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キューピッドは災難に遭う
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しばらくの沈黙の後、森村先生が慎重に口を開く。
「今日ぼくがきみを見つけられたのは、打ち合わせに向かう道で、いつもきみから漂ってくるアルファのフェロモンを微かに嗅いだからだよ、中砥くん」
顔を上げると、森村先生がふっと目を伏せて笑う。
「あれはね、アルファの独占を示すマーキングなんだ」
「……」
いつの日だったか、沼井さんも似たようなことを言っていた。アルファの匂いがぷんぷんするやつに手出しはしない、と。
中砥くん、と呼びかけられて、森村先生の視線が僕を見据える。
「ぼくの口からこれ以上言わせるのかい」
「……話を聞いたら、あなたがたは僕を軽蔑なさります」
「それはますます聞きたいな」
「……」
本当は僕だって洗いざらい喋りたい。
雅樹さんのことを打ち明けて、彼と僕が巻き込まれている一連のことで助けが欲しかった。
でも、今もなお間宮の雇った人間が、僕だけでなく森村先生や、ひさひさ先生を監視しているかもしれない。
震える口を開く。
「……とある作家のBL小説のプロットで困っています。主人公はとある人を好きになりました。生まれて初めて好きになった人です。でも好きな人と一緒にいることで、その人を不幸にしてしまうんです。彼の幸せを守るためには、唯一、主人公が好きな人を敵に受け渡すしか方法がない」
僕は、森村先生に視線ですがった。
「こういう時、このBLの主人公はどうすべきなんでしょうか」
「答えは決まっている。そうだろう?」
森村先生が即答する。
「……そんなの、答えになっていません」
「いいや、BL編集者のきみならいやというほどわかっているはずだ。百人のBL作家に同じことを尋ねても、百人が同じ答えを返すと」
その時、インターホンの音がした。
「オレが出る」
ひさひさ先生がいち早く反応して、森村先生の腕の中から抜け出すと、スリッパの音を響かせながら玄関へ消えた。
森村先生は僕の隣に席を移した。
そっと、肩に手が置かれる。
「その人のこと、愛しているんだね」
「……そうなんでしょうか」
実のところ、自分の感情はずっと靄の中にいるみたいでよくわからない。
すると森村先生は、先ほど小説になぞらえて説明したひどすぎる状況以上に、僕の言葉に対して「いけないよ」と嘆きに目を細めた。
「たぶんきみは、相手の感情の微細な揺れを感知できないから、自他問わず発せられた言葉に対して『本当に正しいのか』と、単語をあらゆる角度から見回す癖がついているのだろう。それがきみの客観性の正体だ」
「……はい」
「だけどさ、自分の心を信じられるのは自分しかいないんだから。そこは信じてあげようよ」
森村先生の声に重なって、荒々しく扉の開く音がした。
「あ……」
扉の向こうに立っていたのは、息を切らした美貌の大男──。
「雅樹、さん……」
なぜ、彼がここに?
……そうか。
森村先生が僕のスマートフォンでメールを打った時だ。
その時、密かに雅樹さんへ連絡したに違いない。
だが僕が森村先生を問い詰めるより先に、雅樹さんが隣にいたひさひさ先生の脇を抜け、大股で僕の眼前に近づいてきた。
「誰かに襲われたと聞いた。なのに救急車も警察も、呼ぶのを拒否したと」
「転んだだけですから」
「いいんだ」
言葉尻に、声が被せられた。
雅樹さんの指先が、僕の殴られた頬にあるガーゼに触れる。
「……嘘をつかなくていいんだ」
「嘘なんか……」
雅樹さんの灰色の瞳に捉えられて、足元がふっと浮き上がるような感覚がする。
「他の誰も、きみの本心に気づかなくていい。だがおれだけには、わからない時はわからないと言ってくれ。つらい時は、つらいのだと言ってくれ」
言葉が終わらないうちに、背中に腕を回された。
いやだ。
抱きしめられたくない。
だって、今にこのぬくもりを、失うかもわからないのに。
「まっ、て──」
なのに言葉を無視されて、視界が塞がって、抱きしめられる。
泣きたくなるほど、強く。
「真也……!」
「や、だ……」
「きみが大きな怪我をしたかと思うと、胸がはち切れそうだった」
耳元で囁かれる声が、震えている。
「や、やめてください……こんなところで」
「やめない」
「……」
いやだ。
優しくされたくない。聞きたくない。
もうこれ以上、絆されたくない。
だけど、言葉だけの僕の抵抗なんか、たかが知れている。
最後には諦めて、体の力を抜いた。
もう、いいや。
雅樹さんのぬくもりを、全部受け止めてしまおう。
森村先生とひさひさ先生に、今の僕たちを見せつけてしまおう。
この抱擁が最後になるかもしれないから。
「今日ぼくがきみを見つけられたのは、打ち合わせに向かう道で、いつもきみから漂ってくるアルファのフェロモンを微かに嗅いだからだよ、中砥くん」
顔を上げると、森村先生がふっと目を伏せて笑う。
「あれはね、アルファの独占を示すマーキングなんだ」
「……」
いつの日だったか、沼井さんも似たようなことを言っていた。アルファの匂いがぷんぷんするやつに手出しはしない、と。
中砥くん、と呼びかけられて、森村先生の視線が僕を見据える。
「ぼくの口からこれ以上言わせるのかい」
「……話を聞いたら、あなたがたは僕を軽蔑なさります」
「それはますます聞きたいな」
「……」
本当は僕だって洗いざらい喋りたい。
雅樹さんのことを打ち明けて、彼と僕が巻き込まれている一連のことで助けが欲しかった。
でも、今もなお間宮の雇った人間が、僕だけでなく森村先生や、ひさひさ先生を監視しているかもしれない。
震える口を開く。
「……とある作家のBL小説のプロットで困っています。主人公はとある人を好きになりました。生まれて初めて好きになった人です。でも好きな人と一緒にいることで、その人を不幸にしてしまうんです。彼の幸せを守るためには、唯一、主人公が好きな人を敵に受け渡すしか方法がない」
僕は、森村先生に視線ですがった。
「こういう時、このBLの主人公はどうすべきなんでしょうか」
「答えは決まっている。そうだろう?」
森村先生が即答する。
「……そんなの、答えになっていません」
「いいや、BL編集者のきみならいやというほどわかっているはずだ。百人のBL作家に同じことを尋ねても、百人が同じ答えを返すと」
その時、インターホンの音がした。
「オレが出る」
ひさひさ先生がいち早く反応して、森村先生の腕の中から抜け出すと、スリッパの音を響かせながら玄関へ消えた。
森村先生は僕の隣に席を移した。
そっと、肩に手が置かれる。
「その人のこと、愛しているんだね」
「……そうなんでしょうか」
実のところ、自分の感情はずっと靄の中にいるみたいでよくわからない。
すると森村先生は、先ほど小説になぞらえて説明したひどすぎる状況以上に、僕の言葉に対して「いけないよ」と嘆きに目を細めた。
「たぶんきみは、相手の感情の微細な揺れを感知できないから、自他問わず発せられた言葉に対して『本当に正しいのか』と、単語をあらゆる角度から見回す癖がついているのだろう。それがきみの客観性の正体だ」
「……はい」
「だけどさ、自分の心を信じられるのは自分しかいないんだから。そこは信じてあげようよ」
森村先生の声に重なって、荒々しく扉の開く音がした。
「あ……」
扉の向こうに立っていたのは、息を切らした美貌の大男──。
「雅樹、さん……」
なぜ、彼がここに?
……そうか。
森村先生が僕のスマートフォンでメールを打った時だ。
その時、密かに雅樹さんへ連絡したに違いない。
だが僕が森村先生を問い詰めるより先に、雅樹さんが隣にいたひさひさ先生の脇を抜け、大股で僕の眼前に近づいてきた。
「誰かに襲われたと聞いた。なのに救急車も警察も、呼ぶのを拒否したと」
「転んだだけですから」
「いいんだ」
言葉尻に、声が被せられた。
雅樹さんの指先が、僕の殴られた頬にあるガーゼに触れる。
「……嘘をつかなくていいんだ」
「嘘なんか……」
雅樹さんの灰色の瞳に捉えられて、足元がふっと浮き上がるような感覚がする。
「他の誰も、きみの本心に気づかなくていい。だがおれだけには、わからない時はわからないと言ってくれ。つらい時は、つらいのだと言ってくれ」
言葉が終わらないうちに、背中に腕を回された。
いやだ。
抱きしめられたくない。
だって、今にこのぬくもりを、失うかもわからないのに。
「まっ、て──」
なのに言葉を無視されて、視界が塞がって、抱きしめられる。
泣きたくなるほど、強く。
「真也……!」
「や、だ……」
「きみが大きな怪我をしたかと思うと、胸がはち切れそうだった」
耳元で囁かれる声が、震えている。
「や、やめてください……こんなところで」
「やめない」
「……」
いやだ。
優しくされたくない。聞きたくない。
もうこれ以上、絆されたくない。
だけど、言葉だけの僕の抵抗なんか、たかが知れている。
最後には諦めて、体の力を抜いた。
もう、いいや。
雅樹さんのぬくもりを、全部受け止めてしまおう。
森村先生とひさひさ先生に、今の僕たちを見せつけてしまおう。
この抱擁が最後になるかもしれないから。
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