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第二部 公爵家と新生活

17.初夜は媚薬の惑い *

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 フォート家に到着した夜――。
 お屋敷の規模には少なすぎる使用人の方々を一通り紹介され、疲れた体に染み渡るような夕食をとった後、ようやくそこで魔術師と分かれてオドレイさんに寝室に案内されて人心地ついた。
 それ程多くないお嫁入りの荷物はすでに私室に運び込まれていて、お湯の支度が出来ているからと入浴をすすめられ手足が伸ばせる浴槽を見て頷いた。
 旅程を大幅に短縮しているとはいえ、長時間の馬車の移動は疲れる。
 適当に自分でやるつもりでいたら、わたしが頷いたのを見て準備し始めたオドレイさんにちょっと待ってと声をかける。

「申し訳ありません。本来リュシーがお世話するのですが、今夜は遅いので私が」
「いやそうじゃなくて、あなたのが疲れているでしょう?!」

 なにせ馬車の馭者をしていたのは彼女だ。

「お気になさらず。その必要があれば補給無し不眠不休で三日は保ちますから平気です。着いたばかりで勝手もわからないでしょうし」

 真顔できっぱりと有無を言わせない調子で言われてしまっては、なにも言えない。
 男装の似合うきりりとした姿だから余計に。

「では……お言葉に、甘えて……」

 元傭兵とは聞いているけれど。
 補給無し不眠不休で三日保つって……一体、何者……。
  
「オドレイの過去はフォート家の使用人の中でも特異かつ苛酷ですから、すべてをいまこの夜に話して聞かせるのは色々な意味で躊躇ためらわれますね」

 人は条件さえ揃えば、まるでそうすることが正しい行いであるかのように人に対し残酷なことが出来るものです。
 椅子に腰掛けた膝に指を組み合わせた手を置いた魔術師の淡々した答えに、そうと答えてオドレイさんがテーブルに用意してくれたハーブティをいれる。
 オドレイさんが幼い頃はまだこの国は隣国と戦争中だった。
 人外の力を宿した、明らかに異大陸の血を引いているとわかる彼女。
 天涯孤独だそうだし、一人で放り出された女の子が生きていくにはきっと筆舌に尽くしがたい苦労があったのかもしれない。具体的な厳しさは思い浮かべられなくても、それくらいはわかる。

「貴女、こういった時は聞き分けがいいですよね」
「それくらいの分別はあります」

 拒絶しないけれどやんわりと制止を掛けてくるような、この人の物言いはそれに従うのがよいだろうと妙に人を納得させるものがある。
 魔術師は捻くれた人だけれど、思慮深い。
 そもそも私を祝福された花嫁に仕立て上げるくらい頭も働くし、人を操ることにも長けている。そういった人が他人の事情や心理に無頓着ということはあり得ない。
 どうぞ、と入れたお茶を一応、彼の前にも置く。

「おや、どうも」
「自分だけっていうのも、ですから」

 それに、間がもたない。
 
 パチパチと暖炉で薪が爆ぜる音を聞きながらカップを口元に運ぶ。 
 今夜は婚儀を終えてお屋敷にも落ち着いた、その……初めての夜であって。
 ここはわたしと、魔術師の寝室でもあって――。
 だから夜遅く、魔術師がここでこうして寛いでいるのはおかしなことじゃないけれど。
  
 お、落ち着かない――。

 寒いから厚手のガウンを羽織っているとはいえ、その下は寝間着だから下着同然の薄着であるし、そんな格好でこの人とこうしているなんてと考えながらお茶の杯を口元に運んでいたら、あっという間に杯は空になってしまって、お代わりを注ぐ。
 魔術師は昼間と同じローブ姿のまま特に変わりない様子で、お茶にも手をつけず、穏やかな表情でこちらを見ている。
 ちょっと雑談して、また自分の部屋に戻ってしまっても不思議じゃないような雰囲気で、むしろそうであって欲しい。
 移動中の馬車の中でそれっぽいこと言っていたけれど、これまで魔術師が本当にそういった触れ方をしたのは一度だけ。
 あれだってほとんど言い争いの事故みたいなもの、本人はそのつもりでそうしたなんて言っていたけれど。

 そう、とにかく。
 わたしの中では数の内には入ってなくて。
 つまり恋人としての交流も触れ合いもないわけで。
 第一、恋人ではないし。
 貴族の娘であったなら、幼い頃から決められていた顔も知らない相手と婚儀で初対面してとか、お見合いで交際期間もなく夫婦になってといったことも有り得るものの、わたしは爵位などない田舎の領主の娘。
 そんな心構えは誰にも教えてもらっていない、覚悟も勿論決まってない――!
 部屋が明るいのがまだ救いだ。燭台に灯された蝋燭の揺らめく光だけではなんて言ったらいいのか雰囲気に耐えられる気がしない。

「ええっと……、あ、そうだっ、この結晶も魔術なのよね?」

 テーブルやマントルピースの上に、きらきらと橙色の光を放つ結晶が入ったランプが置いてある。陽の光を集めた結晶。軽く衝撃を与えると光と熱を放つ固形燃料のようなもの。
 照明として使えばとても明るい。
 蝋燭と同じで、時間が経つにつれ結晶は小さくなり、夜更けになる頃には消えるらしいけれど。

「正確には魔術的な手順を踏んで作りだしたものです。さほど手間のかかるものでもありません」
「そ、そう。灯りもだけどお風呂のお湯を沸かす燃料にもなるし便利よね、これ。王都の邸宅でも使えばいいのに」
「便利ですが人の世にはないものです。この家では蝋燭くらいのものでもそれ以上の価値を見出す者は外にはいくらでもいますから」
「あ……そっか、そうよね」
「この家が広過ぎるので使っていますが。この部屋……というより、この棟はかつて小国だった頃の王妃の為のものだったらしく、使い勝手が良いのでいまは生活する所としています」

 宮殿といっていい広さの屋敷の中は、魔術師本人やオドレイさんのいう通りにあまり使われていない放置されている場所も多そうで、明らかに寂れた建物や崩れそうに老朽化した塔なんかが廊下の窓から見えた。おそらく修繕も大変だし壊すのも大変なのだろう。
 そして使われている箇所は、一見普通のお屋敷のようでいて魔術の家系らしい工夫や仕掛けがそこかしこに施されているようだった。

「その頃から魔術の家系だったの?」
「らしいですね。王国前身の七小国の中でも一番小さな国で魔術に親しみ人外のものと共存するお伽話に出てくるような国だったとか」
「お伽話……」
「本当のところはわかりません。もうそんな古くからの領民も数少なくそもそもごく普通の王国民です。そんなことを伝えるレリーフだけが屋敷に残っているというだけの話です」

 テーブルに置いた杯の中のお茶の水面を見るように僅かに伏せた魔術師の瞳の色が、ランプの光を受けて揺らぐ。
 さらりと肩を滑った銀色の髪の一筋が色の白い頰の輪郭を仄かな光に滲ませる。
 今日一日、馬車の中で間近で眺めるだけの時間を過ごして何度も思った。
 本当に、この人は綺麗な男の人だと。ごく平凡な田舎領主の娘のわたしが、この人とあんな王族のような婚儀をしたこと自体がまるでなにかお伽話の中の夢でもあるかのような現実感のなさ。
 元王城だったというこの屋敷の王妃の部屋を、自分の部屋だと言われてこうしてこの人と落ち着いていることも。
 本当は、わたしは、王宮に当てがわれている自室で仕事に疲れてただ眠っているだけなんじゃないかしらなんてことを思いながら自分の左手の薬指の付け根にそっと触れる。
 表面だけが少し冷たい、けれど触れればすぐにその冷たさは溶けて体温とかわらない指輪がある。これまでなかったまだ慣れない金属の違和感が現実であると告げてくる。

「マリーベル」
「は、はい。なにっ?!」

 不意に呼ばれたのに驚いて、うわずった声の返事になった。
 なに、なんなの。
 呼びかけたからにはなにかあるのじゃないの、どうして黙ってテーブル越しにこちらを眺めるように見ているの。いつもなら、もっと面倒な感じに色々なにか言って絡んで……いや下手に口説くような言葉を言われても困るけど。
  
「……そろそろ、休みましょうか。眠いかどうかはともかく疲れているはずです」
「っ?! …ッ、げほっ」

 底に薄く残ったお茶を飲み干そうとして、魔術師の言葉にむせて杯を置いてテーブルに手をついて咳き込む。
 さっきのは普通の言葉なのに、なに反応して……わたしの莫迦っ。
 俯いて思い切り咳き込んで頭に血が上ったせいか、なんだか顔が熱い。

「大丈夫ですか?」
「だ、だいじょ……けほっ、だい……っ……」
「落ち着いて、下手に呼吸しようとしてもむせるだけです」
「や、あのちょっと……っ」
 
 気がついたら、立ち上がって後ろに回った魔術師に前のめりになった背筋をさすられ介抱されているのに焦って身じろぎしかけたところで、椅子から立つよう左手を取られ、けほっ、と気管が落ち着いた後の咳をして彼をふり仰ぐ。
 間近に。
 首を傾けるように落として、中途半端に椅子から降りたわたしの顔を覗き込む、麗しいといった形容が似合う彼の顔がある。
 少し上目に見上げれば、目が合った。
 静かに凪いだ、青みがかった灰色の瞳になんとなく引き込まれて、まるでダンスの相手でも所望されたかのように向き合って見つめ合う。
 長いような、それほどでもないような奇妙な時間。
 頰が熱い。
 咳き込んだからというだけではなく、きっと彼の目にも赤面しているとわかるに違いない。
 
「灯りももうすぐ消えるでしょうから」

 気がつけば、結晶の光が弱まり蝋燭を灯した程度の光に揺れていた。
 ほんの数歩後ろに寝台がある。
 そう……ね、と彼から目をそらすように俯いて軽く添えられているだけの彼の手から左手を自分に引き寄せ、彼の側を通り抜けて寝台の側の椅子に羽織っていたガウンを置いて床に入る。

 心臓の音が……うるさい。
 近寄ったらきっと聞こえてしまう。
 
「一応、端に寄ってくださるんですね」

 くすりと苦笑共に上から降ってきた魔術師の声に、掛布を顔半分までかぶっていた目だけを寝台のそばに立っているらしい彼に動かす。

「だって……そのっ、わかっては……いるから」
「なにを?」
「結婚してしまったからには……その」
「夜の営みは、夫婦の義務とでも?」

 ぎし、と寝台が揺れて瞬きした目に紺色の絹に銀色の髪の束が落ちる、魔術師の背中が見えた。

「そういえば、妻の役目は果たすって言ってましたしねぇ」
「そういった意味では……っ」

 顔を出して声を上げれば、振り返った魔術師がにこにこと笑みを浮かべていたのに、なんとなくむっとして目を細める。
 
「……面白がってる」
「いいえ、初々しさがかわいらしいと思っているだけですよ。私のところへ来てそうぎこちなく距離をとる人はいませんでしたので」
「……」

 いま、さらっと、なんだか腹の立つことを言ったような。
 いや、まあ四十近い男性なわけだし……いくら妻も愛妾も持たずにきたといってもまったくなにもないなんてことはないだろうけど。
 なんといってもこの顔に地位と名誉と財力が揃っているわけだし。
 性格は捻くれてるけど外面……人当たりは良い人だし、所作は貴族らしく洗練されているし。
 淑女どころか紳士も少々混じった熱い視線を常日頃から、わたしとの婚約期間中も送られていた人だし。
 そもそもわたし特にこの人のこと好きじゃないのに……いや、でもこれは好き嫌いの問題ではなく礼儀としてどうかでは?
 
「なに砂糖と塩を間違えて舐めたような顔してるんです?」
「いや、なんだか……これは怒っていいようなことではないかと」
「怒る……?」

 首を傾げしばし考え、ああなるほどと呟いた魔術師に、なんだかチェスの手を間違えて進めてしまったような嫌な予感がした。
 その予感通りに、こちらを向いたまま身を乗り出すように近づいた魔術師の手が頰に触れる。

「たしかに、失言でした。とはいえここに入れたのは妻である貴女だけですよ……屋敷を逢引の場所にしたことはありません」
「それって、いま話すことですか」
「おや、少しは妬……」
「断じて、違いますっ!」

 さらっとではなく、明け透けな魔術師の言葉に最初の夜に閨で言うにはあんまりだ、私はこの人のこと好きじゃないしどこのどなたとどんな事をなさっていたかなんてどうでも、ええどうでもいいし、だからこれは嫉妬なんかではないけれど、人をあんな強引なやり方で妻にしておいて礼儀ってものがあるでしょうっ!

「……貴女だって、いくらなんでもその歳まで王宮にいてまったくなにもなくなんてことはないでしょう? あの故郷の、貴女を望んでいた幼馴染とかいう伯爵家三男もいたことだし」

 はあ?
 そんなわけないでしょうっ! 
 
「馬鹿言わないでっ! 殴られたいのっ?!」

 思わず跳ね起きて魔術師に手を拳に握って腕を振り上げれば、跳ね起きる寸前でわたしの頰から離れた手がわたしの腕を掴んで引き寄せられ、ローブの絹地に包まれて、再び頰に手を添えられそれ以上の文句は言えなくさせられていた。
 
「ん……っ……」

 だからって、大人しく黙って……なんていられるわけないでしょうっ!
 本当に、最低だこの人。
 こんな……唇を噛んでやると思ったけれど叶わなかった。

「うぅっ……ぐっ……んーっ?!」

 まるで、舌の根から引き抜かれそうに吸われる口付けに抗うことも出来ない。
 互いの唾液が混ざる音と合わせた口元が濡れていく感触。

「ん……ふっ……ううっ!」

 閉じることも出来ずにいるところから入り込んだ舌が、自分の舌と重なり擦れ合う。
 体が震えて、知らず魔術師の袖を掴んでいた。
 滑らかな絹のローブ、微かに甘く温かみのある香りがくゆる。
 抗いたいのに。
 口の中に篭った熱が、頭の芯まで逆上せたようにぼうっとさせる。
 あまりの苦しさに、一度閉じてしまった目を薄く開けば、魔術師の目が自分を見ていたのに驚き、反射的に袖にすがりついていた手で突き飛ばそうとして腕の中に捕らわれ、わずかな吐息も奪われる。

「んんっ……!」
 
 や……なんだか、力……抜け――。

 彼の袖を掴んだまま崩れかけたわたしの後頭部を、彼の手が支える。
 もう一方の手で触れられている頰が灼けるように熱い。

「頰が、随分熱い」
「はあ……はっ……」

 息苦しさから解放されて、魔術師を睨みつけたまま息を乱す。
 わたしと違って魔術師は平然とした様子でわたしを見ていて、その凪いだ眼差しを見詰めながら襲いかかってくるよりもっとたちが悪いと思う。
 この大悪徳好色魔術師!

「怒ってます?」

 当たり前、と言いたかったけれど、魔術師を見上げたまま乱れた呼吸をすることしか出来ない。捕らえられているのから逃れようと腕を伸ばして押し退けようとしても、小刻みに震えてまともに力が入らない。
 それを承知で魔術師の腕が緩められるのが、なんだか悔しい。
 すらりとした、下手な美女よりも優美な魔術師なのに体格や力の差だけじゃない、布越しに触れる肩や腕や胸の硬さもこんなにも違う。

「貴女本当に……私と出会う前からそんなで、おまけにこれまでなにもと考えると多少同情を覚えますね」
「離っ……」
「嫌です。いつだったか言ったはずです。今後一切逃げ道なんて残さないと――」
「な……、ん」

 今度はさっきほど吸い上げられていない。
 けれど大きな手に後頭部を固定されて、口の中を探られる。
 魔術師の舌が頬の内側を撫で舌に絡みつく度、ぞくぞくと背筋を這い上るような戦慄おののきが生じて一度力の抜けた袖を掴んでいる腕が、震える。
 すらりとした姿でも、この人は男の人だ。
 囲われたら、そう簡単には逃げられない。
 魔術師の体温か羞恥の熱かわからない、どれもなような気もする。
 熱に視界がぼやけて、酸欠気味だからかまるでお酒に酔ってしまったように頭がくらくらする。

「ふっ……ぁっ……」
「瞳が、潤んでますね。マリーベル」
 
 気がつけば、横たわって魔術師に組み伏せられていた。
 乱れ落ちてきた銀色の髪が額や頰、鎖骨のくぼみに触れてくすぐる。

「それにずっと私を見ている」

 王宮のバルコニーで初めて貴女に迫った時からしばらくは、私の顔をまともに見ようともせず避けようとばかりしていた貴女が。

「口付けに応じながら、目も閉じずに……私が欲しくなった?」

 魔術師の顔が、近い。
 ゆっくりとわたしの下唇をなぞるすらりとした指。
 じわりといままで感じたことのない痺れが、触れられた唇から喉の奥へ流れ込むように滲む感覚にわたしは狼狽ろうばいした。
 
 わたし……なんだか、おかしい。

 唇に触れていた指が、遊ぶように頰の輪郭を撫でて顎先から首筋へと降りる。
 頬、だけじゃない。
 首筋や、触れていない手で軽く押さえられている腕、鎖骨をたどって布越しに撫でられた肩も熱い。
 まだ頭がふわふわしている。

「欲しくなってくれないと困りますけどね、オドレイが仕込んでくれた甲斐がない」
「な、に……?」

 仕込む?
 オドレイさんが、なに?

「まさか、彼女の古い知識を借りることになろうとは……どんなに高潔な騎士も聖職者も貞淑な貴婦人も抗うことはできないそうです。ああ、ほらこれだけでもう」

 疼くような甘い痺れが、胸を軽く撫でた魔術師の指先から体の内側を貫くようで、あっと声が漏れる。
 
「ふむ、少々効き過ぎなくらい……」
「っ、の……お茶……」
「流石に察しがいいですね、マリーベル」

 なにか……盛られた!!
 にっこりと、実に美しい微笑みを見せた魔術師に頭の中が真っ白になる。

「離婚要件にはなりませんよ。花嫁の緊張を和らげる目的でその手のものを少量使うのはよくあることです」

 にこにこと、わたしの両頬を包んで悪びれもしない魔術師の瞳の色をゆらりとランプの中の結晶の光が揺らめいて揺らす。
 青みがかった灰色の目がわずかにかげりを帯びたように見えるのは光が暗くなりつつあるからだろうか。

「私が謝るべきは、貴女を待つことができないことです。初夜は譲れない。大丈夫、貴女の心は貴女のものです。なにも変わりはしません……少しくらいは変わって欲しい気もしますけどね」

 ひどく身勝手で最低なことを言っているはずなのに。
 すごい……その美貌でその声で物憂げ囁いているといっただけで、なんだかひどく苦しい選択をこの人にさせてしまったような錯覚をさせるその威力が、狡い。
 わかっていても、低く囁く声に、美しい光が揺れる瞳に、薄暗い室内に浮かぶわたしと魔術師を閉じ込める檻の柵のように幾筋も垂れ下がる銀色の髪に、苦しいような脈打つような胸の……閉じている襟元の合わせ目を掴んでしまう。
 
「マリーベル……」

 熱を帯びた声がして、ふっと暗くなる。
 ランプの光が消えたんだ……気が付いたと同時にシーツの上に乱れた髪を撫でられてビクっと体が震えた。
 だめ、だってこんなの――。
 きらきらと浮かぶように光る彼の髪を見ながら、首を横に振る。

「なんだか、不道徳……」
「不道徳? 何故?」
「何故って……」

 だってわたし、あなたのこと愛してない。
 細く震える、まるで囁くような声でそう伝えれば、魔術師はなにを今更と苦笑してわたしの耳元に顔を下ろした。

「私達は、王を後見人に、大聖堂の司教によって神と精霊の加護の下、正式に結婚を認められているのですよ。周囲の人々からも祝福されている。魔術的にも完璧に成立した契約です。これ以上、常識的で正しい夫婦がありますか?」
「そう……だけど……」
「祝いの一夜を互いに無事に過ごして、この夜です。不道徳なことはなにもない。それにもっとずっと隔たりのある夫婦はいくらでもいる」
「けど……」
「貴女の心ほど、貴女の目も唇も肌も……私を拒んではいないのに?」
 
 耳打ちされた言葉にぞわりと背筋が泡立ち、そのさざなみが引くのと合わせるようにいつの間にか胸元の紐を解かれた寝巻きを腰まで開かれ、胴の左右から直に触れられる。

「掌が吸い付くように肌を熱く潤ませて、愛していないと言いながら身を震わせる。貞淑なようでいて存外いやらしいんですね貴女は」
「違っ……」

 魔術師から逃れるように身をよじって胸を庇って起き上がれば、背後から抱きすくめられ彼の膝の上にのせられる。濃紺のローブの袖に肌が隠れるのはいいけれど、その力強さに少し怖くなる。
 そんなわたしに追い打ちをかけるようなしっとりと耳に心地いい声が、どこか淫靡な冷たさを伴って密やかに囁きかけてくる。

「私にどうされると意識してました?」

 問い詰めるのじゃない、甘く囁くように首筋の後ろに唇を押し当てながらの魔術師の問いかけにぞくぞくと甘い痺れが波のように広がって肩が震える。
 太腿に触れる彼の手を止めようと上から押さえれば、その手を押さえ直され指を絡めて仰向けに寝台の上に引き倒された。
 上げかけた声は彼に飲み込まれる。
 口元から唇が首筋を撫で上げ、左耳の端を軽く食まれる。
 腰の線を丁寧に撫で、めくれかけた寝巻きの裾から潜り込んだ手に翻弄される。
 魔術師の声を聞くたび、触れられるたびにそこから甘く痺れる感覚が波のように広がって内側のどこからか生れる身じろぎせずにはいられないような疼きに戸惑い、彼の指先から濡れた音が微かに聞こえた。
 止めるよう懇願しても、彼は許してくれない。

「ひっ……ぅん……んっ」

 魔術師の指が嬲る奥から切ないような疼きと、羞恥の熱と、くらくらふわふわと眩暈めまいに似て異なるなにかに、暗い夜に浮かぶ月の光のような髪に手を伸ばす。
 
「ま……じゅ、つ……」

 伸ばした手が、彼のローブの襟を掴んで緩んだ襟元からその生地がさらさらと衣擦れの音をさせて彼の肩を滑っていく。
 与えられる刺激に言葉は言葉にならない。自分がどんな顔をしているかわからない。
 潤んだ視界、熱は全身に回って……そんなつもりはないのに媚びるように彼を見てしまいそうで、彼のローブの端を握ったまま両腕で顔を覆う。
 胸の筋を覗かせる柔らかな亜麻のシャツにズボン姿の魔術師の、普段は布で覆われている太い首筋、眉を顰めた少し不機嫌そうな表情が妙に生々しく男性的で熱い頰がさらに熱くなる。
 顔を覆う腕を外され、そむけようとしたけれどそれより早く魔術師の顔が降りてくる。

「マリーベル……」
「っ…うっ……」

 ゆっくりと角度を変えながら口付けが少しずつ深くなり、深くなりながら応じ方を教えるように舌を誘われ、食まれ、目を閉じれば感覚がやけにくっきりと鮮明なる。
 体の奥に、彼の指が……流れ落ちてくる……。
 
「ふっ…あっ」

 露わになった胸の一方が魔術師の掌に包まれ、柔く掴まれ、先端をすりつぶすようにつままれ、体の芯を突き抜けるような刺激に指で嬲られている場所の奥底がひくりと疼いて、自分の声とは思えない甘く滴るような媚びた声が出る。
 
「本当に……心もこれくらい私に寄り添ってくれたらいいのですが……」
「あ……わた、し……」
「もっともそうさせているのは私ですが。悦くないよりは悦いのがいいでしょう? 貴女も」
「ンあ……やめ…っ、あっ……あっ、やめ」

 弄ばれて張り詰めた胸に魔術師が口付ける。
 指で摘まれていた場所を甘く食まれ、舌が嬲る。
 じゅっと胸元に吸い上げる音を立てられ、反射的にふるりと身震いし魔術師の肌蹴かけたシャツの袖を握りしめ、声が止まらない。
 耳を塞ぎたくなるような淫らな音を立てて探られている奥が疼いて、ぞわぞわと背筋を這い上る感覚になにも考えられなくなる……怖い。
 怖い。
 
 ――マリーベル。

 知らぬ間に固く閉じていた目の瞼を軽く慰めるように唇が触れて、彼の声がわたしの名前を囁く。

「魔術……師」
「こういう時くらい名前で呼んでくれませんか」
「あ……」
「私の妻で、いてくれるのでしょう?」

 覆い被さっている魔術師の吐息が熱い……重なっている体の熱も。
 内側を探っていた指が抜かれて、探られていたところよりも奥から広がるように溢れ落ちてくる生暖かなものにあっと瞼が震え、そこに押し当てられた指とは比べものにならならい固く熱いものがなにかを悟ってビクっと魔術師の腕を掴む手に力が入る。

「……やっぱり、だ、め……っ」
「そうですか?」

 しっとりした囁き声とともに、魔術師が身じろぎすれば粘質な音と共に抗いがたい切なさに支配されそうになる。薬のせい? こんな流されるみたいな……なのに唇と舌が重なれば彼に教えられた通りに応じてしまう。
 でも違うの……こんなの、わたしじゃ……。
 唇の音と喘ぐ切れ間に絶え絶えに言葉にすれば、いいえとひどく悩まし気な吐息とともに彼はそう吐き出した。

「……強情で聡くて、それなのに私の企みにまんまと嵌まって、怒りながらそれでも許し、私に付き合ってくれる……いつだって貴女は貴女でしかないでしょう……っ、マリーベル」
「……ぇ、ッ……あッ」

 耳に吹き込まれた言葉に戸惑い、みしっと体に押し入る体を割こうとするような痛みに、うっと顔を顰める。

「痛ッ……」

 痛い……苦し……っ。
 うっ……と呻き声を漏らして逃れようとしても、暴れないでと両膝を掴まれ脚ごと抱え込むように引き寄せられる。押込められる杭の熱にきゅっとひくつく内襞、探られ解されて粗相したようにぬかるんでいるのに、受け入れるには狭い入口を割いていく軋む痛みに息を呑む。

「私も……これまでなかったので……」
「ふっ……ぇ?」
「初めての女性に挿れるのは」
「……なっ、はぁッ……ア、ッんっ」

 ずっ……と、なかで動く魔術師に合わせ耳を塞ぎたくなるような濡れた音がし、奥は柔らかくなり始めていると囁く魔術師の、妖しく潤みを帯びた瞳と乱した髪が額にかかる様に体の熱が上がる。頬が暖炉の火を真近に受けているように熱い。

「痛いなら一度離れましょうか?」
「はっ……ァ、うっ……」
「マリーベル……、ッ!」

 魔術師が低く囁く声にびくっと背筋が震え、顔を顰めれば何故か魔術師も眉をひそめ、本当に負けず嫌いな人だと苛立ちに似た調子で漏れた言葉に、意味がわからないと首を横に振る。

「辛いのでしょう? 私も少々……」
「う……ご、かないで……」
「……リー……ベル? ッ!」

 なかで、一度引きかけ更に奥へと侵攻した魔術師に、ああっとしがみついてきつく目を閉じる。痛いし、苦しい……だけどもうしばらく満たしていてほしい。
 
「……ない、の……」
「なに……?  マリーベル?」
「せつないの……おく、あっ、なにっ、なにし……わたしになにしたの、やっ、うごか……ぅ、ふっ、あっ……アアッ――!!」

 痛い、痛い……痛くて、裂けた熱と痛みと魔術師が打ち付けてくる肉体が混ざって、荒々しく焼けた杭を打たれるような責苦が辛いのに、自分から左右ににじり寄って魔術師にすがりついてしまう。奥へより奥へと押し進められる度にあられもない声が出て、抑えようと口を閉じてもまた出てしまう。
 薬……薬に、魔術師に、こんな淫らに惑わされて……。

「なにを……? ただ愛しているだけです……マリーベル」
「あ、ぅ……そ、ィ……、ル……」

 気がつけば魔術師の言葉に操られるように、彼の名を口走っていたけれどたった二音のそれすらまともに言葉として紡げない。彼の熱い手がもどかしげにけれどけして勢い任せにならないように抑えた動きで肩や背中、胸を肌の上を滑り、柔らかな唇が食んでは吸い上げる。
 そのたびに魔術師と繋がっている箇所がじゅくりと粘液が泡立つような音を立てて、襞を擦られる痛みの中に甘い毒のような痺れが広がる。
 苦しいのはわたしのなかだけでなく、気がつけばわたしをきつく抱き締めて魔術師が荒く息を乱していた。
 シャツの肌蹴かけた彼の背に回した腕にわずかに力を込め、汗に湿った柔らかな布地をぎゅっと掴む。

「ル……」

 なにもかも奪い尽くすようなキスをされて、腰を打ちつけられながら……名前を呼べと言って口にすることも出来ないようにしているのもあなたじゃない……と思う。
 魔術師の呻く声と熱いため息を聞き、何度も体の奥底から小刻みに震わされながらわたしはいつしか深い眠りに落ちた。
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