かつての少女、春を売る

二ノ宮明季

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「君、いくら?」
 全く知らないスーツを着た中年男性の、よく分からない一言に、私はどうしたものかと僅かに首を傾げた。
 しんしんと雪の降る夜。極端に遅い時間ではないし、暗がりを歩いていたわけでもない。乗りたい電車の時間まで少しあったので、ただ駅の近くのベンチに座っていただけである。
 近くにカフェがあるらしい、とは聞いた事があるが、そういうきらびやかな場所に私は不相応であるため、結局こんなところでぼうっと時間を潰していた。
 その為、もしもこの中年男性の言葉をそういう意味として捉えるのなら、私はすでに社会人であったし、垢ぬけているとは言い難く、あえて私に声を掛けた意味が心底理解できなかった。
 露出の高い服とは対極の、裏地があったかいパンツに、取りきれない毛玉がぽろぽろとついたニット。それに、中学の頃に母親に買ってもらったダッフルコートを着込んで、これまた中学の頃からの愛用品であるチェックのマフラーを巻いていた。
 髪はといえば、美容室にもいっていない、手入れと言う手入れ全てを放棄した質の悪い黒髪を一つにくくっている。
 こんな私にこの男性は、一体どういうつもりで声を掛けたのだろうか。
「どうしたの?」
「貴方の言っている意味を理解しかねています」
 畳みかけられた言葉に素直に返すと、彼は面食らった表情をした。寧ろ面食らっているのは私なのだが。一体何なのだろう。
「君、塾の帰り?」
「いえ」
「学校が遅くなったの?」
「いえ」
 男性の問いに、私は首を左右に振った。
 降りしきる雪が頬にくっついて、溶ける。冷たい液体と化したそれがマフラーの中に忍び込み、小さく身震いをした。当然だが、寒い。
「君、学生?」
「いえ」
 成程、学生だと思ったから声を掛けたのか。
 すでに三十に近づいた齢の女に、学生かと思ったというのも変な話だが。加えて言うのなら、仮に学生であったとしても、こんなにぱっとしない人に声を掛けるとは、この男性はよほど趣味が悪いと見える。
 もちろん、彼の言っている「いくら」が、売春行為を意味するものであるのなら、だが。
「君、いくら?」
「それ、どういう意味ですか?」
「一晩買うわけにはいかないか、と思って」
 再度聞かれたので今度は問い返すと、あまりにもあっさりとした言葉が返ってきた。恐ろしい事に、私の予想を肯定する形で。
「私とセックスがしたいという意味ですか?」
「平たく言うとそうだね」
 さらに突っ込むと、これも肯定。本当に理解が出来ない。
「私は二十九歳で、お洒落に疎く、友人も少ない。お付き合いの経験もありません。本当に一晩買いたいとおっしゃるんですか?」
「寧ろ興味がわいたよ。是非お願いしたい」
 きっと引いていくだろうと思って口にしたものは、意外な事にそのまま誘いへと変わった。いや、変わったというよりも、ずっと一貫して誘ってはいるのだろうが。
 ここまで来ると、私自身も興味がわいてきた。
 私のイメージする売春といえば、少女たちがこぞって売っているもの。そのせいか、どこか青春の匂いがした。
 実際は、卑劣な大人による、卑劣な性的搾取である事を知りつつも、青春時代と言えるものをほとんど体験していない無い私は、どうしても気になってしまったのである。
「そういう事なら、分かりました。宜しくお願いします」
「いいの?」
「はい」
 どうせ家に帰ったって、過干渉は母がいるだけだ。
 散々自由に生きてきていたのであろう母は、「かつてこんな目に遭って辛かったから」の名目で私をずっと縛り付けてくる。
 おかげで家から出る事もなく、仕事と家の往復だけをしているのだ。けれども、青春時代が薄かった理由も母だった、と、そんな反骨精神――否、反抗期ともいえる感情が沸き上がってくると、もう駄目だった。
「代わりに、私を少女のように扱ってくれませんか?」
「少女のように?」
「はい」
 私の言葉の何がそんなに面白かったのか、男性は「それはいい!」と手を叩いて笑う。暫しそうしていたかと思えば、今度は手を叩くのを止め、私へと差し伸べた。
 たった今までパシパシと遠慮なく打ち鳴らしていた両の手を引きはがし、右手を私に向かって「ん!」と出す様は、寧ろ愉快である。
「契約は成立したでしょ?」
「はい」
 私は中年男性の手を取って、立ち上がった。冬のベンチに座り込んでいたお尻は、すっかり冷え切っているようだった。
「お家に連絡はしなくてもいい?」
 この言葉にまたひやり、として、慌ててスマホを取り出して母にメッセージを送……る、つもりだった。だが、どういう事だか、全く言葉が出ずに、結局電源を落としてコートのポケットにしまう。
 駄目だった。きっとこの寒さで指がかじかんでしまったのだろう。
 こみ上げる不快感を拭い去るためにも、とっとと頭の中から母の姿を追い払うべきだ。私はそう結論付けて、「大丈夫です」と返した。
「じゃ、行こうか」
「はい」
 繋がれた右手は、彼のコートのポケットの中。妙に温かくて、相手の香水のような匂いが鼻につく。
 どうにも彼に私は、不釣り合いであるような気がした。それこそ、駅前のカフェに私が似合わないのと同じように。
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