愚妃の進言〜朱慶国炎駒伝〜

ミダ ワタル

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一.愚妃の進言

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 国土は三つに割れ、その境で一つも戦火の煙が上がらない日など、民の胸にはもはや夢幻となった戦乱の世であった。
 地を荒らす馬のいななき、刀剣が切り結ぶ音、弓がしなり火薬がぜ、青く清浄な山林の空気は黒煙に染まり、褐色の土を流れる血が黒く塗り替えた。
 とむらいきれずに打ち捨てられた無残な人形を成す肉塊は明日の我が身かもしれない。
 それは誰も、身分も、区別は無かった。

 そんな世でもき日はある——。
 三つの国の内、昨今、益々隆盛さを増す朱慶国しゅけいこく朱孫しゅそん王が七番目の妃を迎えた。
 南の辺境のある地域を平定するにあたり大変な助けをした娘であるらしい。
 その功で王直々の申し入れで娶られたのだという噂が立っていたが、間もなくその噂は絶えた。
 次に立った噂は、辺境の地を治める領主が忠義の証に愛娘を差し出したが、その姫は父親の溺愛が過ぎた愚かな姫で慈悲深い王はそれでも領主の心を汲んで娶られたのだといったものだった。

 妃らしい優美な姿を見せたのは初日のみ。
 麗美な衣はすぐに脱ぎ捨てられ、まるで職工の娘のような格好で与えられた宮を駆け回っているという。
 その振る舞いたるや、まるで野にひとりでに育った者と大差なく、常人には理解しがたい言動を取り、子供も聞かぬような問いかけを侍っている者達に投げかけるらしい。
 けれども娘の見目が良かったため、やがて市井の噂は他の気位が高く相手をするのに肩がこる妃達と違い、暗愚の姫は気安いから騒乱の世の憂いに晒される王の良い慰めなのだろう。だから厚い寵を受けているのだといったものに移り変わっていった。

「私は字も書けるし読める、老師からたくさんのことも学び覚えさせられもしたのに……心外」
「だが、一部は本当のことだろう。職工の娘のような格好で与えられた宮を駆け回っているあたり」
「毎日、輿入れの時みたいなおめかしなんて馬鹿げてます」

 白く滑らかな夜着に洗ったような黒髪を一つに束ねて垂らした少女は、手に菓子を持ったままぼすんと寝台に子供じみた仕草で飛び乗った。
 それを目にしながら少女より十程年嵩に見える男は、寝そべっていた脇腹のすぐ側に座り込んだ細い腰を支えるように腕を回す。そうだなと、男は人心に染み入るような深く慈に満ちた低い声で応じ、精悍と理知が共存し並みならぬ人の威を示す顔に苦笑を浮かべた。

「ま、冤罪だったとはいえ、かつては元反逆者の廃妃の子として隠れ逃げ回っていた身としては、何故ああも着飾らねばならんのかといった気持ちはわかる。だが、そういったのが大事だという考えもお前ならわかるだろう」
「王様はそうかもしれません。でも私は一番年少で後にやってきた七番目の妃ですよ。なんのお役目もないし、少しくらい気楽にしていたって」
「気楽すぎるだろ……それに、お前の問いかけは賢人の問いかけが深遠過ぎるそれに似て、凡庸な者には解せぬのだよ」
「そうかな?」

 小鹿のような足を夜着の裾からぶらぶらとさせて、菓子を頬張りながら若枝のしなやかさで首を傾げる。
 少年の様な物言いと立ち居振る舞いなのに、瑞々しく香りたつような色香がある。
 朱孫王たる男は目を細めたが、しかし少女の腰を捉えた腕を引き寄せようとはしなかった。
 仮にも後宮を持つ王である。蕾の花を手折るほど節制が効かぬわけでもないし、飢えてもいない。
 特にこの少女は聡いので、大人の男としての余裕を示したい見栄も少しばかりある。
 
「それで? 今日はなにが気に掛かった?」
「西で風が高く土埃を巻いたのを見ました。一瞬でしたけれど。おかしいですよね。いまは冬でずっと曇っていたのに……何故と聞いたら女官達に笑われました」
「どこで見た?」
「それは言えません」
「また屋根に登っていたのだな? 春燕しゅんえん

 朱孫がとがめるように少女の名を呼んで溜息を吐くと、ぶらぶらさせていた足をピタリと止めて少女――春燕は、朱孫の腕から逃れるように身をよじったが、却って彼に捕らえられただけだった。
 横倒しに間近に並んだ朱孫の顔を見て、はっと小さく息を呑み頬を微かに染めたが、大きな黒い瞳はじっと逸らさない春燕に朱孫は深い笑みを浮かべた。

「もう寝るのですか?」

 少し緩んだ襟元から、透き通るような肌の鎖骨が僅かに覗いている。
 裾は元より奔放な動きを見せる足によって開きはしないが乱れ気味であった。

「お前、最近、悪い誤魔化し方を覚えたな……」
「悪い?」

 口の中にまだ菓子が残っているのだろう、もぐもぐと口元を動かす春燕の尖った顎先についた練った粉の塊を指でとって、朱孫は舐めて苦笑する。

「いわれ無き罪に山深く追われ、隠遁していた老師の下で育ったお前だ。大丈夫だと言うだろうが、万一、怪我でも負ったら皆が迷惑をこうむる。父親も哀しむだろうな」
「……哀しむでしょうか?」

 おずおずと尋ねた春燕に、哀しむよと朱孫は答える。こくりと春燕は頷いた。
 辺境を治める領主の生まれたばかりの娘は、争いに巻き込まれ、謀反の兵に連れ去られて死んだものだと思われていた。謀反の首謀者とされたのは、春燕の育て親の老師であった。
 しかしそれは、隣接した敵国に通じた本当の謀反者の姦計であり、老師は無実だった。
 長年仕えた主君に無実の罪で妻子を殺され、山狩りまでされ、森の奥深くに追われたというのに忠義を貫き主君の娘を護り育てていた老師に、領主は地に伏し涙を流して深く詫びた。
 老師はいままた領主の城に仕えている。
 父親と赤子の時に生き別れた少女が、再び巡りあって過ごした時間は僅かであったが、父親は今年十七になる我が娘のことをひと時も忘れたことはなかった。
 それでも朱孫の申し出に従って、娘を手放したのは政略でもなんでもない。

「妃にお前を出したのだって、ひとえに娘の将来を案じた親心のためであるからな」
「私が王様を好きだから?」
「後宮はある意味では戦場よりも恐ろしいぞ。そんな理由なら、ようやく再会した娘を出すまいよ」

 春燕の左肩には、神代初王の弟神炎王ていしんえんおうが伴いし神獣の形取る痣がある。
 神代の頃、大広土と呼ばれたこの大陸は不毛の地であった。
 そこに兄弟神の兄神黄王けいしんこうおうが人が住む地を授け弟神炎王ていしんえんおうが火を与えた。兄神は天より地を守り、弟神は初代の王として兄が授けた地で人々を導いた。
 痣のせいで春燕は、“大広土の王に侍り、王母となる娘”と生まれた時に予言をされ、そのために故郷は争いと混乱に見舞われ、まだ赤子のうちから狙われる身となった。
 おまけに山に老師の男手一つで育ち、深い見識と並みの将なら簡単に打ち負かすだろう知略の才を持つ一方で、貴族の娘らしい常識を身につけず育ってしまってもいた。
 痣のことを知るのは、春燕とその父、春燕を育てた老師と、そして朱孫だけである。
 国土が三つに割れている現在、春燕の身は戦禍の種になりかねない。

「徳妃様も、賢妃様もお優しいし……女官達は口うるさいけれど、そんなに怖い人はいませんよ?」
「怖くならないよう気をつけているし、これでも色々と堪えているのだぞ」

 表向きは地方の忠誠の証を受ける名目で春燕を妃として迎え入れたのも、聡明過ぎるといってもいいこの少女を暗愚な姫と貶める噂を放置しているのもそのためだ。

「それで、風が高く舞い上がることのなにがおかしい?」  
「主上もでございますか?」
「っ……他の妃がそんな物言いをしたら愚弄されたとしか思えんが、お前にはきちんと教えを乞うことにしよう」
「西は私が住んでいた山ではなく、平らな土地でしょう? 木もなにもない」
「うん」

 街を囲む城壁も超えた先であったか、と男は胸中でひとりごちる。
 宮は高台に位置するとはいえどこまで目が良いのだろう、この娘は。
 男であれば将兵として陣の見張り台に置きたいくらいだと半ば呆れる思いで男は相槌を打つ。

「流石の私も、裸眼で王都も超えた先までは見えません」
「そうか。屋根ではなく楼の上か。おまけに大事な道具をお前に貸した宦官がいるようだな」
「それは言えません」
「不問にするのは、今回だけだぞ」

 先程、腕から逃げようとしたのは追及を避けるためか。
 そうであれば、ますますその瑞々しい果実のような容貌で悪い誤魔化しを覚えたものである。
 やはり後宮に置くものではなかったかと、男は近頃すっかり懊悩させられている春燕に思う。
 周囲は寵を得ているなどと思っているが、実態は忍耐を強いられているばかりだ。
 
「まったく、頭の痛い……」

 西の地も。西の地は領土としては微妙な土地だった。
 隣接する敵国の流れを汲んだ土地の者が点在しており、時折、槍を向けてくる。
 融和的な歩み寄りをしたいがなかなか上手くいかない。官と民の間で小競合いが度々起こり、肥沃な土地なのにまともな開墾や整備にもなかなか取りかかれないでいる。かといって一掃を計れば内乱を引き起こしかねない。機に乗じて敵国が再び攻めて来たらさらに厄介だ。

「風はなにもない場所ならただ吹く方向に流れます。森なら行き場を失った風が上に向かうのもわかるけれど……」
「成程。それといまが冬なのはどういった関係がある?」
「寒いでしょう、土も凍りそうなくらい」
「そりゃ、冬だからな」
「夏みたいに暑い時期なら、時々、平らな場所でも風がうんと高く舞い上がる時もあるのだけど……お日様もずっと雲にかくれているし」

 うーん、と春燕は呻って寝台に頬を擦り付ける。
 まるで媚びて強請ねだるような仕草であったが、彼女が無意識なのは朱孫もわかっている。
 それにいまは春燕の言葉の方が気に掛かる。朱孫は髭が伸びかけた頬に手をやって黙考する。
 温められた風が舞い上がるのは知っている。遮られ行き場を失った風がつむじを巻いて上に逃れるのも解る。それらが無い場所で少女が風が巻き上がるのを見たというのなら、そこに風を巻き上げる何かがあるのだ。
 情勢と地理を考えると、看過できる事象に思えない。調べる必要がありそうだった。

「また、お前に助けられそうだ」

 ひっそりと苦笑して朱孫は菓子の粉のついた春燕の細い手を取り、ついた菓子の粉を舐め取るように自らの口元に押し当てる。
 ぴくりと肩を震わせた後、たちまち紅く染まった少女の白い顔を見て、朱孫は満足気に目を細めた。

「王様」
「ん?」
「王様は私の話をよく聞いてくださるのは好きだけど、眠いのを邪魔するから嫌いです」
「邪魔などしていないが?」
「……どきどきして眠れない」

 拗ねたように尖らせた春燕の口元に笑いながら、朱孫は甘い粉と同じ香りのする可憐な唇へと彼の口元を寄せる。
 しばらくして朱孫は、はあ……と春燕の甘やかな吐息が漏れる音を聞いた。
 この少女が愛おしい、彼女とてこちらを憎からず思ってはくれているがここまでである。
 父親から、炎駒えんくを伴うに相応しい王になれたらと約束している。
炎駒えんく弟神炎王ていしんえんおうの神獣である。
 つまりは全土統一の王になったらということだ。なかなかに厳しい条件であるが、春燕の生涯の身の安全を考えれば妥当な条件ではある。
 朱孫は后を決めていない。
 后だったとする女はいる。
 朱孫が玉座に着く前に情を交わした仙女で、交わしたその夜にこの世から消えた。
 もちろん誰もその女のことなど直には知らない。それを無理やり大仰な死後の名をつけて、大体的に悲恋演目にまでしてその存在を流布るふさせ、王城内にびょうを建てて祀っている。
 本当に祀りたい気持ちもあったが、それならびょうを建てるだけでいい話だ。
 姻戚関係で権力掌握をしようとする輩の動きを封じるため、そうする必要があった。
 相手が仙女で、王の生涯の女であるような芝居の演目にまでなっているようでは、そう簡単に後添えの后をとは言い出し辛い。
 政治上のこともあって妃を受け入れてはいるが、気は許せない。

「知ってるぞ。そう言って、易々と無邪気に眠るのだ、お前は」
  
 男は揶揄うように、春燕の鼻先を軽く指先で弾いた。
 本当は、こんな茶番は止めにして后にしてしまいたい。
 けれど、それはまだ叶わない世だ。
 国土のすべてを平定し統べるまで、一体あとどれほどの血が流れるか……。
 叶う世になった頃には、この少女から嫌われているかもしれないなと、男は熱に浮いたような潤んだ瞳で彼を見つめる春燕に切ないような心持ちを抱きながら、再びそっと触れるだけに唇を重ねた。

 春燕が父親の元に戻るきっかけとなった、辺境の戦を朱孫は思い返す。
 敵国に寝返っている疑いもあった辺境の地を見極めようと、身分を隠して進軍中にこの少女と出会っていなければ、もっと多くの将兵が犠牲になっていたはずだ。


 *****


『生まれてすぐの鹿だって下れるのに、こんな立派な馬が下られないわけない』

 切り立った崖を記した地図を覗きこんで、ふふふと少女は笑った。
 崖のすぐ下は敵の拠点で、周囲は川と急勾配に護られ、攻め入るには一方からしかない。
 当然相手はそれを待ち構えてくる、崖の上から一直線に攻め入れるならどんなに楽かとぼやいた男への言葉だった。
 進軍中に、刺客の一行に襲われ散り散りに家臣と別れ、追ってくる敵から逃げていた最中に隠れた道を案内され、掠めた矢傷の手当てまでしてくれた少女に家臣との合流地点の位置を尋ねていた時だった。

『馬はけものと違う。お前が考えるよりずっと臆病な生き物だ』
『じゃあ、火や槍や刀や矢にも怯える?』
『それじゃあ戦で乗れないだろう、人が怖がらないよう訓練しきちんと抑える。だから山も越えられる』
『山も行けて、火や槍や刀や矢に怯えないのに、小鹿が通る道は行けないの?』
『……たしかにそうだな。お前はその小鹿が通る道とやらを知っているのか?』

 こくりと頷いて少女は笑った。
 粗末な身なりだが山の娘ではなかった。
 華奢で滑らかな手をしていて、小さな玉を皮紐に通したものを首に下げていた――。

  
 *****


 すうすうと寝息を立てている春燕の黒髪の筋に口付けて朱孫は苦笑し、寝所の戸口に警護の者と共に控えている侍従を呼んで、西の護りを任せている臣への伝令を預けた。
 三夜明けた朝、西より報告があった。
 町を整える人夫に幾人か怪しい動きをしている者が紛れ込んでいたそうで、よくよく調べればやはり計略を胸に潜ませた敵国の流れを汲んだ者達であった。
 同じ頃、王が与えた飾り気のない絹の衣を纏った春燕は、炊事場を覗き込み女官達の手を焼かせていた。

 年月は過ぎ、三つに割れていた国は一つとなって世は平安を迎えた。
 大業を成し遂げた王は多くの子を授かり、成長した子等は父王が作り上げた国を永く護った。
 とりわけ、父王に勝るとも劣らない名君と後世まで人に称えられた者がいた。
 その母は深慮な賢母として多くの風変わりな逸話を民に残したが、辺境出の妃であったためか王母であるのに正式な記録への記述は少ない。
 父王が唯一自ら娶った妃であり、南方の領主の娘であったという——。
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