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二.王后廟の怪(前)
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神代の世に兄神黄王が人に与えた大広土は、いまや三つに割れて争う戦乱の世。
三国の中で優勢を取りつつある朱慶国の王、朱孫王は、炎駒の王と臣民から支持されている。
神獣炎駒を伴い、地に降りて火の恩恵をもたらし、人々を導いたとされる初代神王・弟神炎王の再来。
精悍さと理知を併せ持つ風貌。剣を取れば苛烈な武人にして、可能な限り流血を避けようとする慈悲深い聖君。
そんな朱孫王の信義を重んじる人柄を物語る伝の一つに、亡き后の話がある――。
*****
夏だな、と朱孫は思った。
だからというわけではないだろうが、朝政の場はいつになく倦憊し淀んだ雰囲気であった。毒にも薬にもならない議論が堂々巡りしている。
ここのところ差し迫る危機も起きていないからだろう。
結構なことだが、たまたまそういった時期というだけだ。国を動かしている面々が揃って弛緩されては困る。三国の争いは続いている。
頃合いを見て朱孫は立ち上がった。
「やめだ」
一言そう告げて、朱孫は殿の奥へと引っ込んだ。主上っと声を上げる者はいても、止められる者はいない。
古代神王の縁者である貴き王を、ただの人たる臣は止める術を持たない。
相当の覚悟か志か、あるいは彼を人と扱うことが出来る者は、その場にはいなかった。
場は新たな后をといった流れになっていた。決めずとも、選ぶとするだけでもと。
折しも、慰霊のための王后廟の祭祀が近づいていた。
「これも大広土の王となるための修養の試練か……紅蝶?」
話だけの亡き后で、権力欲旺盛な者達を抑えるのもそろそろ限界のようだと、朱孫は後宮へと足を向けながらひっそりと嘆息する。
後宮の一画に立派な廟を建てて祀られている、朱仙紅蝶王后。
死後の名が示す通り、紅蝶という名の仙女は、太古の昔に、王を護る経典の秘術を宿す器となり捧げられるはずであった。
しかし役目を果たせず、幾歳月。
宿している秘術の気に蝕まれ、異形に成り果てかけた時、王となる天命を持つ若者であった朱孫と出会った。
紅蝶は一夜の契りで身に宿した秘術を朱孫に渡し、術の器として捧げたその身は消失した。
当時、まだ逆賊と追われる身であった朱孫の、齢十七の夏の出来事である。
その後、王たる証を立てて即位した朱孫は、紅蝶を生涯の后として後宮に立派な廟を建てて祀り、妃だけではなく臣にも敬うよう言い渡した。
惹かれ合った二人が添い遂げることは叶わなかった悲恋として、芝居や歌語りの演目として市井に広められた話だが、一部、故意に省いて伝えていないこともある。
『王を助け、死してなお支える天命を握る方は南に。いずれ貴方様は大広土の地を統べる王となりましょう』
朱孫の腕の中で消えていった女が言い残した言葉。
仙女ではなく、仙境から降りた父親に秘術の器にされただけの娘。
本来なら、古代の王の側女として不自由ない生涯を送り、朱孫が生まれる何百年も前に亡くなっていたはずの女である。
惹かれもしたし、一夜の契りの情もあった。しかしなにが悲恋かと朱孫は己に呆れながら胸の内で毒づく。
王城の権力と諸侯の勢力調整のために利用している――。
「……主上?」
「ん、ああ」
呼びかけられて、朱孫は我に返った。
目の前に舟遊び出来るほど広く作った庭池が、まばらに群生する蓮の葉を浮かべて青く光っている。
きらきらと新緑輝く、初夏の水辺の景色だ。
居所が日影となっているのは、池のほとりに建つ四阿の中にいるからだが、さほど涼しいとは言えない。垂れ下がる柳の枝や長衣の裾を時折揺らす、水辺を通る風にかえって蒸し暑さを感じる。
朱孫を呼んだのは、紫檀の卓を挟んで向かい合う、淡い茶の髪に琥珀の瞳を持つ美姫であった。
なんの話をしていたのだったか……気分転換に来ておきながら、会話の途中から完全に上の空になっていた朱孫はなんとなく耳が拾っていた話を思い出そうとしたが無駄だった。仕方なく、それらしい返事を口にしてみる。
「うん、そうだな……江南の地に豊さが戻ったようでなによりだ」
「ええ、祖父の便りにそうあったとお話ししましたね。三周遅れで的を外したお言葉ですこと」
にっこりと細めた目が、じっと冷たく朱孫を睨む。
後宮の四夫人ともなると、綺麗な顔で器用な怒り方をする。
結い上げた髪に幾本も挿した玉の簪の飾りをか揺らしている、徳妃張氏だった。
「その、なんの話をしていた……?」
べちりと額に手のひらを当て、朱孫は上の空だったことを白状する。
最初からこうすればよかったのだろうが、来ておいて上の空をあからさまにするのも気が引けた。
「まったく。情勢を鑑みるにお察ししますけれど、“ああ面倒くさい”と、顔に出ていますよ。政務を放り投げ、遊びにこられてそれでは後宮の妃としての立場がありません」
「……張師姉にくらい、気を緩めさせてくれ」
「その呼び方も、いい加減おやめくださいな」
淡い黄色に染めた絹の袖からのぞく、よく手入れされたほっそり白い手で、徳妃は茶器からふくよかな香気の茶を杯に注ぐ。
どうやら茶を変えて、葉が開くのを待っていたらしい。
侍女が毒味を終え、朱孫の手元に新たな杯が運ばれる。
「同じ師に学んだ兄弟弟子だろう」
「幼い頃のほんの三ヶ月のことではありませんか」
暑さなどまるで感じていないような、澄ました様子で徳妃はお茶を口に運ぶ。
まだ朱孫が王城に母と暮らしていた幼い頃、修身のためと身分を隠し忠臣の家に預けられた時期がある。
いま思えば、最愛の妃と息子を失うことを恐れた父の配慮だったが、当時の朱孫に己の周囲の状況など知る由もなく、遠ざけられたと思っていた。
預けられた家の食客に経書の師がいて、父に認めてもらおうと教えを乞うた。
師の元には、朱孫の一つ年上の少女が出入りしていた。
名は玲芳。五大貴族張氏の一族の娘。
後に朱孫王の後宮に入り、徳妃になるとは奇縁である。
「弟は姉に泣きつくものだ。こうして会う時くらいいいだろう」
「息するように人誑しなことを仰るのですから……主上は」
美しく成長した幼馴染との再会など、いかにも民に好まれそうな話である。
実際、次の后は四夫人では三番目に位置する彼女と目されているが、朱孫は共に学んだ玲芳が官吏になりたい叶わぬ夢を抱いていた少女であったことを知っている。
女は女官や宮女になれても、政に携わることはできない。
最もそれに近い地位があるとすれば、王の后や上級の妃だ。
後宮を任せるのに適任であり、政略と本人の意思もあって迎えた妃だった。
「寵妃がいてその調子では、嫌な噂話もでようというものです」
朱孫には春燕という寵妃がいるが、他を蔑ろにしているわけではない。
政略で迎えている妃を蔑ろにはできない。
内政の立て直しや戦で忙しい間は、疎遠で済ませていた。
いまはそうもいかず、不満に思われぬ程度に間を空けて順に渡ってはいる。
ぴちゃん、と。
池の魚が水面を尾で叩いた音がして、徳妃が呆れ顔でため息をつく。
「近頃、目立つ諍いがないためかしら。人は暇だとろくなことをしませんね」
「後宮もか……」
「はい?」
「いや、なんでもない」
ある程度、平等に尊重しようと鬱屈するのが女の園というものであるらしい。
徳妃とは白熱した勝負の碁を打つだけで、情を交わしたことはない。
官吏になりたかっただけあって、緻密な策謀家なのは盤面に表れる彼女の資質だった。
「お見えになられたのはそれも理由と思っていましたが……本当に気晴らしでしたか」
「それもとは、嫌な噂とやらか?」
「ええ、他ならぬ王后様と春燕様に関わりますから」
夜更けに王后廟から啜り泣く声が聞こえる。声だけではなく足音もなく彷徨い歩く女人の影を見た者もいる。
そしてとうとう三日前、王后廟近くの宮に仕える下女が悶え苦しむ病にかかった。
「主上の寵愛を得た春燕様を恨んで、亡き王后様の魂魄が鬼となり出てきたと――」
「本来の役目を果たし、消えた仙女だ。鬼になどなるものか」
「そのお話、本当ですの?」
「ああ」
「でしたら、こちらでお茶など飲んでいないで参りましょう」
さあさと、庭池を臨む四阿に設られた卓を回った徳妃に促される。
二人が幼馴染みで仲睦まじいことは後宮中の知るところではあるため、咎める者はいない。
「どこへ」
「それはもちろん、暢神宮。春燕様の宮ですわ」
*****
朱慶国の王となった朱孫は、南の辺境の地で一人の少女と出会った。
炎駒をその身に印し、“大広土の王に侍り、王母となる”と予言された領主の娘。
なんという符号の一致か、これもまた奇縁である。
「亡き王后様の鬼ですか……」
精神をのびのび和らげる意で暢神宮。
これほど住む妃と合う名前の宮もないのだが、いまは違った。
一体、どういった状況だこれは、と。
朱孫は春燕の呟く声を聞きながら、彼女の侍女が出した茶の杯を見つめる。
「ええ。主上の寵を受ける春燕様をお恨みになってと」
「おい、張し――徳妃」
朱孫と共に現れた徳妃に、春燕の宮の者達は大慌てした。当然だろう。
いまも戦々恐々と事の成り行きを見守っている。
そんな中で、徳妃が王后廟の噂話を楽しげに語り出したのだから、これはもう事情を知らぬ者から見たらどう考えても修羅場だ。
徳妃が、朱孫の前で春燕を責めているようにしか見えない。
「はあ、それはまた病に臥せった方はお気の毒な話ですね」
「ええ、まったく。無関係な者を呪うだなんて」
優雅な仕草で頬に手を添え、徳妃がそんなことを言う。言外に呪いたい相手を呪えと含ませている。
のんびりと邪気のない感想を述べた春燕は、いかにも察しの悪い暗愚な姫に見えた。
見目の良さが徳妃と相対して見劣りしないから、なおさらである。
艶やかな黒髪と濡れたような黒い瞳が白肌を引き立て、血色のよさが瑞々しい白桃を思わせる。簪など装飾が少ないのは相変わらずだが、薄紅に夏向けの透ける白の衣を重ねる春燕は、清冽な若い色香漂う妃に見えた。
朱孫が絹を贈り、寵妃に相応しい動きやすさも考慮した衣を作れと尚功局に命じた甲斐もあり、装いは以前よりずっと妃らしくなっていた。職人の宮女達が新しい衣装作りにやけに張り切った功績である。
「同感ですね。徳妃様ともあろう御方が、そんなお話を聞かせるためにいらしたのですか?」
ひっと、茶を出してくれた春燕の侍女が小さく息を引き込む音を朱孫は聞いた。
後宮はある意味、戦場よりも恐ろしい。
春燕は彼女の疑問を思った通りに口にしたまでだが、増長した寵妃が徳妃を嘲弄したようにも聞こえる。
「名が出ている以上、主上が迎えた妃としてどう収めるつもりなのかしらと」
「ああ……うーん、そういうことになるのですか?」
「“ああ面倒”と、顔に出ていますよ。春燕様」
「だってその通りですから。でも徳妃様がわざわざいらして無視もできないし……意地悪ですね」
朱孫に茶を出した侍女は顔が真っ青になっていて、心底から朱孫は彼女を気の毒に思った。
この二人の間で朱孫を巡って諍いなど起きないと、知っているから余計に。
徳妃にとって春燕は、師の師のである老師の教えを得た敬うべき師叔である。沈山という、碩学の徒の門下の序列において二人の立場は逆転する。
このことを知る、一人控えている徳妃の侍女がやれやれと言いたげな口元をしている。
「春燕様にもそろそろ、後宮の秩序というものに気を配っていただかなくてはね」
春燕はほうほうと暢気に相槌など打っているが、侍女はもう泣き出しそうな顔になっていた。
同時に、この侍女だけかと朱孫は思った。
室内には他に数人の侍女が控えている。
二人のやり取りを困惑気味に見守りながらも、春燕が詰め寄られているようなのをどこか楽しげに眺めている。
意地の悪いことだ。だから春燕も、顔色悪くしている侍女に直接の接客を任せているのだろう。
人の悪意に無頓着なところのある彼女も、少々腹に据えかねてきているらしい。身近に置く者の選別に入っているようだった。こういったところは生まれというのか、育て親の老師が仕える姫として養育していたと伺える。
「主上、王后廟に行ってもよいでしょうか」
「王后廟は後宮の妃は誰でも敬意を示しに行ける場所です。ですわね、主上」
「う、うむ……行ってどうするのだ?」
「亡き王后の魂魄が鬼となって出てきたというのなら、近くで遭遇するかもしれないでしょう?」
春燕の侍女達がふっと嘲るような笑みを見せて隠す。
それが徳妃の気に障ったらしい。ちらりと侍女達を冷ややかに一瞥し、口元だけで笑んだ。
春燕のことを、朱孫の次に気にかけている徳妃である。というより完全に后として仕込む気でいる。
張師姉は怖いぞ……と、朱孫は胸の内で彼女達に忠告した。
春燕が、山に育ったも同然のふるまいをしようと、山の娘ではない。
南の要所を任せる領主の姫であり、王の寵妃に仕えていることを理解できないとは、哀れである。
「わたくしもご一緒しても?」
「…………いいですよ」
ちょっと考えるようなそぶりで、不自然なほどの間を置いて春燕は答えた。
朱孫も含めてその場にいる誰もが怪訝そうに春燕を見る。
「徳妃様はまあいいですが、主上は遠慮してほしいです」
「そう先回りして言われると、一緒に行くと言いたくなる」
「わたしがお願いしてもですか?」
「ああ、行く」
徳妃の話を聞いた時から気になっている。そこへ春燕がなにか考えがあるそぶりをみせるのなら、あとを徳妃に任せて戻る気に朱孫はなれなかった。どうせ仕事を投げ出してきて暇なのだ。
それに朱孫も信頼できる臣が大勢いるとはまだ言い難い。
多少、朱孫の顔色伺うだけの緊張を、まだしばらく彼等に強いておかなければいけない。
「お仕事に戻った方がいいと思いますよ。徳妃様、主上を止めていただけませんか?」
「あら、寵妃の貴女でも無理なのに?」
にこにこと返した徳妃に、場の空気は春燕を除いて完全に凍りついた。
徳妃はこの場で遊んでいる。
向こう数日、後宮は徳妃と春燕がやり合った話でもちきりになるはずだ。
まったく、人は暇だとろくなことをしない。
三国の中で優勢を取りつつある朱慶国の王、朱孫王は、炎駒の王と臣民から支持されている。
神獣炎駒を伴い、地に降りて火の恩恵をもたらし、人々を導いたとされる初代神王・弟神炎王の再来。
精悍さと理知を併せ持つ風貌。剣を取れば苛烈な武人にして、可能な限り流血を避けようとする慈悲深い聖君。
そんな朱孫王の信義を重んじる人柄を物語る伝の一つに、亡き后の話がある――。
*****
夏だな、と朱孫は思った。
だからというわけではないだろうが、朝政の場はいつになく倦憊し淀んだ雰囲気であった。毒にも薬にもならない議論が堂々巡りしている。
ここのところ差し迫る危機も起きていないからだろう。
結構なことだが、たまたまそういった時期というだけだ。国を動かしている面々が揃って弛緩されては困る。三国の争いは続いている。
頃合いを見て朱孫は立ち上がった。
「やめだ」
一言そう告げて、朱孫は殿の奥へと引っ込んだ。主上っと声を上げる者はいても、止められる者はいない。
古代神王の縁者である貴き王を、ただの人たる臣は止める術を持たない。
相当の覚悟か志か、あるいは彼を人と扱うことが出来る者は、その場にはいなかった。
場は新たな后をといった流れになっていた。決めずとも、選ぶとするだけでもと。
折しも、慰霊のための王后廟の祭祀が近づいていた。
「これも大広土の王となるための修養の試練か……紅蝶?」
話だけの亡き后で、権力欲旺盛な者達を抑えるのもそろそろ限界のようだと、朱孫は後宮へと足を向けながらひっそりと嘆息する。
後宮の一画に立派な廟を建てて祀られている、朱仙紅蝶王后。
死後の名が示す通り、紅蝶という名の仙女は、太古の昔に、王を護る経典の秘術を宿す器となり捧げられるはずであった。
しかし役目を果たせず、幾歳月。
宿している秘術の気に蝕まれ、異形に成り果てかけた時、王となる天命を持つ若者であった朱孫と出会った。
紅蝶は一夜の契りで身に宿した秘術を朱孫に渡し、術の器として捧げたその身は消失した。
当時、まだ逆賊と追われる身であった朱孫の、齢十七の夏の出来事である。
その後、王たる証を立てて即位した朱孫は、紅蝶を生涯の后として後宮に立派な廟を建てて祀り、妃だけではなく臣にも敬うよう言い渡した。
惹かれ合った二人が添い遂げることは叶わなかった悲恋として、芝居や歌語りの演目として市井に広められた話だが、一部、故意に省いて伝えていないこともある。
『王を助け、死してなお支える天命を握る方は南に。いずれ貴方様は大広土の地を統べる王となりましょう』
朱孫の腕の中で消えていった女が言い残した言葉。
仙女ではなく、仙境から降りた父親に秘術の器にされただけの娘。
本来なら、古代の王の側女として不自由ない生涯を送り、朱孫が生まれる何百年も前に亡くなっていたはずの女である。
惹かれもしたし、一夜の契りの情もあった。しかしなにが悲恋かと朱孫は己に呆れながら胸の内で毒づく。
王城の権力と諸侯の勢力調整のために利用している――。
「……主上?」
「ん、ああ」
呼びかけられて、朱孫は我に返った。
目の前に舟遊び出来るほど広く作った庭池が、まばらに群生する蓮の葉を浮かべて青く光っている。
きらきらと新緑輝く、初夏の水辺の景色だ。
居所が日影となっているのは、池のほとりに建つ四阿の中にいるからだが、さほど涼しいとは言えない。垂れ下がる柳の枝や長衣の裾を時折揺らす、水辺を通る風にかえって蒸し暑さを感じる。
朱孫を呼んだのは、紫檀の卓を挟んで向かい合う、淡い茶の髪に琥珀の瞳を持つ美姫であった。
なんの話をしていたのだったか……気分転換に来ておきながら、会話の途中から完全に上の空になっていた朱孫はなんとなく耳が拾っていた話を思い出そうとしたが無駄だった。仕方なく、それらしい返事を口にしてみる。
「うん、そうだな……江南の地に豊さが戻ったようでなによりだ」
「ええ、祖父の便りにそうあったとお話ししましたね。三周遅れで的を外したお言葉ですこと」
にっこりと細めた目が、じっと冷たく朱孫を睨む。
後宮の四夫人ともなると、綺麗な顔で器用な怒り方をする。
結い上げた髪に幾本も挿した玉の簪の飾りをか揺らしている、徳妃張氏だった。
「その、なんの話をしていた……?」
べちりと額に手のひらを当て、朱孫は上の空だったことを白状する。
最初からこうすればよかったのだろうが、来ておいて上の空をあからさまにするのも気が引けた。
「まったく。情勢を鑑みるにお察ししますけれど、“ああ面倒くさい”と、顔に出ていますよ。政務を放り投げ、遊びにこられてそれでは後宮の妃としての立場がありません」
「……張師姉にくらい、気を緩めさせてくれ」
「その呼び方も、いい加減おやめくださいな」
淡い黄色に染めた絹の袖からのぞく、よく手入れされたほっそり白い手で、徳妃は茶器からふくよかな香気の茶を杯に注ぐ。
どうやら茶を変えて、葉が開くのを待っていたらしい。
侍女が毒味を終え、朱孫の手元に新たな杯が運ばれる。
「同じ師に学んだ兄弟弟子だろう」
「幼い頃のほんの三ヶ月のことではありませんか」
暑さなどまるで感じていないような、澄ました様子で徳妃はお茶を口に運ぶ。
まだ朱孫が王城に母と暮らしていた幼い頃、修身のためと身分を隠し忠臣の家に預けられた時期がある。
いま思えば、最愛の妃と息子を失うことを恐れた父の配慮だったが、当時の朱孫に己の周囲の状況など知る由もなく、遠ざけられたと思っていた。
預けられた家の食客に経書の師がいて、父に認めてもらおうと教えを乞うた。
師の元には、朱孫の一つ年上の少女が出入りしていた。
名は玲芳。五大貴族張氏の一族の娘。
後に朱孫王の後宮に入り、徳妃になるとは奇縁である。
「弟は姉に泣きつくものだ。こうして会う時くらいいいだろう」
「息するように人誑しなことを仰るのですから……主上は」
美しく成長した幼馴染との再会など、いかにも民に好まれそうな話である。
実際、次の后は四夫人では三番目に位置する彼女と目されているが、朱孫は共に学んだ玲芳が官吏になりたい叶わぬ夢を抱いていた少女であったことを知っている。
女は女官や宮女になれても、政に携わることはできない。
最もそれに近い地位があるとすれば、王の后や上級の妃だ。
後宮を任せるのに適任であり、政略と本人の意思もあって迎えた妃だった。
「寵妃がいてその調子では、嫌な噂話もでようというものです」
朱孫には春燕という寵妃がいるが、他を蔑ろにしているわけではない。
政略で迎えている妃を蔑ろにはできない。
内政の立て直しや戦で忙しい間は、疎遠で済ませていた。
いまはそうもいかず、不満に思われぬ程度に間を空けて順に渡ってはいる。
ぴちゃん、と。
池の魚が水面を尾で叩いた音がして、徳妃が呆れ顔でため息をつく。
「近頃、目立つ諍いがないためかしら。人は暇だとろくなことをしませんね」
「後宮もか……」
「はい?」
「いや、なんでもない」
ある程度、平等に尊重しようと鬱屈するのが女の園というものであるらしい。
徳妃とは白熱した勝負の碁を打つだけで、情を交わしたことはない。
官吏になりたかっただけあって、緻密な策謀家なのは盤面に表れる彼女の資質だった。
「お見えになられたのはそれも理由と思っていましたが……本当に気晴らしでしたか」
「それもとは、嫌な噂とやらか?」
「ええ、他ならぬ王后様と春燕様に関わりますから」
夜更けに王后廟から啜り泣く声が聞こえる。声だけではなく足音もなく彷徨い歩く女人の影を見た者もいる。
そしてとうとう三日前、王后廟近くの宮に仕える下女が悶え苦しむ病にかかった。
「主上の寵愛を得た春燕様を恨んで、亡き王后様の魂魄が鬼となり出てきたと――」
「本来の役目を果たし、消えた仙女だ。鬼になどなるものか」
「そのお話、本当ですの?」
「ああ」
「でしたら、こちらでお茶など飲んでいないで参りましょう」
さあさと、庭池を臨む四阿に設られた卓を回った徳妃に促される。
二人が幼馴染みで仲睦まじいことは後宮中の知るところではあるため、咎める者はいない。
「どこへ」
「それはもちろん、暢神宮。春燕様の宮ですわ」
*****
朱慶国の王となった朱孫は、南の辺境の地で一人の少女と出会った。
炎駒をその身に印し、“大広土の王に侍り、王母となる”と予言された領主の娘。
なんという符号の一致か、これもまた奇縁である。
「亡き王后様の鬼ですか……」
精神をのびのび和らげる意で暢神宮。
これほど住む妃と合う名前の宮もないのだが、いまは違った。
一体、どういった状況だこれは、と。
朱孫は春燕の呟く声を聞きながら、彼女の侍女が出した茶の杯を見つめる。
「ええ。主上の寵を受ける春燕様をお恨みになってと」
「おい、張し――徳妃」
朱孫と共に現れた徳妃に、春燕の宮の者達は大慌てした。当然だろう。
いまも戦々恐々と事の成り行きを見守っている。
そんな中で、徳妃が王后廟の噂話を楽しげに語り出したのだから、これはもう事情を知らぬ者から見たらどう考えても修羅場だ。
徳妃が、朱孫の前で春燕を責めているようにしか見えない。
「はあ、それはまた病に臥せった方はお気の毒な話ですね」
「ええ、まったく。無関係な者を呪うだなんて」
優雅な仕草で頬に手を添え、徳妃がそんなことを言う。言外に呪いたい相手を呪えと含ませている。
のんびりと邪気のない感想を述べた春燕は、いかにも察しの悪い暗愚な姫に見えた。
見目の良さが徳妃と相対して見劣りしないから、なおさらである。
艶やかな黒髪と濡れたような黒い瞳が白肌を引き立て、血色のよさが瑞々しい白桃を思わせる。簪など装飾が少ないのは相変わらずだが、薄紅に夏向けの透ける白の衣を重ねる春燕は、清冽な若い色香漂う妃に見えた。
朱孫が絹を贈り、寵妃に相応しい動きやすさも考慮した衣を作れと尚功局に命じた甲斐もあり、装いは以前よりずっと妃らしくなっていた。職人の宮女達が新しい衣装作りにやけに張り切った功績である。
「同感ですね。徳妃様ともあろう御方が、そんなお話を聞かせるためにいらしたのですか?」
ひっと、茶を出してくれた春燕の侍女が小さく息を引き込む音を朱孫は聞いた。
後宮はある意味、戦場よりも恐ろしい。
春燕は彼女の疑問を思った通りに口にしたまでだが、増長した寵妃が徳妃を嘲弄したようにも聞こえる。
「名が出ている以上、主上が迎えた妃としてどう収めるつもりなのかしらと」
「ああ……うーん、そういうことになるのですか?」
「“ああ面倒”と、顔に出ていますよ。春燕様」
「だってその通りですから。でも徳妃様がわざわざいらして無視もできないし……意地悪ですね」
朱孫に茶を出した侍女は顔が真っ青になっていて、心底から朱孫は彼女を気の毒に思った。
この二人の間で朱孫を巡って諍いなど起きないと、知っているから余計に。
徳妃にとって春燕は、師の師のである老師の教えを得た敬うべき師叔である。沈山という、碩学の徒の門下の序列において二人の立場は逆転する。
このことを知る、一人控えている徳妃の侍女がやれやれと言いたげな口元をしている。
「春燕様にもそろそろ、後宮の秩序というものに気を配っていただかなくてはね」
春燕はほうほうと暢気に相槌など打っているが、侍女はもう泣き出しそうな顔になっていた。
同時に、この侍女だけかと朱孫は思った。
室内には他に数人の侍女が控えている。
二人のやり取りを困惑気味に見守りながらも、春燕が詰め寄られているようなのをどこか楽しげに眺めている。
意地の悪いことだ。だから春燕も、顔色悪くしている侍女に直接の接客を任せているのだろう。
人の悪意に無頓着なところのある彼女も、少々腹に据えかねてきているらしい。身近に置く者の選別に入っているようだった。こういったところは生まれというのか、育て親の老師が仕える姫として養育していたと伺える。
「主上、王后廟に行ってもよいでしょうか」
「王后廟は後宮の妃は誰でも敬意を示しに行ける場所です。ですわね、主上」
「う、うむ……行ってどうするのだ?」
「亡き王后の魂魄が鬼となって出てきたというのなら、近くで遭遇するかもしれないでしょう?」
春燕の侍女達がふっと嘲るような笑みを見せて隠す。
それが徳妃の気に障ったらしい。ちらりと侍女達を冷ややかに一瞥し、口元だけで笑んだ。
春燕のことを、朱孫の次に気にかけている徳妃である。というより完全に后として仕込む気でいる。
張師姉は怖いぞ……と、朱孫は胸の内で彼女達に忠告した。
春燕が、山に育ったも同然のふるまいをしようと、山の娘ではない。
南の要所を任せる領主の姫であり、王の寵妃に仕えていることを理解できないとは、哀れである。
「わたくしもご一緒しても?」
「…………いいですよ」
ちょっと考えるようなそぶりで、不自然なほどの間を置いて春燕は答えた。
朱孫も含めてその場にいる誰もが怪訝そうに春燕を見る。
「徳妃様はまあいいですが、主上は遠慮してほしいです」
「そう先回りして言われると、一緒に行くと言いたくなる」
「わたしがお願いしてもですか?」
「ああ、行く」
徳妃の話を聞いた時から気になっている。そこへ春燕がなにか考えがあるそぶりをみせるのなら、あとを徳妃に任せて戻る気に朱孫はなれなかった。どうせ仕事を投げ出してきて暇なのだ。
それに朱孫も信頼できる臣が大勢いるとはまだ言い難い。
多少、朱孫の顔色伺うだけの緊張を、まだしばらく彼等に強いておかなければいけない。
「お仕事に戻った方がいいと思いますよ。徳妃様、主上を止めていただけませんか?」
「あら、寵妃の貴女でも無理なのに?」
にこにこと返した徳妃に、場の空気は春燕を除いて完全に凍りついた。
徳妃はこの場で遊んでいる。
向こう数日、後宮は徳妃と春燕がやり合った話でもちきりになるはずだ。
まったく、人は暇だとろくなことをしない。
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侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
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