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キューピッドは脅される

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 控えめな話し声やキーボードの打鍵音、コピー機が動く音などを聞きながら、公募の投稿者から上がってきた原稿を読む。

『ぼくはあなたの、恋人になっていいんですか……?』
『何をためらうことがあるんだ』
『だって、ぼくはあなたと身分が違う、から……っ!』

 セリフを読む端々で、あの日に起こったやりとりを連想しては、僕のしでかしてしまった後悔が押し寄せてきた。

 ──僕たちは恋人ですか?
 ──すまない。真也。……すまない。

 僕たちの関係もBL小説みたいに、紆余曲折の先でハッピーエンドが待ち受けていると保証できればよかったのに。

「……はぁ」

 背もたれに背中を預け、眼鏡越しに目頭を指で揉む。
 編集者が、預かった原稿を読んでいる途中に、あろうことか気を散らすとは。

「……だめだな」
「えっ!?」

 つぶやいたとたん、通りすがった編集長がびくりと肩を震わせ、こちらを見てきた。
 しまった。ここが職場だということをすっかり忘れていた。

「そんなにその投稿者の作品、面白くなかった? それか中砥くん……まさか何かやらかした?」
「いえ、個人的なことです」
「正直に言ってよ。きみはなまじ有能で一人で全部解決できちゃうから、仕事溜め込んでいるとしても気づけないからさ」
「そうですね。少々疲れが溜まっていて、パフォーマンスが低下しているな、と」
「ちゃんと休んでよ?」

 これまでに感じたことのない心労で、今日は仕事など出来そうにない。

 業務を一旦切り上げて、早めの昼食を取ることにした。
 社食ではなく外食にでもすれば多少気晴らしになるかもしれないと思い、オフィスの外へと繰り出す。

 エントランスの自動ドアを潜り、首から提げた社員証をワイシャツの胸ポケットに入れるため手に取る。

「すみません」

 六月下旬の梅雨が過ぎた空から、からっとした太陽の光が差し込んでくる。やっと傘をささず外に出られる日が戻ってきたな──。

「すみません、あなた。あなたのことです」

 真後ろで声が聞こえて背後を振り返り、ぎょっとした。

 いつぞや僕の部屋のポストを確認して、数週間前にはマンションの入り口で雅樹さんと言い争っていた男が、目の前に立っている。

 最近は雅樹さんと一緒に帰っていたこともあり、鳴りを潜めていたので存在を気に留めていなかった。
 まさか職場に現れるとは。

「中砥さんですよね」
「いえ、違いますが」

 とっさに人違いを装ったが、男に僕の胸元を指さされた。

「社員証にお名前がありますよ」

 胸元を見下ろす。ポケットに入れかけた社員証に『中砥』の名字だけ覗いている。

 やっぱり、へたな細工なんて一秒で破綻するものだ。
 諦めてポケットに社員証をつっこみ、男に向き直る。

「僕を尾行したんですか。ストーカー行為ですよ」
「どうしても、あなたと話がしたいんです」
「僕のマンション周辺をうろついて、職場にまで押しかけてきたあなたとですか?」
「お時間は取らせませんよ」

 そうのたまう人間ほど時間を取るんだ。
 スラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。

「警察を呼びますね」

 一一〇番を押そうした僕の手首を、男が俊敏な動きで掴み上げた。

「ちょっ──」
「手荒な真似はこっちだって本意じゃない。俺は間宮まみやと言います。──叶野雅樹の義兄です」

 低く耳元で言われ、全身が硬直した。

「……義兄?」
「叶野は俺の妹を置いて、行方をくらませていましてね」

 男──間宮が僕の手首から指をそっと離し、ぞっとするほど感情の伴わない声で、言った。

「俺の妹っていうのは、叶野雅樹の妻ですよ」

 妻。

 雅樹さんの、妻?

 衝撃的な事実が頭の中を駆け抜けていく。

 いや、どこかで恐れてはいたんだ。

 雅樹さんはアルファだ。いつどこでオメガと恋に落ちるかも分からないし、二十代後半にもなってつがいの一人もいないなんて想像がつかなかった。

 僕を好きだとうそぶいても、いつかオメガを見つけて出ていくのだと、僕は常に恐れていた。
 彼は僕に言っていないだけで、どこかに番がいるかもしれないと、僕は常に恐れていた。

「職場の前でこの話題を続けたいですか?」

 オフィスの目の前で悶着は起こしたくない。僕はこの職場を愛している。絶対に迷惑はかけられない。

「わかりました」
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