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煩悶

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レナートは少年を包み込む結界に触れた。
しかし触れることはできない。
まるで絵画の中の人物に触れられないように。

彼は低いトーンで語る。
遠い昔を想起するように、ゆっくりと。

「八年前、事故があった。若くして俺が家を継ぐ前、両親と弟のトビアスが出張へ行っていたんだ。幸か不幸か……当時の俺は魔術に夢中になっていて、家に籠もりきりだった。……まあ、家に籠もってるのは今も同じか」

自嘲気味にレナートは笑う。
ただクラーラは彼の隣に座って、話を聞いていた。

「しばらくして、使用人が血相を変えて帰ってきた。使用人が担いでいたのは血まみれの弟。曰く、両親と弟が賊に襲われたと。両親は死亡。トビアスは……ご覧のとおり意識不明の重体だ。あのままでは死ぬかと思われた。だから俺はトビアスの時を止める黒魔術を行使している。八年間、ずっとね。止めることなく魔力を消費している」

八年間ずっと……となると、どれだけの魔力を。
レナートが本来もつ魔力は測り知れない。

「では、嘘がつけないという副作用はその魔術の?」

「ああ。ただ、時を止めるなどという禁忌に手を染めて、嘘がつけない程度の副作用で済んでいるんだ。大規模な黒魔術を行使すれば、精神が狂ったり停滞したりすることもある。運が悪ければ俺まで植物状態になっていたかもしれない」

黒魔術による副作用は、術者の技量で軽減することができる。
それだけレナートの手腕が優れているということだ。

「彼を、トビアス様を救う方法は……」

「ないよ。少なくとも、俺が八年間ずっと救い方を探し続けても見つからない。どうして意識を取り戻さないのか……まずは原因を明らかにしないと」

植物状態になった人間は、基本的に意識を取り戻さない。
どれだけの治癒魔術を用いても、白魔術を用いても。
色濃い絶望がレナートの言葉に滲んでいた。

叶うことならクラーラが力になりたい。
しかし、自分ができることはあるだろうか。

「まあ、そういうことだ。今まで隠していて悪かったな」

「いえ。隠すのも仕方のないこと。私は……」

嘘がつけないのならば、そもそも話さないという選択もある。
無論、問い詰められれば吐かねばならないが。

レナートは立ち上がり、クラーラに手を差し伸べる。
こんなときでも彼は振る舞いを崩さなかった。
白く美しい手を取り、クラーラは部屋を出た。

 ◇◇◇◇

手元で水晶を転がす。
無数の側面から放たれる輝き。
光を見つめながらクラーラは物思いにふけっていた。
自室のベッドの上でごろごろと転がる。

「どうすれば」

どうすれば、トビアスを救えるのか。
レナートから呪いを取り除けるのか。
さっきから煩悶ばかりしている。

人が患う症状に関して、クラーラは疎い。
黒魔術の使い手は魔物の対策や物質の構築に長けているが、医療的な側面には弱いのだ。
おそらくレナートも同じだろう。

人の症状諸々に関しては、白魔術の管轄。
実家のリナルディ伯爵家に行けば、植物状態の人への対応も記された専門書があるが……それで解決するかは不明だ。
それに、実家に帰るのは気乗りしない。

支援金も送っていないし、何を言われるかわかったものではない。
可能な限り忘却していたい過去。
引きずって、憑いて離れぬ嫌厭。
リナルディ家に戻れば、再び暗い感情を呼び覚ますことになってしまう。

「…………」

「――クラーラ様」

ふと、扉の向こうから声がした。
ジュストの声だ。

「どうぞ」

静かに入ってきたジュストの顔には、ありありと不安の色が浮かんでいた。
珍しい。
いつも毅然とした態度の彼にしては……ずいぶんと脆そうで。

「旦那様よりお聞きしました。旦那様の弟君……トビアス様とご対面されたと。いつかは話さねばならぬ、そう思っていたのですが……」

話す機会がなかった、といえば嘘になる。
話す機会はいくらでもあった。
それでもなお、ジュストは真実を伝えることを拒んだのだ。

クラーラは優しい。
同様にレナートも。
真実を伝えればきっと、二人とも気遣い合って関係性が壊れてしまうかもしれない。

あくまでジュストにとっては、クラーラは主人の婚約者という立場のみでよかった。
一人の魔術師として、トビアスの救出に協力してほしくない。
余計な負担は負わせるべきではないと判断したまでだ。

「お気遣いいただきありがとうございます。ただ、私は令嬢でありながら、魔術師でもあるのです。そこに好奇があれば蝶のようにフラフラと近づいてしまう。どちらかといえば魔術師としての側面の方が強く、なんとも言えない気持ちになりますわ。今もこうして……レナートの力になれないかを考えていたところです」

「いいえ、これはハルトリー伯爵家の問題。クラーラ様のお手を煩わすことは……」

そこまで言いかけたところでジュストは口を閉ざした。
目の前でクラーラが立ち上がり、首を横に振ったからだ。

「いいえ。私はとうにハルトリー家の一員です。レナートは私の夫。自分の弟に等しいトビアス様を、救わずにはいられるでしょうか」

「クラーラ様……これは失礼いたしました。たしかに、今日からここが貴方のご自宅ですと……最初に言ったのは私です。今や貴方は旦那様のご家族。その意見もごもっともです。しかし、トビアス様を救う手立ては……正直ありません」

ジュストは言いきった。
薄々、レナートも感じていることだった。
弟を救う術などないと。

これまでに大枚をはたいて、有名な医者や白魔術師にトビアスを診せてきた。
しかし誰も彼も首を横に振るばかり。
どんなエキスパートでさえも治療は不可能だった。

人体には不思議が多く、未知であふれている。
トビアスが植物状態となっている原因も不明。

「それでも、レナートにとっては。たった一人の肉親なのでしょう? トビアス様は不幸ながら、幸せな点がひとつだけございます。それはレナートという兄を持ったことです。いつまでも弟のことを考えてくれて、救おうと必死になってくれている。命をつなぎとめてくれている。そんな兄君を持ったこと、不幸中の幸いと言えるでしょう」

クラーラには実感がある。
自分を想ってくれる兄弟姉妹がいることが、どれだけ幸福か。
貴族の中では兄弟間で蹴落とし合うことも珍しくない。
クラーラの実家も同様だった。

「旦那様とトビアス様は……非常に仲のよいご兄弟でした。幼い私を、遊びに入れてもらったこともあります。あの日々は楽しかった。昔は二歳しか年齢が離れていなかったのに、トビアス様の時が止まり、十歳の差がついてしまいました。このまま……時を止めておくのは……私には耐えられません」

「諦めたくありません。レナートにもトビアス様にも、ジュスト様にも。この伯爵家の方々はみな素晴らしい。だからこそ、ひとつの不幸な要因があって陰鬱な雰囲気に包まれていることが嫌なのです。私は……今一度、レナートと話をしてみます。もしかしたら救える手がかりがあるかもしれませんわ」

「…………」

クラーラは静かに歩み、部屋を出る。
ジュストは深々と礼をして彼女を見送った。

彼女が見えなくなってもなお、ジュストは頭を下げない。
一滴のあたたかい水が絨毯に落ちた。
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