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第二部 公爵家と新生活

20.来訪者

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 王国ことエクサ王国は、東西に長く伸びる大陸のほぼ中央にある。
 六角形に近い形をしていて、西側に王国とほぼ同じ大きさのハイラック連合王国、東側に古くから多種多様な民族を従え統治してきたティベリス共和国が存在し、細長い大陸を東西中央と大雑把に三分割している。

 元々七つの小国に分かれていたエクサ王国だったけれど、ある時、三賢者と呼ばれる指導者が現れて七つの小国を束ね、そして賢者の中で一番長生きした一人が王となっていまの王家の始まりとなった。といっても王家もいまやいくつかの家に分かれていて継承時は色々と大変らしいけれど、いまの王は頑健であるし、王太子は甥の公爵様に決まっている。
 お二人とも諸侯や国民からも支持されているから当面は安心。

 西のハイラック連合王国は、エクサ王国の王や諸侯と血縁関係の貴族が多い国。
 両国間でなにかあったら複数の貴族を巻き込んでとっても面倒なことになるから、お互い干渉しないようにしましょうといった間柄で、仲が良いわけでも悪いわけでもない親戚みたいな国だった。
 争いごとが起きても武力行使ではなくとにかく交渉や利害調整など話し合いで解決を図る。
 それに地理的に見れば、王国は連合王国にとって厚い防壁みたいなもの。
 何故なら東のティベリス共和国は大昔から戦争を起こしては領土を広げてきた国で、彼等から見て王国が連合王国の手前にあるうちは連合王国に攻め込むことは出来ない。

 両国に挟まれている王国が連合王国へ侵攻して共和国に背を見せるなんてことも出来ないし、連合王国側もこれと大きな益をもたらさず、下手に突けば血族絡みの面子争いで内政が揺らぐことにもなりかねない厄介な親戚である王国相手にあえて争いを仕掛ける理由はない。
 だから王国にとって警戒すべきは共和国、何十年かおきに大小の争いが起きている。
 わたしが生まれる前、二十余年前に起きた戦争は比較的大きな争いだった。
 フォート家の屋敷は東部でも東の隅、共和国との国境である丘陵地に間近な森林地帯の中にある。
 その領地は国境から王都のある北に向かって東部の約六割を占める。
 
「つまり、共和国の侵攻から王国を守る位置付け……」

 ちなみに現在まで続いている七小国の王の血族は、王家を除けば三つしかなく、公爵位なのはフォート家だけ。
 それはフォート家が魔術の家系であることにも関係していた。
 
 大昔から高度な文明を築いてきた共和国。
 海を渡り別大陸との交易で栄華を誇る連合王国。
 そして魔術研究が盛んで他二国にはない技術を持つ王国。

 両隣の国と対等に付き合い、細長い大陸を三分割する国の一つでいられているのも、王国が魔術大国であるからで、かつてお伽噺に出てくる国の魔術を操る王様であったフォート家の魔術研究は、そんな王国の魔術研究の礎を築いている。

「ええと、整理すると……」

 元七小国の王の末裔で、現王国の公爵で、最強の魔術師で。

「おまけに共和国との国境を守る辺境伯、でもある……」
「左様でございます。ここ二十年程は平穏で、あまりに魔術師としての名声が高いため、それ以外は人から忘れられがちではございますが」

 フォート家の概要を教えてもらっていたフェリシアンさんの言葉に、くらくらと目眩を覚え、図書室の、天井まで届く書棚の本の壁を仰いでふらりと椅子からずり落ちかけ、フェリシアンさんが慌ててわたしの肩を支えた。
 
「マ、マリーベル様っ?!」
「だ、大丈夫……ちょっと遅れてやってきた衝撃で……」
「はあ」

 古い貴族や血縁が複雑な貴族が、複数の爵位を持つことはあるけれど。
 そりゃ、王の誕生祭の出席者リストで序列一番目にもなる。
 王の友人である伝説的魔術師の公爵といったことだけじゃなく、元七小国王の直系、国の境を含む領地を守る公爵家当主なら最重要人物扱いになって然るべき。
 
 それに彼から求婚を受けた際に感じた、お集まりの皆様の固唾を飲んで成り行きを見守るような注意関心とあの重く張り詰めた雰囲気。
 王妃様が困ったようなお顔で同情してくださったのも、単に魔術師が変わり者の友人だからといっただけではなかった。

 ――私は身分というなら大抵の貴族より上です。
 ――あなたの仰る身分の差を気にしていたら、私の相手は誰もいません。

 あれは、そういう事――!
 あああああああ……と頭を抱えて唸って机に突っ伏してしまう。
 そんな身分の人が、爵位ももたない田舎領主の娘である王女の侍女に求婚しただけでなく、正式な妻として迎え結婚しただなんて。有り得ない。

「本当に、無駄に格の高いフォート家なもので。しかし、王妃様の第一侍女であったマリーベル様ともあろう方がそのご様子、余程、上手く誤魔化していたのでしょうな」

 言われてみれば……仕事で忙しい時以外はあの人に毎日のように付きまとわれていて、他の貴族の方から話しかけられるようなこともなかったし、それにわざわざ自分の噂話を聞くのも嫌で、質問ぜめにもあいたくないからそういったお喋りに入ることも避けていた。

「色々おかしいなとは、思っていたのよ……」

 いくらお友達だからって王様自ら後見となったり、王妃様のご一族の養女にするよう取り計らってくれたりだなんて。
 それは何故かわたしを妻にと望む友人のため王様が尽力したといった、そんな暢気で美しい話ではなくて。

 魔術師は、あまりに独特すぎる。
 たった一人で敵国の軍勢を退けられるような魔術の使い手で、王家とも他の貴族の家ともほとんど関わりを持たずに高い地位にいる彼を、王様はその立場上、彼との主従関係の中に友人というだけではない、対外的にも認められるものを持てるのなら持ちたかったはず。
 それは他の王族を黙らせ、諸侯を従わせ、より国を強くまとめる力になる。
 そう。
 わたしとの身分差をなんとかしましょうって言った魔術師は、きっとそこにつけ込んだ提案を王様に持ちかけたに違いない。
 名目上の養女だろうがなんだろうが王家と関わりのある、彼が妻にと望む娘を、嫁がせることに意味がある。
 王様がその手助けをして、フォート家当主である彼に恩を売る。
 王妃様の一族の養女にするよう指定したのだって、きっと彼だ。
 聡明でお優しい王妃様ならそんな工作がされているようなこと、一族の方が外に漏らすことを防ぐはずだ。
 だってわたしは王妃様にお仕えする第一侍女。
 そんな工作が行われていることを聞いたら王妃様に確認するに違いないし、尋ねたわたしに王妃様が詳しい事情を説明すれば、それはそのまま国の為に彼に嫁げといった命令も同じになってしまう。

 ――おそらく魔術すら、きっと使うまでもないことですよ。

「魔王みたいな顔をしていたはずよ、たしかに魔術なんて使うまでもないわ……あの、大悪徳魔術師っ」
「悪徳……」

 自分の立場や交友関係をこんなことに利用するなんて。
 お母様の縁者である、モンフォール伯が一切干渉してこなかったのも不思議だったけれど頷ける。
 そりゃ、まともで思慮深い人ならこんな面倒に自ら巻き込まれにいくわけがない。
 あの伯爵家の三男、故郷でわたしが迷惑がるのを面白がって悪ふざけで求婚していた、王都の街中で偶然出会った幼馴染の坊っちゃまは考えなしだから魔術師に挑発されて決闘申し込む事件を起こしたけれど、結局、魔術師がうやむやにしてしまったみたいだし。
 きっとお父様はわたしの置かれた状況を法務大臣様から知らされて、本当にわたしを心配してあの時王都に駆けつけてくれたのだわと思うと涙ぐみそうになる。

「――フェリシアンさん」
「はい」
「もしかしなくてもわたし、いま、貴族社会ですごい立ち位置に――」
「フォート公爵夫人でございますから、それはもう」
「うぅ……」
「マリーベル様にはお気の毒ですが、離婚要件など見つかってもはたして成立しますかどうか。なにしろこうと決めたらあらゆる手段の限りを尽くしてそうなさる方ですから」

 ええ、そのようですね……と思わず遠い目になってしまった。
 これは離婚要件を成立させるには絶望的な状況だ。
 なにせ、わたしは国のため魔術師を押さえておくためのいわば人質……魔術師が反乱でも起こさない限り王妃様の一族が引き剥がしに介入するなど有り得ない。
 対外的にわたしは王妃様のご一族であるド・トゥール家の養女。
 たとえお父様が申し立ててくれたとしても、爵位無しの領主の申し立てなど一蹴されてしまうに違いない。

「旦那様のことですから、各方面への根回しも理由も辻褄合わせも完璧かと思いますよ。なにせ
「フェ……フェリシアンさん……」
「強引に押し切られてだとしても、私共のあるじと人生を共になどと、一時でも考えたそれだけで尊敬に値します。ええ、本当に」
「フェリシアンさぁんっ!」

 ――ルイはこうと決めたらどんな手段を使ってでも、自分の思う通りにする人よ。

 ああ、王妃様。
 尋ねなかったわたしが迂闊であったとはいえ、そこのところもっと詳しく教えていただきたかったです。
 そういえば、娘が人質同然だというのにお父様は魔術師に好意的だ。
 あの大悪徳魔術師はどんな話術で、娘を心配して王都にまで来た父親に、特に嫌う理由もないなら結婚しろと言わせるような考えにさせたのだろう。

「それにしても、マリーベル様」

 フェリシアンさんが彼の左頬にある鱗のような痣を軽く撫でて、机に突っ伏したまま涙ぐんでいるわたしの様子を眺めながら不思議そうに呟いたのに、なんでしょうと返事をすれば貴女様も少々変わっておいでですねと彼は言った。

「それは彼と結婚したから?」
「いえ、強引に結婚を進められたのに腹を立て白紙撤回なさろうとしているマリーベル様のお気持ちはオドレイを通じて知っておりますし、旦那様の性格も存じ上げているためむしろマリーベル様に同情しておりますが、しっかり奥様としての務めを果たそうとなさっているのがなんとも不可解でして」
「だって結婚してしまったし、妻だもの」
「それがどうにもよくわかりません」
「いくら別れるつもりであるからといって、課せられている務めを疎かにして迷惑をかけるわけにはいきません」
「はあ……左様ですか。それはまた」

 くすりと笑ったフェリシアンさんに、なにかおかしなことを言ったかしらと首を傾げれば何故かフェリシアンさんはまるでわたしに敬意を示すように腕を胸元におじぎをした。

「え、なに?!」
「私共は皆、マリーベル様の味方です。勿論、旦那様にお仕えしておりますがたまには少々痛い目を見るくらいで丁度いいのですよ、あの方は」
「それは、どうも」

 それっていいのかしらと思うけれど。
 やっぱり、なんだか魔術師って人望がない?

「それはそうと、フォート家って王国の魔術の歴史そのものに関わってる家だったのね」
「魔術の家系でございますから」
「参考までに……ルイって、魔術の世界ではどういった人なの?」
「一言で表わすならば、怪物。空想上の珍獣、それこそ魔王といって過言ではありません」

 全然、一言じゃない――。


*****


「あ、奥様っ! 今日のお勉強は終わられたのですか?」

 庭園に降りてすぐ、バラ園に侍女のリュシーがこちらですっと、声を張り上げてお辞儀をし、そのすぐ隣にいた庭師のエンゾさんも会釈した。

「エンゾ! 奥様に失礼っ」
「いいのよ、庭仕事の途中だったんだから」

 リュシーの注意に、エンゾさんの焦茶色の頭にあるふわふわの冬毛に覆われた三角の耳が少し折れ曲がる。
 彼は獣人。ほとんど人間の姿と変わらないけれど、獣の耳と尻尾を持つ、屈強な体格でちょっと犬っぽい顔つきをした、たぶんフォート家の使用人の中では一番の常識人。
 フォート家に雇われたのは、幼い頃から引き取られているリュシーより少しだけ後だそうで、リュシーより十年上の二十五歳、リュシーより後に入ったのは彼だけではないのに彼女は彼にだけ先輩風を吹かす。
 小さな頃、自分の遊び相手にもなってくれていたエンゾが大好きなのだ。
 二人が一緒にいる様子を見るのは、なんだかとても微笑ましくて、和む。

「その生温かい眼差し止めてくださいませんかね、奥様」
「リュシーが可愛くて、つい」
「は? このちっこい小姑みたいなののどこがです?!」
「ゔゔ~~エンゾぉッ!!」

 ちょっと自分が大きいからって人を馬鹿にしてっ、とリュシーがまくしたてるにはいはい先輩と揶揄からかうように応じているエンゾさんのリュシーを見下ろす眼差しは優しい。
 たぶん、エンゾさんはリュシーのことを大切に思っている。
 彼女を妹みたいに思っているのか、もう少し違うものなのかはわからないけれど。
 
「まーあっちの世界でも有名らしいですから、うちの旦那様は」
「あっち?」
「人外の。俺は見てくれ以外は殆ど人間ですが、この耳にちらっとそんな噂声が一度だけ聞こえたことがありますよ」
「そんなの初耳!」
「言ったことないからな。屋敷に来たばかりの頃で、オドレイさんとかフェリシアンさんとか、こいつにもびっくりしていた頃で空耳かもしれませんし」
「リュシーはただの人間ですっ!」
「ああ、精霊の国育ちのな。俺よりあっちの世界に縁がありそうなんだがなあ」
「生まれたばかりの頃だから覚えていないし、それにそんな声聞いたことないです」

 首を傾げたリュシーの鉄錆色ルイユの髪色がきらきらと遊色に移ろぐ。
 ほんの短期間、精霊の国で精霊に養育された名残に、エンゾさんが目をわずかに細める。
 たぶん空耳ではないだろうなあと思いながらバラの苗を土に埋める。

「奥様が庭仕事なさらなくても」
「好きなの」
「リュシーより、ずっと手際がいいです」
「農地を治める領主の娘だったもの。王宮では王妃様の鉢植えのお世話もしていたし」

 冬はバラの植え付けの季節だ。
 そして病気や害虫の勢いが衰える季節、植えてあるバラの木の根元の土にもしっかり病虫害対策しておく時期でもある。そうしておくことで、春の病虫害の勢いを削ぐことにもつながる。
 それに剪定や蔓バラアーチの誘引もこの頃にしておく仕事。

「バラの手入れ始めの時期だし、リュシーも手伝っているとはいえエンゾさん一人では大変でしょう」
「近くの村から通いの手伝いもいるんですが、ちょっと前に家畜が暴れて小屋の修理やらなんやら大変らしくて。申し訳ありません」
「知ってる。精霊の悪戯で、ルイが収めたって」

 冬枯れの庭でも、屋敷の庭園が素晴らしいことは見ればわかる。中庭を通り抜けた先にある薬草園も兼ねた温室オランジェリーは冬場も花が絶えない。
 彼はいい庭師だ。春の庭園を見るのが少し楽しみだった。

「本当、ここのところ精霊絡みのいざこざが続き過ぎですよね。こんなことはじめてで……おかげで奥様もお一人が続いているし。まったくお二人は新婚なのにっ」

 憤慨しているリュシーの言葉に、バラ苗の根に傷みがないか確認しながら、あれと思う。

「はじめて? リュシー、それ本当に?」
「え? あ、はい。昔はどうかしりませんけどリュシーがここにいる間でこんなことは一度もありません」
「一度も」

 おかしい。
 お祭りみたいなものって、魔術師は言っていたはず。
   毎年のことではないの?
 それとも何十年に一度とかいった事なのかしら?
 リュシーは小さな頃から、少なくとも十年以上はフォート家で暮らしている。
 
「あの、奥様?」

 バラ苗を植える手を止めて、考え込んだわたしの様子にリュシーが気遣わしげに呟いたのに、なんでもないの、こんなことがずっと続いたら困るなって思っていたからちょっと安心したと答えれば、本当になんなんでしょうねとリュシーは頷いた。

「……リュシー、温室の水遣りに行ってくれ」
「え、でもまだ終わって」
「この一画はあらかた終わった。奥様もそれを植えたらリュシーと温室を見ていただけませんか。こいつ一人じゃ水加減が心配で」
「んん、それくらい出来ますっ」
「馬鹿、このままずっとこっちを手伝ってもらっていたら奥様が体を冷やすだろう。ほら温室の鍵」

 なんとなくエンゾさんの物言いたげな気配を感じて、リュシーに先に行っててと指示をすれば、でも行くならご一緒にと渋ったリュシーに手元の苗を見てこれだけ済ませてすぐに行くからと促す。
 彼女は、はいと手の土を払って立ち上がると、エンゾさんから鍵を受け取って中庭へと向かっていく。温室の薬草には毒草もあるから、温室の中には鍵のかかる部屋もあった。
 庭を区切る綺麗に刈り込まれた冬でも緑を保つ低木の壁の向こうへと、小柄な姿が消えてからわたしは花壇のそばでかがみこんだまま、しゃがんでもずっと高い位置に頭がある大柄な彼を仰ぎ見た。

「エンゾさん?」
「俺の気のせいだと思いますが、ここ一ヶ月ほど妙に屋敷の外がざわついてるような気がする時がありまして」
「ざわついた?」
「本当に気のせいみたいなもんなんですけど……あの旦那様が万が一にも屋敷になにか起きるような気の抜けたことを許すわけがないだろうし」
「まあたしかに」

 彼も自分にとってはこの屋敷が一番安全だと言っていたから、たぶんそうなのだろう。
 魔術師は嘘はつかない。
 精霊や人外のものとと契約の上で成り立っている彼の魔術において言葉はとても重要なものらしいから。
 けれど。

「リュシーは心配性だから、こんな事を耳にしたら気を張るだろうと黙ってましたが。さっき、あいつの言ったことに引っ掛かりを覚えていたでしょう?」
「少し。けれど彼があなた達になにも指示していないのなら、きっと大丈夫よ」
「ですよね、妙なことを言い出して申し訳ありません」

 ううん、と首を横に振ってエンゾさんにお礼を言い、手の土を払って立ち上がって蔓だけが伸びているバラのアーチが小さなトンネルとなっている中庭の入口へと歩く。
 ここ一ヶ月って、わたしがフォート家に来た頃からだ。
 有り得ない求婚に、強引に押し進められた結婚。
 たしかに魔術師は嘘は吐かない。
 けれど。
 隠しごとは大いにする――!
 
「春はきっととても綺麗ね、これ」

 アーチを見上げながら呟き、そういえばフォート家に着いた時に見た紋章も蔓バラをあしらっていたものだったなと思い出す。
 そういえばバラ園だけでなく庭のそこかしこにバラの木が多い、フェリシアンさんは特になにも言ってなかったけれどフォート家にとってなにか意味を持つものなのかしら。

「ちょっと変わった紋章だった……」

 盾の色は緑、その中央の上下垂直に銀の帯を通し、真ん中に絡む蔓バラの輪、それを切り裂くように切っ先を上向きに斜めに交差させた剣の図柄を置いている。
 魔術の家系なのにどうして剣なんだろ……昔は王様だったから?
 でも王様なら鷲とか獅子とか百合とかそういった、王国に吸収された際に変えたのかしら、いやでもそれにしては……などと考えながら、水汲み場で手を洗って、温室に入ればほっとするような温かさで思わずため息が漏れた。
 奥様、と声がしてリュシーの鮮やかな色の頭が植物の葉隙間に見えて近づき、温室の植物の様子を一緒に見て回り、土の乾きを確かめてはリュシーに水遣りを指示し、気になったものは手当を施す。
 
「奥様、まるでエンゾみたい」
「彼には敵わないわ。庭園の春が楽しみ」
「春のお庭はすごく綺麗ですよ。エンゾは花作りの天才ですから」
「それはリュシーがお部屋に飾ってくれているのを見ればわかるわ」
「ついでですから、お部屋の花も少しもらっていきましょう」

 白いマーガレットが満開になっている、硝子ガラスの壁際に作られている日当たりの良い花壇のそばで思いついたようにリュシーがそう言って、選び取った花の茎を切っていく。
 床に置いて花びらが落ちてもだからリューシーに声をかけて花を受け取っていたら、ふっとガラス越しになにか動いた気がしてリュシーに向かって前かがみになっていた姿勢を起こし、枯れ色の目立つ外へと目を向ける。
 誰もいない、中庭の風景。
 気のせいかと瞬きした時、目の端にひらりとまるでバラの花弁のように鮮やかに濃い紅色が一瞬ちらついて、やっぱり気のせいじゃないと蔓だけのアーチがある中庭の入口へ首を回す。
 小さなトンネルを出た向こう側に、さっき視界の端に映った色のドレスのスカートが見えた。
 遠目にも使用人が着る服の色でも布地でもないとわかる。
 誰? お客様?
 でもそんな予定は聞いていない、屋敷の主人である魔術師は不在だ。
 
「リュシー、どなたかいらしたみたい」
「え?」
「中庭の前の、蔓バラのトンネルの向こうに人が」
「ええ、そんなはず……って、誰もいませんよ?」
「え?」

 わたしに言われて慌てて立ち上がってトンネルを見て首を傾げたリュシーに、振り返ってみればたしかに誰の姿もない。
 
「旦那様がいない時に来客なんて……お庭までいらっしゃるなら、その前にフェリシアンさんかシモンさんが奥様を呼びにこないなんて有り得ません。たとえお客様でもそんな勝手なこと」
「たしかに、そうね」

 でも、たしかにさっきドレスを着た女性が……女性。
 花を片腕に、右手を口元に考える。
 そういえば魔術師って、結婚前はなにやら複数の女性とお付き合いしていたような口ぶりだったような。
 ここに入れたのは妻であるわたしだけとか調子のいいこと言っていたけれど。

「怪しいものだわ……」

 あの魔術師の言葉だ。
 ここにはの“ここ”が寝室を指していても、屋敷全体は指してないなんてこと大いに考えられる。
 大体この屋敷は庭も建物も広すぎるし、部屋なら有り余っているし。
 それにわたしとの結婚話なら婚約時から王宮に知れ渡っていて、正式に婚姻の儀を執り行ったことだって一ヶ月も経っているのだもの、とっくに地方にだって広まっているはず。
 だってあの人、笑ってしまうくらい貴族社会で偉い人だし。
 妻や愛妾は持たなかったって言ってたからそれはないとしても、四十真近の男の人だ、恋人なり愛人なりはいたはず。

 ――私も……これまでなかったので……。
 ――初めての女性に挿れるのは。

「……」
「奥様、なんだか難しいお顔をなさってますけどどうかしました?」
「なんでもない。よく考えたら最高に不愉快なことをふと思い出してしまっただけ」
「はあ……」

 いえ、いいのよ別に。
 わたしと会う前にそりゃ恋人や愛人の一人や二人や三人四人五人……きっともっといたでしょうとも、あの顔で、地位も名誉も財も持ってる、新妻に強力な媚薬盛るようなあの大悪徳好色魔術師だもの。
 ああいった時に、ああいったこと言うもの?!
 そもそもなんだか開き直った感じだったし。
 これあれじゃないの、結婚前にお付き合いしていた精算しきれていない方が想い募ってやってきてしまいましたといったやつではないの? 
 だってあんな薔薇色のドレス、どう考えても貴族の女性。
 それもそれなりに目鼻立ちの整った方でしょう、でないと着こなせない。
 
「別にいいけど……筋は通してもらわないと困るわ」

 魔術師の立場を把握したならなおさら。
 気持ちの上はともかくとして、わたしは魔術師の正式な妻。
 どういったご関係かはしらないけれど、もしも恋人や愛人でいまも続いているというのなら、少なくともわたしに話を通してからよ、妻が夫の女性関係も把握できない間抜けで、後継ぎ問題なんて起きたら目も当てられない醜聞になる。

「あの、なにが困るんですか?」
「やっぱり気になるから、少し見てくるわ」

 切った花を渡しながら尋ねてきたリュシーに、この子に話すのはまだ少し早いわよねと騒ぎ立てたくもないしと、にっこり花を受け取って、温室を出る。
 温室の扉を閉めれば、えっでも奥様っ、とわたしを呼び止める彼女の声が遠ざかる。
 だから聞こえていなかった。

「この“お屋敷”は、お約束のない来客ははずなんですけど……」
 
 魔術師がそう聞かせていたに違いない、彼女リュシーの言葉を――。
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