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第弐章 西伐の狼煙

第拾参話 燻隠れのくノ一衆

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 影一族を束ねる燻隠れの当主・御子柴龍命は、自らの領に帰還した。

 カリスマ的な指導者である七人衆の多くが出奔し、里はいつもより静かに感じられる。

「やはりお主も戻ったのか。」
「・・・・・・」

 里の最奥の丘に建てられた領主の館に、同じく帰還した黒薔薇馮魔が挨拶に訪れていた。

「お主の狙いは何処いずこにありや?あれ(花菱乱馬)の、将としての器に疑念を持つか?」
「・・・どうであろうな。花菱の血筋の中では、優れた粒といえよう。まだ若いが、それ故に伸びしろもあろう。」

「ならば、お主が力を貸さぬ理由は?」
「城で申した通りにござる。曲がりなりにも天下が落ち着こうという時に、再び戦乱の世に引き戻すは愚の骨頂。」
「・・・その言葉。十年前のお主からは考えられぬがな。」
「あの頃は・・・、・・・若気の至りにございます。」

 それだけ言うと、黒薔薇は領主の館を辞した。そのまま自宅に戻る。黒薔薇の館は質素な小屋である。周囲にはわずかな畑があり、日ごろは野良仕事をしている。

 小屋の中は、囲炉裏のある一角を除いて、床板もない、土の床だ。貧しいたたずまいだが、屋内のはりに異様な形をした小道具が所狭しとぶら下げられている。そのすべてが鍛錬に使う道具であった。

 黒薔薇が玄関を開けると、一人の若い女が土間にひざまずき頭を下げた。

「おかえりなさいまし。」
「ああ。」

 そっけなく応え、黒薔薇は腰に差していた太刀を引き抜くと女に渡した。女は黙ってそれを受け取り、奥の間にある刀掛けに片付けた。女の名は、姫川春奈。幼くして両親を失った彼女は、黒薔薇に拾われ、養われてきた。

 影一族の忍の技は、天下無双ともっぱらの評判ではあるが、さりとて犠牲者が皆無というわけではない。概ね粒ぞろいの忍衆ではあれど、個人差はあり、時の運もある。死ぬときは死ぬのである。

 姫川の両親も、里の他の家々同様にいずれも百姓の傍ら、忍を稼業としていた。しかし、運がなかった。敵陣中で、相手方の計略にはまり生け捕られ、獄中で自害したという。

 齢5歳にして天涯孤独の身となった姫川春奈は、当時18歳の黒薔薇に引き取られ、以来今に至るまで養われてきた。色白の肌に艶のある長い黒髪が美しい。細身の身体だが、胸や臀部は豊かに隆起し、男の本能に火をつけるような造形に成長している。

 当然ながら、春奈の美貌は里の若い男たちの注目の的であったが、常にその傍らには最強の忍といわれる黒薔薇が控えており、この男を恐れて誰も彼女に手を出す者はいなかった。あの女は黒薔薇様の妾だから・・・、皆そう納得して諦めるのであった。

「春奈。膝を貸せ。」

 囲炉裏の間に腰を下ろすと、黒薔薇は傍らで繕い物をする春奈を引き寄せた。そのままその膝を枕にし、目を閉じる。

 いつものことである。春奈はそのまま、淡々と繕い物を続ける。我が物顔で己の身体を好きに使うこの男が、しかし彼女は嫌いではなかった。
 と、玄関から声がした。

「ごめんください。」
「どうぞ。」
「あらら、お邪魔しちゃったわね。」

 春奈が答えると声の主が入ってきた。黒薔薇が閉じていた目を開け、玄関を一瞥する。入ってきたのは、春奈と同じかやや年上の女。那須野なすの燕女つばめ。姫川と同じく、黒髪の直毛を長く伸ばしているが、肌は日焼けし活力に満ち溢れたなりをしている。

「ちょっとお話があるんだけど、付き合ってもらえないかしら。」
「・・・黒薔薇様。行ってもよろしいですか?」
「ああ。」

 黒薔薇はぞんざいに答え、彼女の膝から頭を下した。

 春奈が外に出ると、燕が彼女を小突く。

「もー。相変わらずアツわねぇ。憎らしいわぁ。」
「やん。そんなんじゃないわよ。」
「そんなんて、どんなんよ?あんた、気をつけなさいよ。女子の間じゃ嫉妬の的なんだからね。あの黒薔薇様のお妾にされててうらやましいって。」
「や、やめてよ。そういうこと言うのはぁ。」

 顔を赤らめて春奈が話をさえぎろうとする。だが、否定はできない。黒薔薇に拾われてから、春奈はずっと同じ屋根の下で暮らしてきた。その生活は、質素で安定はしていたが、決して清くはない。黒薔薇は、彼女をくノ一として育ててきている。仕込まれた技の中には、しとねの中での技も含まれている。

 だが、同時に春奈は、自分が黒薔薇には女として愛されてはいないとも感じている。あの男は、一人のくノ一を育てただけなのだと理解している。

 夫婦のように二人で暮らしていながら、春奈にはあの男の心の中が見えることはなかった。彼女は幼いころに黒薔薇に助けられ、それ故に深く慕っている。しかし常に、いつか突然に自分が捨てられるのではないか、という不安に駆られてもいる。それは、誰にも理解してもらえない不安なのだった。

「で、話って何?」
「あのね、私、中津東に渡ろうと思うの。」
「・・・花菱様を追うのね。」
「うん。やっぱり、いなくなったら寂しいってのはあるし・・・、でも、それだけじゃなくて、私にもできることがきっとあるんじゃないかと思って。」

「行きなよ。燕女はきっと行った方がいいわ。」
「実は、香莉奈やあずみちゃんも行きたいって言ってるのよ。で、あなたもどうかなと思って。」
「・・・そうなんだ。七人衆の皆さん、海を渡ったんだもんね。行きたく、なるよね。・・・でも、私は行かない。黒薔薇様は、戻ってきたから。」

 その言葉を聞いて、燕女は小さくため息をついた。やっぱりなという思いのため息だ。

「分かった。あんたは、黒薔薇様がいちばん大事だもんね。」
「・・・ごめん。」
「いいよ。来たくなったらいつでも声をかけてよ。歓迎するわ。」
「うん。」

 それだけいうと、燕女は帰っていった。幼馴染の花菱乱馬を追い、彼女も戦の地に足を踏み入れようとしていた。
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