になる。

「葛さま、ゆっくり呼吸してください」

 不規則で奇妙な音を立てる葛の心臓に、正しい脈を教えるようにトントンと背を優しく叩く。本当は薬を飲むのが一番なのだが、以前、医者が無理やり飲ませた時に喉を詰めてしまったことがある。以来、最低限呼吸が落ち着くまではこうするようにと教えられていた。

 ――これ以上悪くなったらどうしよう。自然と自身の鼓動まで早くなるのを感じながら、一はしばらくの間、治まれ治まれと願って葛の背を叩き、抱き締め続けた。

 少しして、葛がわずかに吐息したのがわかった。

「……ごめ……ハ、……ッかふ、ケホッ、ちょっと、治まっ……」

 声は細く、まだまだ震えていたが、一は急いで懐から薬を取り出した。包みから丸薬を取り出し、葛の小さな唇にそっと押し付ける。

 葛は変わらず体を丸くして、けふ、かひゅ、と空咳のような呼吸を繰り返していたけれど、どうにか薬を口に含み、弱々しくも飲み込んでくれた。

 それを見届けてから、一は部屋の中に置かれていた水差しを取って、再び葛の元に戻る。

「大丈夫ですか。まだ、おつらいですか」
「……ん、こほ、ッ。すぐ、治ると思う……このくすり、効くから……」

 葛は一の差し出した水を、ゆっくり小分けに口に含んでいった。しばらくして、丸めていた上体を恐る恐るといった様子で持ち上げる。

「でも、これ飲んだら、ねむくなるのが……ヤだなあ」

 小さくなった空咳のような音の合間にささめきながら、一に寄りかかってくる。

 額や首筋に、夏の暑さのせいばかりではない汗が浮いていた。腰に引っ掛けていた一の手拭いで拭ってやると、小さな口から、今度こそホウと明確なひと息が漏らされる。言っている間に痛みも落ち着いてきたのか、少しばかり体の力を抜いた様子が伝わった。

 次第に呼吸も整って、葛のまぶたが、とろんと落ちてくる。

 ……薬の効果の速さは、それだけ葛の体に負担をかけていることをも物語っているのだけれど。それでも発作が起きて苦しんでいるよりはずっといいと思えて、一もようやく長い息を吐き出した。

「葛さま。部屋までおつれしますから、寝ても大丈夫ですよ」

 言うと、葛は頬をゆるめてまぶたを閉じた。甘えるように、一の胸に頬を寄せてくる。

「……人と違うのなんて、言われなくたって、わかってるのにね」

 脈絡のない呟きが落とされる。先刻の大人の話だろうか。

 葛はぽつりぽつり、ほとんど口も開けず、独り言のように言った。

「なんでみんな、人とちょっと違うだけで、あんな目、するんだろうね。……ほんと、きらい……みんな、きらいだよ」
「みんな、ですか」

 切なくなって、一は葛の体を抱き締めた。

「みんな、なんて……言わないでください」
「……あ。義兄あにうえと、姉うえだけは、好きだよ……。あと、おさだヽヽも」

 一の心情を察したか、眠いだろうに、葛は意地になったようにそれだけ言った。ろれつが回っていなくて舌っ足らずだったが、心なしかその表情は、「言いたいことは言ったぞ」とでも言うように満足げだった。

 ――お貞というのは、この国のお殿様に仕えている、大目付役の娘の名前だ。葛よりも一つ下、一の二つ年下で、自分達に比べれば『普通の子供』然としている女子おなごだが、とてもサバサバとして芯のある子供だ。

 事情があり、普段は袴すら身に着けている葛ではあるが、その身は実質少女に変わりない。お貞はそんな葛の養育の一環として、時々大人に連れられて来る唯一の女トモダチというものだった。

 一はクスリと笑んだ。内心は複雑だったが、それは表に出さず「そうですか」と優しい声を返す。

「がまんせず、もう眠ってください。疲れちゃいます……お貞も、また来てくれますよ」
「ん……」

 まだ断続的に胸が痛むのか、頷いた葛の眉間には、時折引きつるようにしわが刻まれた。それでも先刻に比べれば、呼吸は深く、楽そうだ。ふあ、と小さなあくびをして、いよいよ一に全体重を預けてくる。

 それを愛おしく思いながら、一は葛を背負い上げた。先刻感じた切なさを振り払うように、しっかり立ち上がる。

 と、そこで胸中を見透かされたように耳元で小さく、

「一番は……」
「え?」
「一番は、はじめだけ、だけど……」
「あ……」

 驚いた。手を繋いだみたいに、心が繋がったのかと思った。

 首を回せば、葛は今度こそ本当に眠ってしまったようで、一の肩に首を預けて大人しい寝息を立てていた。

 一は思わずフフと笑った。嬉しくて、背中にある重みが一層、大切に感じられる。心が、温かくなる。

 そうだ、何を拗ねていたのだろう。拗ねることなんてない、自信を持っていればいいのだ。葛の一番は自分だけだと……。

「俺も、葛さまだけが一番です」

 夢の中にいる葛に返して、一は部屋に入った。

 敷いたままの布団に葛を下ろし、できるだけ揺らさないよう、静かに寝かせる。

 無意識に、きゅっと袖を掴まれた。眠っているのにそうする仕草が可愛くて、手をやわらかく包み、握り返す。

「大丈夫です、どこにも行きません」

 気のせいかもしれなかったけれど、葛の表情がほころんだように見えた。

 その表情に満たされる。手の内にある温もりを、護りたいと思う。

 ――生まれてこの方、唯一、一を『山口家の子』ではなく『山口一』と見てくれる人。物心ついた時から傍にいて、ずっと共に生きてきた初めての主。初めての幼馴染。初めての妹。一の『すべて』。

「そばにいますよ、ずっと」

 言葉には、一切の偽りも、遠慮も、迷いもない。

 あるのは真実の一心なる想い、それだけだ。

 それだけ、だったのに。

 そんな一の、唯一無二の主君は――その冬、大人の勝手な都合によって、一の元から攫われたヽヽヽヽ
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。 現在1945年中盤まで執筆

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

 神典日月神示 真実の物語

蔵屋
歴史・時代
 私は二人の方々の神憑りについて、今から25年前にその真実を知りました。 この方たちのお名前は 大本開祖•出口なお(でぐちなお)、 神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)です。  この日月神示(ひつきしんじ)または日尽神示(ひつくしんじ)は、神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)に「国常立尊(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物のことです。  昭和19年から27年(昭和23・26年も無し)に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に8巻の神示が降りたとされています。 その書物を纏めた書類です。  この書類は神国日本の未来の預言書なのだ。 私はこの日月神示(ひつきしんじ)に出会い、研究し始めてもう25年になります。  日月神示が降ろされた場所は麻賀多神社(まかたじんじゃ)です。日月神示の最初の第一帖と第二帖は第二次世界大戦中の昭和19年6月10日に、この神社の社務所で岡本天明が神憑りに合い自動書記さされたのです。 殆どが漢数字、独特の記号、若干のかな文字が混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」もあります。 本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻あり、天明はこの未発表のものについて昭和36年に「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります」と語っています。 日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初は、ほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者達の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917年〈大正6年〉11月9日 ~2009年〈平成21年〉6月23日)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われているます。しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的です。 そのために、仮訳という副題を添えての発表もありました。 なお、原文を解読して漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれています。 縄文人の祝詞に「ひふみ祝詞(のりと)」という祝詞の歌があります。 日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになってきたと言われています。 この小説は真実の物語です。 「神典日月神示(しんてんひつきしんじ)真実の物語」 どうぞ、お楽しみ下さい。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...