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徐州支配4 敵対
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さて、このあたりであまり気にされていなかった皇帝の存在が大きくなることになる。
曹操はまだ徐州の争乱が続く頃、勢力圏を広げ、旧都洛陽のあたりまでも勢力圏においた。当時の皇帝劉協はひとところに落ち着くこともできず、居場所を転々としていた。董卓の残党が同士討ちなどによって滅びた後も、利用価値のある皇帝を巡って様々な者たちが相争っていたせいだ。
これに対しひとかどの勢力である曹操がそれら小勢力を駆逐し、皇帝を庇護したのである。196年の秋頃の話である。
ちなみに曹繰の属する陣営の領袖である袁紹はこの行為に対してあまりいい顔をしていない。そもそも袁紹からすれば旧主である当時の大将軍何進の甥の前皇帝・劉弁こそが正当な皇帝なのだ。董卓によって正当な理由なくして劉弁が廃位及び殺害され、擁立された皇帝劉協を袁紹は皇帝として認めていない。独自に皇帝を擁立しようと画策した時期もあったが、それが失敗してから袁紹は皇室をあまり顧みていない。
政治的立場がほぼ同じである曹操が劉協へ肩入れするのは非常に面白くない。それは暗に政治的な立ち位置を袁紹と違えるとの宣言にも等しく、両者の間には亀裂が入った。
曹操の行動に対し、袁術もアクションを行った。皇帝僭称である。漢王朝に見切りをつけ、新王朝設立を宣言したのだ。曹操が皇帝を庇護したのが秋。袁術が皇帝を僭称したのは翌西暦百九十七年の春とあるから一月から三月あたりのことである。
かつては袁紹の部下に近かった曹操の勢力は少しずつ増大していき、袁術と袁紹の争いであった『二袁の争い』の第三勢力として存在感を高めつつあった。
袁紹は形式的に漢王朝の臣下ではあるが、現皇帝に対し含むものがあるという『消極的漢王朝支持』。
曹操も漢王朝の臣下であり、さらに現皇帝を支持している『積極的漢王朝支持』。
袁術は漢王朝を見限って自身が皇帝となった『漢王朝否定』。
三者の政治的スタンスについて一言で表現すると以上のようになる。混迷としていた中原も諸勢力が淘汰されつつあり、その勢力の色合いが明確になりつつあった。
呂布は難しい判断を迫られる立場にあった。徐州は親袁術の立場である。袁術は帝位につく以前から自分の息子と呂布の娘を婚姻させ、両者の紐帯を強くすることを打診していた。
呂布は袁術が漢王朝と完全に離別したがっていることを知ってはいたが、自身の公的な地位はあくまでも漢王朝の、しかも現皇帝である劉協の名の元で与えられていたのである。袁紹などと違い呂布は皇帝の正統性についてはこれまで否定するような行動をとっていない。むしろ皇帝に対する立場としては曹操のそれに近い。
袁術の帝位僭称を認めること、袁術と姻戚になることについては迷いがあった。そこまで肩入れすると後戻りができなくなる。
しかし中途半端な態度は許されない。漢王朝を支持するのであれば、袁術は大逆を犯した重罪人なのである。逆に袁術の帝位を認めてしまえばそれは漢王朝との完全な決別を意味する。
だが曹操との関係を改善しようにも手がかりがない状態であった。
そんな情勢下、曹操に渡りをつけようと申し出てきた者がいる。前述した陳家の当主の陳珪という者である。豫州沛国で威を張る大豪族である陳家は半ば独立勢力として存在していた。ちなみに豫州沛国にあるショウ県というのは曹操の一族の出身地であり、陳家と曹操の間には地縁がある。
陳珪は袁家と同じくらいの名家の出であり、袁術とも以前は交流があった。その縁から文書で袁術から配下になるよう乞われていたこともある。漢王朝は曹操の元で安定を取り戻しつつあるため、袁術の配下にはならないという返答をしたことは彼の政治的な立ち位置を明らかにしている。
彼の一族は以前から袁術と敵対していた。陳珪の従弟の陳ウは揚州を巡る袁紹と袁術の争いの際、袁術の名代として揚州に赴任していた。
だが西暦百九十三年の春に袁術が曹操と戦って大敗北を喫し、揚州に逃げ込んだ際は袁術勢力を見限ったのか、これを拒んだ。
その結果袁術と争うこととなるが、軍を向けられるとすぐに恐れおののいて和を乞うも、当然容れられず、その際に使者として送った弟を怒る袁術に捕縛されてしまう。
そのまま袁術の軍が進軍してくることを知ると、なんと陳ウは逃亡してしまった。
醜態と評する以外の形容が見つからない無様さである。
袁術との敵対行為が陳家の総意の元でなされたのかそうでないかは定かではない。だかこれ以降、前述のように袁術から関係修繕の申し入れはあっても陳家は拒絶している。
そういった事情もあり、陳家は袁術への肩入れをよしとせず、また現在徐州を治める呂布にも袁術との親交を深めて欲しくはなかった。
「して、沛国の御仁はなんと仰っているのだ」
沛国の相、陳珪のことを指して陳宮は問う。相手は先述した陳ウである。この頃彼は半ば人質、半ば監視役のような立ち位置で下ヒにいた。
「当然、捕縛して都へ送れば良かろうと」
下ヒには袁術の使者が滞留している。呂布の娘と袁術の息子との縁談に関し具体的な協議をするために送られてきた使者であり、適当なことを言って帰ってもらえるような種類のものではない。この使者の処遇を定めるため協議していた呂布たちの間でも出てきた案である。これは今までの袁術との親交を全否定するかのような過激な行動であった。
「逆賊たる袁術の使者を遇する術は他にございますまい」
「事は政戦両略に関わる。怒った袁将軍、いや袁術が徐州へ攻め込んでくれば君側の奸たる曹操めを利するだけであろうが。袁術の鋭鋒を避けて呂将軍の忠義を通す法は他にもないだろうか」
「賊軍が百万の兵を率いてこようとも、皆様方の武勇があれば退けるのは容易でございましょう。大逆人を誅する機会を得るのは寧ろ誉れとすべきでは。それに呂将軍は畏れ多くも今上陛下から先だって平東将軍・平陶候を賜ったのですから」
皇帝劉協が小勢力の間で汲々としている頃、徐州にいる呂布へ助けを求める使者を送ったことがある。遠方であるため現実的に要請に応じられないことを詫びる使者を遣わせた呂布に対し、劉協は労いに将軍位と候の位を授けたのである。弱りに弱った王朝から受けた官位とはいえ、皇帝に対する忠勤で得た名声が呂布の強みになっている以上、それを無碍にすることは自分の立つ土台を壊すようなものである。
功を立てて得た官位ではない以上、恩寵に報いる機会には喜ぶべしという主張は臣下として全くの正論であった。
陳ウの述べる論は士大夫層にありがちの形式論であるが、敢えてそれを強調しているのだろう。呂布陣営の政治的な立ち位置から、その論に沿った行動を取ることがもっとも無難な選択肢であると暗に促しているのだ。
「私も今上の陛下には少なからず思い入れがある。だからというわけではないが、袁術につくにも曹操につくにも確たる理由が定められないのであれば、私は陛下の元にいる曹繰へつこう」
エン州出身の幹部たちも悩んだ末にその呂布の考えを認め、衆議は決した。
袁術から送られてきた使者は曹操の元へ送られ、さらし首にされるという悲惨な目にあった。帝位は神聖不可侵なものであるため、帝位を僭称するという罪は最も重いものである。結果は当然の帰結であった。
袁術の使者を曹繰の元へ送った者たちは手土産を持って帰ってきた。左将軍の位であった。現在呂布が就いている平東将軍は外征を担当する職務であるに対し、左将軍は首都防衛軍の指揮が職務であった。格式は高く、朝議(政府の意志決定会議)にも九卿(大臣)に並んで参加できる。袁術から離れ曹操につくという意思表示に対してはまずまず無難な報酬といえる。
呂布は答礼として陳珪の息子である陳登を曹操の元へ派遣した。呂布からすれば実権の伴わない将軍位など不要である。それよりも州牧の位を求めるという内意を陳登から曹操に再度伝えさせた。
呂布は徐州の刺史を自称していた。これは州の軍権を持つ職位でなく徴税もできない役職だ。州刺史に対して州牧は事実上その州の全権を担う職であり、権能は極めて大きい。三国志の登場人物たちは様々な役職を自称するが、それにはおおむね実際に行使できる権力と同程度の権利を有する職が選ばれていた。
呂布が州牧を自称しなかったのは、自身の持つ力だけでは徐州で徴兵も徴税もできなかったことを示している。
皇帝を擁する曹操から正式に軍権を持つ徐州牧の位が授けられれば、呂布政権には公式に正統性が与えられて、堂々と徐州の兵を集めて自在に動かすことができるし、税収も得られる。
直轄兵力が僅少で財政的基盤を持たない呂布にとっては喉から手が出るほど欲しい地位だ。しかしながら曹操としても呂布が信頼に足るパートナーかを推し量る必要があり、軽々にはその期待に応じられなかったのだろうと呂布たちは考えた。
だから曹操が呂布からの要求を、陳登を広陵郡の太守として任命するという形で返答したことについては理解できた。ちなみに郡太守もその地方の軍権と行政権を持つ職であり、実際の権能は州刺史よりも強い。広陵郡は袁術が徐州を攻めるにあたり必ず進軍ルートとなる地だ。これは徐州全体の軍権はやれないが、配下に対袁術の要となる地の軍権は授けるという意味になる。
だが配下といっても陳登は呂布の臣下というわけでなく、呂布が信頼できる相手ではない。
呂布に近い勢力でありながら、曹操自らである程度の手綱を操られる相手に兵権を付与する。これは曹操からの、軍と政の権能が欲しければまずは信頼に足るだけの結果を示せというメッセージと呂布たちは解釈した。
呂布としては面白くはなかったが、曹操の反応は予想の範囲内でもあった。
使者が間接的に殺されたとの報告を受けた袁術は速やかに軍を整え、徐州へ進発させていた。
まずはこの軍を撃退することで自らの武勇を示し、利用価値を曹操に認めさせる必要がある。
呂布の政治的立ち位置を無視した帝位僭称は、翻せば呂布が自分につかなければ実力で徐州をもぎ取るという意思の表れだ。曹操と袁紹が仲違いしたことが大きい。両者が協調しないならば呂布ごときに徐州を任せる必要はないと袁術は考えた。
袁術にとっても想定内の出師であり、その準備は万端であった。
さて、攻め込んできた軍は七つの部隊に分かれていたが、そのうち二つの部隊は袁術の直轄兵力ではない。その部隊の長は楊奉と韓暹という、皇帝の劉協を董卓の残党から守った者たちである。
もっとも彼らとて皇帝の威光を恃んで高い官位を要求するなど、単なる漢王朝に忠実な者というわけでもなかった。曹操が皇帝を庇護する際に対立し、駆逐された彼らは袁術の元へ逃げ込んでいたのだ。
沛国の相にして曹操と呂布とのパイプ役でもある陳珪は彼らに目をつけた。彼らには皇帝劉協の元で董卓残党と戦ってこれを退けたという功績があったが、漢王朝を否定した袁術の元へいるという現状は矛盾したものである。その矛盾は今や曹操と同じく漢王朝を支持する側に回った呂布に味方することにより解消される。
陳珪は二人の調略を呂布に進言した。呂布はその策を取り、書状を送って袁術を裏切るよう説得し、袁術軍から鹵獲した物資を与えることも約束したところ、二人はそれに応じた。
袁術軍は真っ直ぐに下ヒを目指して進軍してきている。各地への影響力が増したとはいえ、呂布が完全に掌握しているのは下ヒ国だけに過ぎない。もっと言えば別に下ヒ国にしても官民が呂布に心服しているわけでもない。呂布さえ打倒すれば雪崩をうったように徐州は袁術に服するだろう。
袁術の進軍を止めるには、呂布が彼らを打ち破る以外に法はなかった。呂布の自前の兵力と、陳珪ら諸豪族の率いる兵力を合わせても兵数は袁術の侵攻軍の半分に満たない。
両軍は対峙した。だが緒戦で楊奉・韓暹の二人の率いる部隊が突如裏切ったため残り五つの部隊は不意をつかれて恐慌状態に陥り、袁術の軍は散々に打ち破られた。
この時に橋ズイという袁術政権の中でも最高位の将軍の一人である人物を生け捕りにした。このことは呂布にとっても袁術にとっても幸いした。呂布は袁術の使者を斬った件を謝し、自身の政治的立ち位置を語り、積極的には袁術と敵対したくない旨を告げて橋ズイをすぐに釈放している。呂布にとっても袁術は健在でいてくれなければならない。小勢力が独立を保つには第三勢力としての立ち位置が不可欠であった。
なお、楊奉と韓暹の兵団はその後しばらく徐州と揚州の境にいたが、後にそれぞれ勢力を失って死んでいる。詳細は触れない。
ともあれ、呂布は大規模な袁術の攻勢を撃退して当面の危機を脱した。
袁術の侵攻軍を撃退したことは徐州内での呂布の評判を高めた。これを機に呂布は徐州の支配を強めようと、これまで支配の及んでいなかった琅邪国の太守である蕭建へ友好を求める書簡を送った。蕭建は呂布の求めに応じた。
先ほども述べたが、琅邪国は複数の小勢力が割拠する地であった。蕭建は琅邪国の太守といっても実効支配ができていたのはキョ県という地だけである。
抜け駆けして呂布についた蕭建を、臧覇をはじめとする他の琅邪国の支配者たちは許さなかった。蕭建は臧覇らに襲われ、キョ県を失った。
琅邪国は攻めにくい地である。呂布は蕭建のためキョ県を取り戻すべく出兵するも、これを落とせず撤兵した。しかしその行為はまったく無駄ということもなく、臧覇ら支配者たちと同盟を結ぶことができた。互いの支配権を認めた形となる。戦略的互恵関係が結ばれたため、北方にまとまった兵を置く必要がなくなったばかりか、彼らは敵勢力が徐州の北から侵攻してきた場合にはそれを妨害する戦力となった。
呂布の勢力は地道に育ちつつあった。動員兵数も少しずつ増えていっている。そこに曹操から新たなアクションがあった。197年の夏頃のことである。
呂布に勅命(皇帝からの命令)が下った。無論、曹操の意を受けて発せられたものであった。
呂布、孫策、陳ウは袁術を攻め滅ぼして正義を明らかにせよという内容であった。
孫策というのは後に三国の一つ呉を建国する孫権の兄で、呉の基礎を築いた者である。元は袁術の部将であるが、袁術が即位する前後は半独立勢力として長江南東付近に割拠していた。皇帝僭称が起きてからも暫くは袁術と敵対はしていなかった。漢に背く袁術を積極的に支持しかねるが、その影響力が必要であるという点で呂布と孫策は似ている。その二人に対し、曹操は袁術と明確に敵対せよと命じたのである。陳ウはその目付役といったところだろうか。
呂布は不快であった。この命令は想定にはない。袁術の侵攻軍を大破した時点で、呂布は責務を果たしている。さらに呂布の側から侵攻せよと命ずるのであれば、まず呂布に然るべき地位を与えてからするのが筋であるはずであった。
だが勅命に公然と逆らうわけにもいかず、呂布は兵を整えて軍を発した。その軍の規模は非常に小さい。沛国で軍を整えて呂布に合流した陳ウの率いる軍は呂布の軍の四倍の兵数はいた。陳家が用意できるほぼ全軍のようだ。嫌みの一つでも言われるかと思っていた呂布だが、予想に反して陳ウは何も言わなかった。帝の命に応じて呂布が袁術を攻めたという事実のみが必要だったのだろう。それにまだまだ発展途上にある呂布の動員兵力で徐州防備の兵を除けば遠征に用いられる兵はどうしても小規模になるというのは自明であるから、そのあたりを陳ウも斟酌したのだと呂布は思った。
徐州南方の広陵郡海西県で呂布・陳ウは孫策の軍とも合流した。
「呂将軍、この勅命の真意はなんと思われますか」
孫策の軍を率いる部将はその夜、密かに呂布の営を訪れた。
互いの政治的立場は熟知している。孫策の率いる兵数も呂布より少し大きい程度だ。とても袁術の領土に攻め込んで打撃を与えられるような規模ではない。要は孫策も袁術とは微妙な距離感を保ち続けたいのである。
形式的に軍を出すだけになるというのは分かりきっているのに、曹操が袁術の討伐を両者に命じた真意を孫策陣営も図りかねていた。
見ようによっては孫策と呂布は袁術の両翼ともいえる。袁術は両者がいるから後背を気にせず曹操と相対できるのだ。この際、本格的に呂布・孫策を袁術から切り離すべく曹操が策動しているのは明らかである。だがそれは二人に本格的袁術領侵攻の意図があって成り立つ図式であり、二人とも袁術を攻めても得られるものが少ない以上、曹操が期待している効果は出ない。
曹操もそれくらいのことは了承しているはずだ。だから呂布はこう結論づけた。
「我らが勅命を奉じて袁術を攻撃したという風評が欲しいのではあるまいか。袁術に与する者どもも少しばかりは動揺するでしょう」
「なるほど」
孫策の部将はどこか含みのある表情をしている。
「我が主は呂将軍のことを信頼しており、それ故にお伝えいたします。この勅命は呂将軍と我が主を陥れるための罠なのです」
そう言うと部将は複数の書状と印を呂布に差し出す。
「曹操の内意を受けた陳ウが官位をばらまいて我らが従えた者たちを煽動し、主が領土を出ている間に乱を起こさせるつもりであったようです。心利きたる者が知らせてまいりました。その者へ送ろうとしていた書状と官印(官位を示す印鑑)がそちらです。密使として動いていた陳ウの都尉(軍事担当官)も主が捕えております」
その時、呂布の背に走ったのは怒りよりもむしろ恐怖に近いものであった。曹操を見誤っていたことに気づいたのである。
曹操は呂布が寡兵で出陣することも重々承知だった。つまり陳ウに呂布を襲わせるつもりだったのだ。呂布は陳ウごときが自分の数倍の兵数を持っていようとも平地で堂々と戦うのであれば打ち破る自信はあるが、戦闘態勢にない状態で背後から襲われてはひとたまりもない。
「お気づきでしょう。曹操は我が主に将軍位や官位を与え、袁術と自分とを天秤にかけさせたのではありません。我らを初めから葬るつもりでの謀略です」
孫策はその戦術的才能を武器に短期間で多くの勢力を配下にしていた。その者たちを裏切らせて領土を失陥させると同時に、陳ウが呂布を害せば情勢は一気に曹操に傾く。徐州の実権は曹操の息のかかった者が掌握できるよう陳家が動くに違いない。恐らく劉備を復権させようと画策するはずだ。
徐州南方の揚州も曹操に味方した諸勢力が力を取り戻すだろう。袁術は曹操の支配する領域ばかりでなく徐州と揚州にもまとまった兵力を割かなくてはならなくなる。
見事な策である。そしてこの策は一つのことを示唆していた。曹操は己とその部下以外を信頼していない。他勢力は全て敵であり、叩き潰す順番が違うだけである。曹操はまさに覇道を歩んでいるのだ。
晩年の陶謙のように自分の勢力圏を諸勢力の争いに荷担させず独立を保つという呂布の方針とは対をなしていた。
「気が進みませんが、主は袁術とある程度の協調をしなくてはならないと考えているようです」
呂布は黙然として返事をしない。
「いずれにしても我らは勅命を奉じてここへ参ったのではございません。陳ウめに打擲を加えるため参ったのです。我々は明日にでも奴を攻めます。呂将軍の立場も複雑でございましょうから、共に攻めてくれとはお願いできませんが、どうか邪魔だてされませぬようくれぐれも宜しくお願いします」
孫策の部将は去った。
翌日、孫策軍は陳ウの営を突如襲った。呂布は陳ウから援軍を督促する使者がくるとも思っていたが、それすらも許さぬ猛攻で短時間に営は打ち破られた。
「呂将軍は何故座視しておられたのか」
僅かな側近と共に呂布の営に逃げ込んだ陳ウは呂布を面罵した。陳ウに従う者たちも同様に呂布を目で非難していた。
「援軍なら卿が孫将軍の背後で蠢動させていた賊どもに頼めば良かろう」
さっと陳ウの顔色が青くなる。
「我が営はいつ頃襲うつもりであったのだ。卿ごとき小人が大それた策を成せると思ったのか」
陳ウに従う者たちのほとんどは驚きを顔に浮かべている。陳ウの奸計は僅かな者にしか知らされてなかったのだろう。
「勅命を奉じて逆賊袁術を討つための軍を害するとは、何度殺しても飽きたらぬ。陛下に面従腹背する不忠者に相応しい罰はどのようなものが良いだろうな」
陳ウも士人の端くれであり、動揺から回復してからは醜態を見せなかった。
呂布は陳ウを殺したい気持ちは山々であったものの、この時代の血のつながりは濃い。殺せば陳家は呂布に恨みを抱くかもしれない。それは得策ではない。
勅命により編成された袁術討伐軍は瓦解した。呂布は勤皇の志を表明している以上、大っぴらにはできないがすぐに袁術との関係を秘密裏に修繕した。
曹操は皇帝劉協を擁しているため、これまでは勤皇という立場は曹操支持という立場に通じていた。しかし本件により勅命を奉じた呂布と孫策を討とうとした曹操の企みが明らかになったのである。呂布は客観的証拠の元、曹操を君側の奸として弾劾することが可能になった。つまり呂布は従来の勤皇家としての名声を損なわず曹操と敵対できるようになり、政策と外交の自由度が上がったのである。
※
「我が一族より不心得者を出したことについてはお詫びしようがございません」
豫州沛国の相である陳珪は呂布のいる下ヒまで赴き、まさに平身低頭といった態度で謝罪を行った。
「卿の罪ではございますまい」
口では鷹揚に陳珪を労う呂布だったが、本心からではない。陳ウが曹操の内意を受けて動いていたのは明らかであったが、陳珪がその謀に介在していないとも限らない。むしろ加担していたと考えるのが妥当だろう。
「いや、それにしても曹操が佞臣であることは明らかになりましたな。勅命で動く義軍を討とうと謀るなど、大逆無道というべきであろう」
陳宮は喜びを隠そうともしない。この一事を陳珪が知っていたにせよ、知らなかったにせよ、陳珪は呂布に対し大きな借りを作ったのだ。
「我々は佞臣曹操に対抗するために呂将軍に州牧となっていただきたいと願っているのですが、なかなか呂将軍は引き受けようとしてくださらぬのです。貴殿からもお願いしてくださらんか」
呂布の公式な立場は左将軍であり、仮節(軍令に違反した者を処罰できる権利)、儀同三司(格式を内政官最高位の者と同じとみなす)を加えられている。徐州刺史は自称しているだけである。州牧を自称するということは州内から徴税と徴兵を行う権利を持つということであり、それには州内の支持が必要だ。
陳ウの行為を不問にする代わりに呂布の州牧としての権能を自身の徐州へ及ぼせる影響力を以て担保せよと陳宮は言っている。
「それは、なんとも」
「何故でしょう。一方に偽帝がおり、一方に奸臣がいるような状態であれば正義を行えるのは呂将軍ただお一人。呂将軍には万を越す兵を率いていただかなくてはなりませぬ。そのためには州牧の位に就いていただかなくては」
極論すると呂布は沛国を攻め滅ぼしてもいいのだ。陳ウの行為は明らかな漢王朝に対する叛逆行為であり、その行為は第三勢力である孫策も見聞きしたわけだから隠し立てもできない。呂布には陳珪を攻め滅ぼすくらいの武力はあった。
ただ豫州沛国を力で押さえても得られるものはたかがしれている。大義名分があったとしても沛国内で反感を買うことは必定であり、安定した支配ができるとは考えにくい。
それよりもある程度安定しつつある徐州の支配に対する後押しを得た方が余程実利がある。
勅命を奉じる軍を騙し討ちにしようとするなど、世が世なら一族が皆殺しにされても不思議ではない大逆である。当然それを唆した曹操も同罪だ。呂布が曹操に対抗するには力をつける必要があり、それには陳珪の支持が必要である。親類が罪を犯したのだから、一族としてその罪はすすぐべきである。
陳宮の論理は乱れがない。しばらくは煮え切らないことを言っていた陳珪もやがて折れ、呂布が州牧として権能を振るうのを助けると申し出た。
呂布は喜んで捕らえていた陳ウを陳珪の手に委ねた。陳珪自らに罰せさせるといった名分であったが、その実は助命である。沛国にも徐州にも居場所をなくした陳ウは袁紹の庇護を受け、その支配域の中で捨て扶持をもらうようになった。その後の事跡は残っていない。
袁術の帝位僭称時に曹操へ味方したことは呂布にとって本心からの決断であったはずだ。だが曹操は一貫して呂布を敵視した。
曹操はまだ徐州の争乱が続く頃、勢力圏を広げ、旧都洛陽のあたりまでも勢力圏においた。当時の皇帝劉協はひとところに落ち着くこともできず、居場所を転々としていた。董卓の残党が同士討ちなどによって滅びた後も、利用価値のある皇帝を巡って様々な者たちが相争っていたせいだ。
これに対しひとかどの勢力である曹操がそれら小勢力を駆逐し、皇帝を庇護したのである。196年の秋頃の話である。
ちなみに曹繰の属する陣営の領袖である袁紹はこの行為に対してあまりいい顔をしていない。そもそも袁紹からすれば旧主である当時の大将軍何進の甥の前皇帝・劉弁こそが正当な皇帝なのだ。董卓によって正当な理由なくして劉弁が廃位及び殺害され、擁立された皇帝劉協を袁紹は皇帝として認めていない。独自に皇帝を擁立しようと画策した時期もあったが、それが失敗してから袁紹は皇室をあまり顧みていない。
政治的立場がほぼ同じである曹操が劉協へ肩入れするのは非常に面白くない。それは暗に政治的な立ち位置を袁紹と違えるとの宣言にも等しく、両者の間には亀裂が入った。
曹操の行動に対し、袁術もアクションを行った。皇帝僭称である。漢王朝に見切りをつけ、新王朝設立を宣言したのだ。曹操が皇帝を庇護したのが秋。袁術が皇帝を僭称したのは翌西暦百九十七年の春とあるから一月から三月あたりのことである。
かつては袁紹の部下に近かった曹操の勢力は少しずつ増大していき、袁術と袁紹の争いであった『二袁の争い』の第三勢力として存在感を高めつつあった。
袁紹は形式的に漢王朝の臣下ではあるが、現皇帝に対し含むものがあるという『消極的漢王朝支持』。
曹操も漢王朝の臣下であり、さらに現皇帝を支持している『積極的漢王朝支持』。
袁術は漢王朝を見限って自身が皇帝となった『漢王朝否定』。
三者の政治的スタンスについて一言で表現すると以上のようになる。混迷としていた中原も諸勢力が淘汰されつつあり、その勢力の色合いが明確になりつつあった。
呂布は難しい判断を迫られる立場にあった。徐州は親袁術の立場である。袁術は帝位につく以前から自分の息子と呂布の娘を婚姻させ、両者の紐帯を強くすることを打診していた。
呂布は袁術が漢王朝と完全に離別したがっていることを知ってはいたが、自身の公的な地位はあくまでも漢王朝の、しかも現皇帝である劉協の名の元で与えられていたのである。袁紹などと違い呂布は皇帝の正統性についてはこれまで否定するような行動をとっていない。むしろ皇帝に対する立場としては曹操のそれに近い。
袁術の帝位僭称を認めること、袁術と姻戚になることについては迷いがあった。そこまで肩入れすると後戻りができなくなる。
しかし中途半端な態度は許されない。漢王朝を支持するのであれば、袁術は大逆を犯した重罪人なのである。逆に袁術の帝位を認めてしまえばそれは漢王朝との完全な決別を意味する。
だが曹操との関係を改善しようにも手がかりがない状態であった。
そんな情勢下、曹操に渡りをつけようと申し出てきた者がいる。前述した陳家の当主の陳珪という者である。豫州沛国で威を張る大豪族である陳家は半ば独立勢力として存在していた。ちなみに豫州沛国にあるショウ県というのは曹操の一族の出身地であり、陳家と曹操の間には地縁がある。
陳珪は袁家と同じくらいの名家の出であり、袁術とも以前は交流があった。その縁から文書で袁術から配下になるよう乞われていたこともある。漢王朝は曹操の元で安定を取り戻しつつあるため、袁術の配下にはならないという返答をしたことは彼の政治的な立ち位置を明らかにしている。
彼の一族は以前から袁術と敵対していた。陳珪の従弟の陳ウは揚州を巡る袁紹と袁術の争いの際、袁術の名代として揚州に赴任していた。
だが西暦百九十三年の春に袁術が曹操と戦って大敗北を喫し、揚州に逃げ込んだ際は袁術勢力を見限ったのか、これを拒んだ。
その結果袁術と争うこととなるが、軍を向けられるとすぐに恐れおののいて和を乞うも、当然容れられず、その際に使者として送った弟を怒る袁術に捕縛されてしまう。
そのまま袁術の軍が進軍してくることを知ると、なんと陳ウは逃亡してしまった。
醜態と評する以外の形容が見つからない無様さである。
袁術との敵対行為が陳家の総意の元でなされたのかそうでないかは定かではない。だかこれ以降、前述のように袁術から関係修繕の申し入れはあっても陳家は拒絶している。
そういった事情もあり、陳家は袁術への肩入れをよしとせず、また現在徐州を治める呂布にも袁術との親交を深めて欲しくはなかった。
「して、沛国の御仁はなんと仰っているのだ」
沛国の相、陳珪のことを指して陳宮は問う。相手は先述した陳ウである。この頃彼は半ば人質、半ば監視役のような立ち位置で下ヒにいた。
「当然、捕縛して都へ送れば良かろうと」
下ヒには袁術の使者が滞留している。呂布の娘と袁術の息子との縁談に関し具体的な協議をするために送られてきた使者であり、適当なことを言って帰ってもらえるような種類のものではない。この使者の処遇を定めるため協議していた呂布たちの間でも出てきた案である。これは今までの袁術との親交を全否定するかのような過激な行動であった。
「逆賊たる袁術の使者を遇する術は他にございますまい」
「事は政戦両略に関わる。怒った袁将軍、いや袁術が徐州へ攻め込んでくれば君側の奸たる曹操めを利するだけであろうが。袁術の鋭鋒を避けて呂将軍の忠義を通す法は他にもないだろうか」
「賊軍が百万の兵を率いてこようとも、皆様方の武勇があれば退けるのは容易でございましょう。大逆人を誅する機会を得るのは寧ろ誉れとすべきでは。それに呂将軍は畏れ多くも今上陛下から先だって平東将軍・平陶候を賜ったのですから」
皇帝劉協が小勢力の間で汲々としている頃、徐州にいる呂布へ助けを求める使者を送ったことがある。遠方であるため現実的に要請に応じられないことを詫びる使者を遣わせた呂布に対し、劉協は労いに将軍位と候の位を授けたのである。弱りに弱った王朝から受けた官位とはいえ、皇帝に対する忠勤で得た名声が呂布の強みになっている以上、それを無碍にすることは自分の立つ土台を壊すようなものである。
功を立てて得た官位ではない以上、恩寵に報いる機会には喜ぶべしという主張は臣下として全くの正論であった。
陳ウの述べる論は士大夫層にありがちの形式論であるが、敢えてそれを強調しているのだろう。呂布陣営の政治的な立ち位置から、その論に沿った行動を取ることがもっとも無難な選択肢であると暗に促しているのだ。
「私も今上の陛下には少なからず思い入れがある。だからというわけではないが、袁術につくにも曹操につくにも確たる理由が定められないのであれば、私は陛下の元にいる曹繰へつこう」
エン州出身の幹部たちも悩んだ末にその呂布の考えを認め、衆議は決した。
袁術から送られてきた使者は曹操の元へ送られ、さらし首にされるという悲惨な目にあった。帝位は神聖不可侵なものであるため、帝位を僭称するという罪は最も重いものである。結果は当然の帰結であった。
袁術の使者を曹繰の元へ送った者たちは手土産を持って帰ってきた。左将軍の位であった。現在呂布が就いている平東将軍は外征を担当する職務であるに対し、左将軍は首都防衛軍の指揮が職務であった。格式は高く、朝議(政府の意志決定会議)にも九卿(大臣)に並んで参加できる。袁術から離れ曹操につくという意思表示に対してはまずまず無難な報酬といえる。
呂布は答礼として陳珪の息子である陳登を曹操の元へ派遣した。呂布からすれば実権の伴わない将軍位など不要である。それよりも州牧の位を求めるという内意を陳登から曹操に再度伝えさせた。
呂布は徐州の刺史を自称していた。これは州の軍権を持つ職位でなく徴税もできない役職だ。州刺史に対して州牧は事実上その州の全権を担う職であり、権能は極めて大きい。三国志の登場人物たちは様々な役職を自称するが、それにはおおむね実際に行使できる権力と同程度の権利を有する職が選ばれていた。
呂布が州牧を自称しなかったのは、自身の持つ力だけでは徐州で徴兵も徴税もできなかったことを示している。
皇帝を擁する曹操から正式に軍権を持つ徐州牧の位が授けられれば、呂布政権には公式に正統性が与えられて、堂々と徐州の兵を集めて自在に動かすことができるし、税収も得られる。
直轄兵力が僅少で財政的基盤を持たない呂布にとっては喉から手が出るほど欲しい地位だ。しかしながら曹操としても呂布が信頼に足るパートナーかを推し量る必要があり、軽々にはその期待に応じられなかったのだろうと呂布たちは考えた。
だから曹操が呂布からの要求を、陳登を広陵郡の太守として任命するという形で返答したことについては理解できた。ちなみに郡太守もその地方の軍権と行政権を持つ職であり、実際の権能は州刺史よりも強い。広陵郡は袁術が徐州を攻めるにあたり必ず進軍ルートとなる地だ。これは徐州全体の軍権はやれないが、配下に対袁術の要となる地の軍権は授けるという意味になる。
だが配下といっても陳登は呂布の臣下というわけでなく、呂布が信頼できる相手ではない。
呂布に近い勢力でありながら、曹操自らである程度の手綱を操られる相手に兵権を付与する。これは曹操からの、軍と政の権能が欲しければまずは信頼に足るだけの結果を示せというメッセージと呂布たちは解釈した。
呂布としては面白くはなかったが、曹操の反応は予想の範囲内でもあった。
使者が間接的に殺されたとの報告を受けた袁術は速やかに軍を整え、徐州へ進発させていた。
まずはこの軍を撃退することで自らの武勇を示し、利用価値を曹操に認めさせる必要がある。
呂布の政治的立ち位置を無視した帝位僭称は、翻せば呂布が自分につかなければ実力で徐州をもぎ取るという意思の表れだ。曹操と袁紹が仲違いしたことが大きい。両者が協調しないならば呂布ごときに徐州を任せる必要はないと袁術は考えた。
袁術にとっても想定内の出師であり、その準備は万端であった。
さて、攻め込んできた軍は七つの部隊に分かれていたが、そのうち二つの部隊は袁術の直轄兵力ではない。その部隊の長は楊奉と韓暹という、皇帝の劉協を董卓の残党から守った者たちである。
もっとも彼らとて皇帝の威光を恃んで高い官位を要求するなど、単なる漢王朝に忠実な者というわけでもなかった。曹操が皇帝を庇護する際に対立し、駆逐された彼らは袁術の元へ逃げ込んでいたのだ。
沛国の相にして曹操と呂布とのパイプ役でもある陳珪は彼らに目をつけた。彼らには皇帝劉協の元で董卓残党と戦ってこれを退けたという功績があったが、漢王朝を否定した袁術の元へいるという現状は矛盾したものである。その矛盾は今や曹操と同じく漢王朝を支持する側に回った呂布に味方することにより解消される。
陳珪は二人の調略を呂布に進言した。呂布はその策を取り、書状を送って袁術を裏切るよう説得し、袁術軍から鹵獲した物資を与えることも約束したところ、二人はそれに応じた。
袁術軍は真っ直ぐに下ヒを目指して進軍してきている。各地への影響力が増したとはいえ、呂布が完全に掌握しているのは下ヒ国だけに過ぎない。もっと言えば別に下ヒ国にしても官民が呂布に心服しているわけでもない。呂布さえ打倒すれば雪崩をうったように徐州は袁術に服するだろう。
袁術の進軍を止めるには、呂布が彼らを打ち破る以外に法はなかった。呂布の自前の兵力と、陳珪ら諸豪族の率いる兵力を合わせても兵数は袁術の侵攻軍の半分に満たない。
両軍は対峙した。だが緒戦で楊奉・韓暹の二人の率いる部隊が突如裏切ったため残り五つの部隊は不意をつかれて恐慌状態に陥り、袁術の軍は散々に打ち破られた。
この時に橋ズイという袁術政権の中でも最高位の将軍の一人である人物を生け捕りにした。このことは呂布にとっても袁術にとっても幸いした。呂布は袁術の使者を斬った件を謝し、自身の政治的立ち位置を語り、積極的には袁術と敵対したくない旨を告げて橋ズイをすぐに釈放している。呂布にとっても袁術は健在でいてくれなければならない。小勢力が独立を保つには第三勢力としての立ち位置が不可欠であった。
なお、楊奉と韓暹の兵団はその後しばらく徐州と揚州の境にいたが、後にそれぞれ勢力を失って死んでいる。詳細は触れない。
ともあれ、呂布は大規模な袁術の攻勢を撃退して当面の危機を脱した。
袁術の侵攻軍を撃退したことは徐州内での呂布の評判を高めた。これを機に呂布は徐州の支配を強めようと、これまで支配の及んでいなかった琅邪国の太守である蕭建へ友好を求める書簡を送った。蕭建は呂布の求めに応じた。
先ほども述べたが、琅邪国は複数の小勢力が割拠する地であった。蕭建は琅邪国の太守といっても実効支配ができていたのはキョ県という地だけである。
抜け駆けして呂布についた蕭建を、臧覇をはじめとする他の琅邪国の支配者たちは許さなかった。蕭建は臧覇らに襲われ、キョ県を失った。
琅邪国は攻めにくい地である。呂布は蕭建のためキョ県を取り戻すべく出兵するも、これを落とせず撤兵した。しかしその行為はまったく無駄ということもなく、臧覇ら支配者たちと同盟を結ぶことができた。互いの支配権を認めた形となる。戦略的互恵関係が結ばれたため、北方にまとまった兵を置く必要がなくなったばかりか、彼らは敵勢力が徐州の北から侵攻してきた場合にはそれを妨害する戦力となった。
呂布の勢力は地道に育ちつつあった。動員兵数も少しずつ増えていっている。そこに曹操から新たなアクションがあった。197年の夏頃のことである。
呂布に勅命(皇帝からの命令)が下った。無論、曹操の意を受けて発せられたものであった。
呂布、孫策、陳ウは袁術を攻め滅ぼして正義を明らかにせよという内容であった。
孫策というのは後に三国の一つ呉を建国する孫権の兄で、呉の基礎を築いた者である。元は袁術の部将であるが、袁術が即位する前後は半独立勢力として長江南東付近に割拠していた。皇帝僭称が起きてからも暫くは袁術と敵対はしていなかった。漢に背く袁術を積極的に支持しかねるが、その影響力が必要であるという点で呂布と孫策は似ている。その二人に対し、曹操は袁術と明確に敵対せよと命じたのである。陳ウはその目付役といったところだろうか。
呂布は不快であった。この命令は想定にはない。袁術の侵攻軍を大破した時点で、呂布は責務を果たしている。さらに呂布の側から侵攻せよと命ずるのであれば、まず呂布に然るべき地位を与えてからするのが筋であるはずであった。
だが勅命に公然と逆らうわけにもいかず、呂布は兵を整えて軍を発した。その軍の規模は非常に小さい。沛国で軍を整えて呂布に合流した陳ウの率いる軍は呂布の軍の四倍の兵数はいた。陳家が用意できるほぼ全軍のようだ。嫌みの一つでも言われるかと思っていた呂布だが、予想に反して陳ウは何も言わなかった。帝の命に応じて呂布が袁術を攻めたという事実のみが必要だったのだろう。それにまだまだ発展途上にある呂布の動員兵力で徐州防備の兵を除けば遠征に用いられる兵はどうしても小規模になるというのは自明であるから、そのあたりを陳ウも斟酌したのだと呂布は思った。
徐州南方の広陵郡海西県で呂布・陳ウは孫策の軍とも合流した。
「呂将軍、この勅命の真意はなんと思われますか」
孫策の軍を率いる部将はその夜、密かに呂布の営を訪れた。
互いの政治的立場は熟知している。孫策の率いる兵数も呂布より少し大きい程度だ。とても袁術の領土に攻め込んで打撃を与えられるような規模ではない。要は孫策も袁術とは微妙な距離感を保ち続けたいのである。
形式的に軍を出すだけになるというのは分かりきっているのに、曹操が袁術の討伐を両者に命じた真意を孫策陣営も図りかねていた。
見ようによっては孫策と呂布は袁術の両翼ともいえる。袁術は両者がいるから後背を気にせず曹操と相対できるのだ。この際、本格的に呂布・孫策を袁術から切り離すべく曹操が策動しているのは明らかである。だがそれは二人に本格的袁術領侵攻の意図があって成り立つ図式であり、二人とも袁術を攻めても得られるものが少ない以上、曹操が期待している効果は出ない。
曹操もそれくらいのことは了承しているはずだ。だから呂布はこう結論づけた。
「我らが勅命を奉じて袁術を攻撃したという風評が欲しいのではあるまいか。袁術に与する者どもも少しばかりは動揺するでしょう」
「なるほど」
孫策の部将はどこか含みのある表情をしている。
「我が主は呂将軍のことを信頼しており、それ故にお伝えいたします。この勅命は呂将軍と我が主を陥れるための罠なのです」
そう言うと部将は複数の書状と印を呂布に差し出す。
「曹操の内意を受けた陳ウが官位をばらまいて我らが従えた者たちを煽動し、主が領土を出ている間に乱を起こさせるつもりであったようです。心利きたる者が知らせてまいりました。その者へ送ろうとしていた書状と官印(官位を示す印鑑)がそちらです。密使として動いていた陳ウの都尉(軍事担当官)も主が捕えております」
その時、呂布の背に走ったのは怒りよりもむしろ恐怖に近いものであった。曹操を見誤っていたことに気づいたのである。
曹操は呂布が寡兵で出陣することも重々承知だった。つまり陳ウに呂布を襲わせるつもりだったのだ。呂布は陳ウごときが自分の数倍の兵数を持っていようとも平地で堂々と戦うのであれば打ち破る自信はあるが、戦闘態勢にない状態で背後から襲われてはひとたまりもない。
「お気づきでしょう。曹操は我が主に将軍位や官位を与え、袁術と自分とを天秤にかけさせたのではありません。我らを初めから葬るつもりでの謀略です」
孫策はその戦術的才能を武器に短期間で多くの勢力を配下にしていた。その者たちを裏切らせて領土を失陥させると同時に、陳ウが呂布を害せば情勢は一気に曹操に傾く。徐州の実権は曹操の息のかかった者が掌握できるよう陳家が動くに違いない。恐らく劉備を復権させようと画策するはずだ。
徐州南方の揚州も曹操に味方した諸勢力が力を取り戻すだろう。袁術は曹操の支配する領域ばかりでなく徐州と揚州にもまとまった兵力を割かなくてはならなくなる。
見事な策である。そしてこの策は一つのことを示唆していた。曹操は己とその部下以外を信頼していない。他勢力は全て敵であり、叩き潰す順番が違うだけである。曹操はまさに覇道を歩んでいるのだ。
晩年の陶謙のように自分の勢力圏を諸勢力の争いに荷担させず独立を保つという呂布の方針とは対をなしていた。
「気が進みませんが、主は袁術とある程度の協調をしなくてはならないと考えているようです」
呂布は黙然として返事をしない。
「いずれにしても我らは勅命を奉じてここへ参ったのではございません。陳ウめに打擲を加えるため参ったのです。我々は明日にでも奴を攻めます。呂将軍の立場も複雑でございましょうから、共に攻めてくれとはお願いできませんが、どうか邪魔だてされませぬようくれぐれも宜しくお願いします」
孫策の部将は去った。
翌日、孫策軍は陳ウの営を突如襲った。呂布は陳ウから援軍を督促する使者がくるとも思っていたが、それすらも許さぬ猛攻で短時間に営は打ち破られた。
「呂将軍は何故座視しておられたのか」
僅かな側近と共に呂布の営に逃げ込んだ陳ウは呂布を面罵した。陳ウに従う者たちも同様に呂布を目で非難していた。
「援軍なら卿が孫将軍の背後で蠢動させていた賊どもに頼めば良かろう」
さっと陳ウの顔色が青くなる。
「我が営はいつ頃襲うつもりであったのだ。卿ごとき小人が大それた策を成せると思ったのか」
陳ウに従う者たちのほとんどは驚きを顔に浮かべている。陳ウの奸計は僅かな者にしか知らされてなかったのだろう。
「勅命を奉じて逆賊袁術を討つための軍を害するとは、何度殺しても飽きたらぬ。陛下に面従腹背する不忠者に相応しい罰はどのようなものが良いだろうな」
陳ウも士人の端くれであり、動揺から回復してからは醜態を見せなかった。
呂布は陳ウを殺したい気持ちは山々であったものの、この時代の血のつながりは濃い。殺せば陳家は呂布に恨みを抱くかもしれない。それは得策ではない。
勅命により編成された袁術討伐軍は瓦解した。呂布は勤皇の志を表明している以上、大っぴらにはできないがすぐに袁術との関係を秘密裏に修繕した。
曹操は皇帝劉協を擁しているため、これまでは勤皇という立場は曹操支持という立場に通じていた。しかし本件により勅命を奉じた呂布と孫策を討とうとした曹操の企みが明らかになったのである。呂布は客観的証拠の元、曹操を君側の奸として弾劾することが可能になった。つまり呂布は従来の勤皇家としての名声を損なわず曹操と敵対できるようになり、政策と外交の自由度が上がったのである。
※
「我が一族より不心得者を出したことについてはお詫びしようがございません」
豫州沛国の相である陳珪は呂布のいる下ヒまで赴き、まさに平身低頭といった態度で謝罪を行った。
「卿の罪ではございますまい」
口では鷹揚に陳珪を労う呂布だったが、本心からではない。陳ウが曹操の内意を受けて動いていたのは明らかであったが、陳珪がその謀に介在していないとも限らない。むしろ加担していたと考えるのが妥当だろう。
「いや、それにしても曹操が佞臣であることは明らかになりましたな。勅命で動く義軍を討とうと謀るなど、大逆無道というべきであろう」
陳宮は喜びを隠そうともしない。この一事を陳珪が知っていたにせよ、知らなかったにせよ、陳珪は呂布に対し大きな借りを作ったのだ。
「我々は佞臣曹操に対抗するために呂将軍に州牧となっていただきたいと願っているのですが、なかなか呂将軍は引き受けようとしてくださらぬのです。貴殿からもお願いしてくださらんか」
呂布の公式な立場は左将軍であり、仮節(軍令に違反した者を処罰できる権利)、儀同三司(格式を内政官最高位の者と同じとみなす)を加えられている。徐州刺史は自称しているだけである。州牧を自称するということは州内から徴税と徴兵を行う権利を持つということであり、それには州内の支持が必要だ。
陳ウの行為を不問にする代わりに呂布の州牧としての権能を自身の徐州へ及ぼせる影響力を以て担保せよと陳宮は言っている。
「それは、なんとも」
「何故でしょう。一方に偽帝がおり、一方に奸臣がいるような状態であれば正義を行えるのは呂将軍ただお一人。呂将軍には万を越す兵を率いていただかなくてはなりませぬ。そのためには州牧の位に就いていただかなくては」
極論すると呂布は沛国を攻め滅ぼしてもいいのだ。陳ウの行為は明らかな漢王朝に対する叛逆行為であり、その行為は第三勢力である孫策も見聞きしたわけだから隠し立てもできない。呂布には陳珪を攻め滅ぼすくらいの武力はあった。
ただ豫州沛国を力で押さえても得られるものはたかがしれている。大義名分があったとしても沛国内で反感を買うことは必定であり、安定した支配ができるとは考えにくい。
それよりもある程度安定しつつある徐州の支配に対する後押しを得た方が余程実利がある。
勅命を奉じる軍を騙し討ちにしようとするなど、世が世なら一族が皆殺しにされても不思議ではない大逆である。当然それを唆した曹操も同罪だ。呂布が曹操に対抗するには力をつける必要があり、それには陳珪の支持が必要である。親類が罪を犯したのだから、一族としてその罪はすすぐべきである。
陳宮の論理は乱れがない。しばらくは煮え切らないことを言っていた陳珪もやがて折れ、呂布が州牧として権能を振るうのを助けると申し出た。
呂布は喜んで捕らえていた陳ウを陳珪の手に委ねた。陳珪自らに罰せさせるといった名分であったが、その実は助命である。沛国にも徐州にも居場所をなくした陳ウは袁紹の庇護を受け、その支配域の中で捨て扶持をもらうようになった。その後の事跡は残っていない。
袁術の帝位僭称時に曹操へ味方したことは呂布にとって本心からの決断であったはずだ。だが曹操は一貫して呂布を敵視した。
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