かつての少女、春を売る

二ノ宮明季

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 男性は「近藤」と名乗り、私は本名を名乗ろうとしたところで「偽名にしなさい」と窘められて「ハル」と名乗った。ただ単に、今の次の季節の名称を貰っただけだったのだが、近藤さんは嬉しそうに笑った。
 近藤さんは慣れた様子でファミレスに私を連れていくと、「なんでも食べていいよ」と、さも良い人そうな顔をする。
 成程、確かに少女の頃に親以外とファミレスに来た経験がないが、いかにも少女を扱うに適した場所だ。私が少女として扱って欲しいと言ったからだろう。
 店内は、冷えた耳がジンジンとするくらいに温かく、私はマフラーとコートを脱いで、メニューを見つめた。
 近藤さんもコートを脱いで畳んだのを見て、恥ずかしくなったのだ。
 彼はいかにも中年風の、少し恰幅のいい体格ではあったが、清潔感のある姿をしていたのである。整髪料で撫でつけた白髪交じりの髪に、服に詳しくなくてもなんとなく高そうだと感じる程度には小奇麗なスーツ。パリッと糊のきいたワイシャツ。これらを身にまとった相手を前にすると、私の姿のなんとみすぼらしい事。
 こんな事なら、せめてニットの毛玉は取るか、あるいはそろそろ新調した方が良かったのかもしれない。
 けれど、私は一人で自分の服を買った事がないのだ。全て母が揃えてくれたし、母が買ってこない限り、新調もしない。
 化粧っ気も少なく、ざっと一つにまとめた髪の毛も、汚れが付いたまま履き続けている靴も、何もかもが彼とは違った。
 いくら少女のように扱って欲しいとは言っても、社会人として、羞恥心が芽生えないわけではない。
「これは、着飾りがいがあっていいね」
 コートを脱いでメニューを見ている私を前に、近藤さんは声を弾ませる。
「一体何がそんなにいいんですか?」
「僕はね、青春を探しているんだ」
 あくまでも視線はメニューへ。近藤さんが不思議な事を言っていても、格好の落差が恥ずかしいという事実が変わるわけでもない。
「学生の頃、お付き合いをした事が無くてね」
「それで年若い子を?」
「人聞きが悪いけれど、その通りだよ」
 存外簡単に肯定が返ってきた。
 学生時代付き合えなかったから、今、お金を出して学生と付き合っている真似事がしたい、とは、人の事を言えた義理ではないが随分と拗らせている。
「初恋は、図書委員の女の子だった」
 私がメニューから目を離さずにいる間に、近藤さんは続きを語った。
「飾り気がなかったけれど、本を読む横顔がとっても綺麗だったんだ」
 淡い恋心。あるいは甘酸っぱい初恋の思い出、とでも言うべきか。
 私はメニューをめくり、結局何を食べたらいいのかが決められないな、と、ぼんやりと考えていた。いつもは母と来るが、母は優柔不断な私に「これにしたら?」と促してくれるのだが、よく考えたら、自分自身の為に何かを選ぶのは、本当に難しい事だった。
「僕はそれを、自分好みに飾ってみたかった」
「行為がしたかったのではなく?」
「行為はしたかったさ」
 ふと、不思議な単語が聞こえて顔を上げて問うと、彼は爽やかな笑みを浮かべる。そうか、行為はしたかったのか。
 ある意味では健全ではあるが、その前の単語が不思議すぎる。
「けれども、本以外は興味がありません、みたいなあの態度に、どうしても焦がれてね。僕の好みになるように整えたら、実際はどんな姿になって、どんな表情を浮かべて、本以外にどんな興味を持つのかと」
 彼の言い分は私には分からない。だが、人を着飾ってみたい願望があるのだけは分かった。
「だから、君の申し出は、正直願ったり叶ったりだったんだ」
「そうだったんですね」
「食事を終えたら服を買いに行こう。それから化粧品も欲しいね。ああ、下着も。差しさわりなかったら、サイズも教えて貰えるかな?」
 心なしかウキウキとしているようだ。
「それ、少女に向ける言葉ですか?」
「ああ、どの少女にも向けるさ」
「そういう事なら、まぁ」
 言われたのが少女であれば、気持ち悪いと思っているかもしれないが。
 私はその言葉を飲み込むと、「年齢だけ噛み合わず、すみません」と吐き出した。メニューに目を落とすのは、すっかり諦めていた。全くと言っていいほど、選べないのだ。
 自分で決めるのよりも、人に決めて貰った方がよほど簡単だ。たとえそれが、特殊性癖を持つ男性相手であっても。
「いや、いいんだ。寧ろ今、とても楽しいのだから」
 彼は苦笑い一つ浮かべてから、「そろそろ決まった?」と私に問うた。
「近藤さんと同じものにします」
「そうか。苦手なものはないかな?」
「はい」
 一体いつから、私は選べなくなっていたのだろうか。それとも、最初から選ぶ、という行為が出来ないように作られていたのか。
 運ばれてきた食事は、普段母が選ばないもので、少し新鮮だった。
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