本條玲子とその彼氏

ミダ ワタル

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23.折り紙

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 熱くて、重くて……喉が干涸びそうだった。
 じんじんと痺れるような、気持ちの悪い鈍痛をこめかみの奥に感じながら、自分は今眠っているのだと自覚する。
 濃い灰色の靄のかかった、あるいはぬかるんだ沼地の泥の中。
 混沌——なんとなく、自分の意識なりなんなりが、存在しているところはそれだと思う。
 そんな場所にまで、追いかけてくる。
 いや、もとよりそこから響いているのかもしれない……何が? 透き通るようで鈍い真珠が発するような艶を放ち、しっとりと重く、甘く匂って、手招きするように誘う……ああ、泥のような灰色の靄の中に陽光に包まれて、花の房を重く垂らす藤の木がある。
 うねりながら太い蔓を絡める白茶けた藤の根元に寄りかかった、根元と同じ色の着物に藍炭茶の袴をつけた自分がいる。着物と袴は父のものを仕立て直した、筝を演奏する舞台に立つ時によく着るもの。
 絡み合う蔓が作る揺籃のような窪みに気怠い半身だけでなく全身を委ね、そのまま崩れるように幹の奥から響く音に沈み込んでしまいたかったが、頭上に垂れ下がる淡い藤色の房の、柔らかで滑らかな肌のような花の表面の艶に心惹かれて腕を伸ばす——。

「うっわ……三十八度七分?!」

 ピピッと、耳障りな電子音に目を覚ました。
 賑々しい声が降って来た方向へと半目のまま視線を動かしてみれば、耳で計るデジタル式の体温計を構えて、たぶん細い目を見開いているらしき制服を着た三田村がいた。

「……——」

 三田村——と声を掛けたつもりだったが、掠れた空気の音しか発せられなかった。熱による乾きで喉をやられている。
 粘ついて粉っぽい口内で集めた唾を飲み込めば、ひりついた乾燥による喉の痛みが増しただけだった。

「どうりで女好きのお前が、オレの手なんて握り締めてくれたりする訳だ……」

 どんな言い草だと気怠さの中で思いながら、剣道やっている奴らしく傍らに正座している三田村へと身じろぎして、布団から出ているらしき自分の腕の先へと意識をむければ、たしかに三田村の左手首から甲を鷲掴んでいた。
 離そうとしたが、半分寝ているような体は熱の気怠さも手伝って上手く動かない。
 そうこうしているうちに三田村が甲斐甲斐しく布団の中に収めてくれた。

 俺が筝にはじめて触って父親を亡くす迄の間の頃、子供なりに思考や心がつく期間。
 とりあえず多くの日本人に特有の、外国に対する妙な気後れの感覚に染まるのを防ぐかといった両親の教育方針により、スイスの寄宿学校に放り込まれていたという三田村は妙に人の世話をし慣れたところがあった。
 寮のルームメイトや上級生が下級生の面倒を見るシステム——といっても三、四歳児から十歳に満たない子供達のままごとらしいのだが——で知らず身に付いたものらしい。
 そういった部分はクラス委員だの部活の主将だのといった、複数の人間をまとめる際に活かされいる。
 外国の、いわゆる将来各界を背負って立つような良家の子弟の、幼少時教育の薫陶を受けた賜物であった。
 戦前だったらインテリヤクザじゃなく、立派に国を担うエリート扱いを周囲から受けたろうにな……と、考古学者志望の友人に大きなお世話だろう感想を抱く。

「ったく、先週に引き続きまた学校休んでるから志摩先生に聞いてみれば……縁側で寝巻きで寝てたんだって? まだ夏じゃねえっての」

 そうだ、学校を休んだのだった……玲子に知らせていない。
 相変わらず彼女の家の電話番号を聞いていなかった、門のところで今朝も待っていたのだろうか?

「……玲子ちゃん、クラスまできたよ。風邪引いたらしいって言ったらお大事にって、誘ったけどなんか外せない用事があるみたいだった」
「……いい……だれに、きいた?」

 我ながら、しまりのない掠れ声で風邪を引いたいきさつまで知っているのを尋ねれば、玄関先で茜ちゃんにと答えて三田村は苦笑いした。

「めちゃくちゃ怒ってた。ほんっとお兄ちゃんのだらしなさは信じられないってさ」
「“はんこうき”、なんだよ……」
「高熱で、喉もやられてんのにあんま喋んなよ……水飲む?」

 声を出すのが面倒なので頷いてのっそり起き上がれば、すかさずウール地の茶羽織を背にかけられ、グラスに入った水を渡された。
 三田村にこうして世話されるのは初めてではないものの、母親の如く行き届き過ぎていてどうにも奇妙だ。

「ものすごく気にしてる感じだった、玲子ちゃん……やっぱあれだろうな噂のことがあるから」
「……」

 “玲子と付き合う男は不幸に見舞われる”噂とは関係ないが、風邪を引いたのは少しは彼女が関係しているので黙って水を飲む。
 水差しに入っていた水はすでに常温になっていたが、熱の体には十分冷たく感じた。
 飲み干したグラスを黙って三田村に渡せば、枕元に置かれた盆に用意されている布巾で拭ってから、水差しの口を蓋するように伏せて置く。
 本当に行き届き過ぎている……いやこれは水商売のバイトがなせる技か?

「もともと虚弱児だからって言っといた。高校上がって結構丈夫になったと思ってたんだけどな……ま、あの従妹の子やら来てたし疲れてたんだろな」

 勝手に色々と決めつけるなとは思ったが、玲子に言ってくれたことだけは感謝した。
 あのしょんぼりうなだれるような玲子は少し気の毒に思える。

「ああ、それからこれ」

 ふと思い出したように、シャツを見せて前を開けている紺の詰め襟の胸ポケットから生徒手帳を取り出した三田村は、開いたページを破くと俺に渡した。

「玲子ちゃんの家の電話番号。お前、聞いてなかったの? まあ、玲子ちゃんもだけど……お前の家のも渡しておいた」

 思いがけないところから手元にやってきた玲子の家の番号をしげしげと見詰めてから、三田村の顔を見た。

「睨むなよ……自分で聞きたかって柄でもないだろ、オレと違って」
「睨んでない……」

 水を飲んだせいか、少しだけ声がまともに出た。

「今時、携帯電話持ってないんだからなあ……二人とも」
「要らないだろ……別に、悪いけど机の抽斗に……」
「へいへい」

 電話番号のメモを三田村へ返せば、受け取って代わりに机の抽斗の中に収めてくれた。
 突如、悪寒と高熱からくる吐き気のようなむかつきに襲われて、俯き汗ばんだ額を掴んで深く息を吐いた。

「おい、大丈夫……じゃない熱だよな。寝ろよ」
「……そうする」 

 背に掛けられた茶羽織を外されたと同時に、自らずぶずぶと布団の中に潜り込む。

「医者行ったのか? 」
「往診来てもらった、薬も飲んだ」
「じゃ、じきに下がるだろ。先週からの授業のノートのコピー置いてくから」
「……ああ、悪い」
「さっさと治せよ」

 立ち上がりかけた三田村に、ふと思いついて引き止める目線を送った。

「何?」

 枕元から、まさに風邪の原因になった折り紙を取り出して、膝立ちの三田村に差し出した。

「なに……おってたか、わかるか……」

 飲んだ水の効力は早くも消えていた。自分の吐息の熱さに喉の腫れを感じてうんざりしてしまう。

「折り紙? お前なあ……熱出してるのにこんなので遊んでるから下がらないんだぞ」
「……いいから」
「ったく、何のクイズか訳わかんないけど……鶴だろ、たぶん」

 二三度、折り線に合わせて紙を折り畳み、事も無げに答えた三田村に返された折り紙を呆然とした思いで眺めて、うろ覚えの手順を辿って折り返せば、たしかに一致しそうだった。

「あたりだ……」

 俺の呟きに、呆れ返ったような溜め息を三田村は吐き出した。

「病人はちゃんと寝てろ、じゃあな」
「……ああ」

 手元の折り紙を見詰めたまま、俺はおざなりに三田村に返事して送った。
 鶴……鶴だったのか……。

「そうか……」

 熱に再び曖昧になっていく意識の中、玲子の華奢な指が無数の鶴を折っている幻影を見る。
 艶やかな黒髪がその都度揺れて、白い指先に淡い影を落とす。
 なんとなく、鶴は一羽だけではないように思われた。 
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