呂布の軌跡

灰戸礼二

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徐州支配1 徐州を取り巻く情勢

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例えば後によく出てくる小沛という地は豫州の沛国に属するのだが、陶謙の勢力圏になっていた。陶謙の勢力圏を単に『徐州』と呼称するのは語弊もあるが、文章が冗長になるためここでは『徐州』と呼ぶ。

呂布らが捲土重来を期して徐州へ転進した理由は簡単だ。地理的にも近いし、自分たちがエン州を乗っ取ったため曹操は慌てて徐州攻めをやめて撤退したという経緯もある。徐州から悪く遇されるはずもないという理屈だ。

しかし徐州の情勢は複雑であった。

そもそも、曹操と戦った徐州の主である陶謙はこの一年前の西暦194年に死んでいる。今、州牧としての地位を個人的に受け継いで徐州を治めているのは劉備という者であった。

この劉備は黄巾党の討伐に功あって官途に就き、かつて同じ師の元で学んだことがあるというよしみで公孫サンという群雄の幹部として重用されていた。袁術派である公孫サンが袁紹派である曹操による徐州侵略を防ぐため劉備を徐州へ派遣したのが、そもそもの劉備と徐州の交わりの始まりであった。

その後公孫サンの元へ戻ることなく、劉備は徐州へ留まり続けていた。劉備は自身の兵団を持つ独立勢力であり、公孫サンの協力者であっても家臣ではない。だからその進退は自由なのだが、なぜ重く用いられていた公孫サンの元から出る必要になったかはいくつか理由が考えられる。公孫サンは袁紹と直接対峙していたが、徐々に敗色が濃厚になってきたことが最も大きいだろう。また、公孫サンは政治的に対立していた劉虞という高名な人物を処刑したことで名声を著しく損なっており、その一派と見なされてはかなわないという思いもあったに違いない。

州牧というと州の最高権力者であり、事実上の専制君主である。徴税も徴兵もできる。その立場を死ぬ間際の陶謙及び一部の家臣団から引き継ぐよう懇請されたものの、劉備は一度断っている。それはけして謙譲の心からなどではない。

当時の徐州の情勢は惨憺たる有様であったからだ。徐州は五つの郡からなるが、まずそもそも北方の瑯邪郡は臧覇という者が仲間とともに独立勢力として割拠しており、支配下にない。また州都のある東海郡から見て西と南は曹操軍の凄惨な略奪にあい、復興の見通しもたたない状況である。また東南に位置する広陵郡も、以前陶謙と協力関係にあったサク融という者が独立勢力として暴れまわっており、太守が殺害されるなど混沌とした情勢であった。

また、徐州には揚州丹陽郡の兵が多数いた。彼ら丹陽兵は非常に精強であることで知られ、徐州の大きな戦力であったが、その存在感は政治的にも大きい。陶謙はこの丹陽郡出身であり、よくこれを統御していたが、他の地から来て支配者となった劉備からすると非常に扱い辛い存在でもあった。

州牧といっても実質的にその権限を行使できるかは怪しい状況である。

しかし徐州の大豪族である麋家、徐州に隣接する豫州沛国の陳家、また同じく徐州に隣接する青州北海郡を治めていた孔融という者などの度重なる説得により劉備はついに徐州牧に就くことを決意したのだった。

なお、一応は当初袁術派であった陶謙は後に独自勢力として周辺に影響力を及ぼそうと勝手に郡県の官吏を任命するなどして袁術の不況を買っている。袁術と公孫サンは強力な協力関係にあり、公孫サンと陶謙もまた協力関係にあったものの、三者が揃って協力しあっていたわけではなかったのである。

徐州の主であった陶謙が没した以上、袁術にとっては遠慮する理由は何一つない。地政学上、徐州は是が非でも自身の勢力圏に取り込んでおきたい地域である。また、大勢力である袁術の庇護の元に身を置きたいと願う徐州の有力者も少なからず存在していた。

もちろん袁術にとって一番の敵は何度も苦汁をなめさせられた曹操ではあるのだが、曹操はエン州内で自勢力の立て直しに汲々としており、袁術にとっては当面の敵にはならない。袁術自身が曹操に攻め入るには戦力不足である。そういった情勢下では曹操が立ち直るまでに徐州を手に入れて版図を大きく広げることが袁術にとって最善の選択であったといえる。

曹操と戦い、戦略的敗北を喫したのが百九十三年である。数年で以前以上の勢力を作り上げた袁術は百九十五年の末頃、出師した。

劉備は戦上手だ。三国志の登場人物で戦術能力が高い人物といえば曹操や孫策が図抜けている。そういった超一級の人物たちと比べるとやや見劣りするものの、劉備のそれは並の将と比較すると非常に高い。劉備の用兵を総括すると粘り強いの一言に集約される。

袁術来たれりの速報は徐州を震撼させたが、本拠地である下ヒにいた劉備は淡々と迎撃に向かった。
ちなみにこの頃呂布は劉備の庇護を受けて豫州の沛国にある小沛という地に駐屯していた。この地はエン州に近く、曹操への備えという意味合いが強い。

袁術撃退に呂布を用いなかったのは大雑把にカテゴライズすると呂布らの支配していたエン州は袁術派閥に属していたため、士気が上がらないことが想像できたからだ。それに曹操が攻めてこないとも限らない。

袁術は黄河と長江の間を流れる淮水という河川に沿って侵攻してきている。劉備は下ヒの南にあるクイと淮陰という場所でそれを食い止めた。

先ほど劉備の戦いが粘り強いと述べたのには理由がある。戦略的にも戦術的にも、彼は勝てない戦闘はしない。勝てるようであればそれを討ち、勝てそうになければ撤退する。そうすれば兵力や物資の損耗は最小限に抑えられ、継戦能力は落ちない。当たり前といえば当たり前だが、それを見極める目がなければできることではない。そういった意味では彼は間違いなく戦術の天才の一人であった。

両雄は勝ったり負けたりを繰り返した。劉備は袁術に劣る兵力でよく防いでいた。
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