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相手を知るには観察から(2)

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 それは塔子と上津原の初顔合わせから、約二ヶ月程日をさかのぼった、一月某日――。
 塔子はテレビ局で、出演者控室の鏡の前にいた。
「松苗さぁんっっ、本当に出演するの?」
「スタジオまで来てまだ言うか。あんたの本が原作の映画でしょうっ」
 長年の付き合いである女性編集者に情けなさ全開の声で塔子が訴えれば、いまや一時的にマネージャー兼プロデューサーと化している彼女はそう言って、塔子の頬に化粧下地を薄く塗込んでいく。
「相変わらずお肌つるつるねー。不摂生極まりない生活しているくせに」
「やっ……松苗さん、いたっ、いたいぃ……つままないでくださいっ」
「ごめんごめん、つい」
「……うぅ」
 つままれた頬を手で押さえつつ、塔子は彼女の側でメイク道具を物色している、「松苗さん」と呼んだ担当編集者を鏡越しに軽く恨めし気な表情で睨む。

 世間では、年明け早々に封切られた恋愛映画が話題作となっていた。
 その原作は、塔子が少女小説から一般文芸に移って間もない頃に書いた作品で、いま読み返せば色々と未熟で粗削りな部分が目に付く。
 こうして評価されているのは、制作陣や俳優の実力高さと、宣伝部のプロモーションの賜物と塔子は思っている。
 それに仕掛けたのは、松苗さんだし……。
 テレビで、街頭の巨大モニタで、書店で、商業施設のディスプレイで、一日に一度は必ずどこかで予告編を見かけると、仕掛けた当人が食傷気味に言っていたほどだったから余程なはずだ。
 松苗たか子。
 出版大手カドワカの書籍部に在籍する編集者。
 その敏腕さゆえに、業界関係者から敬意を込めて“松苗女史”と呼ばれている彼女に対する信頼は塔子にとってほとんど絶対的だった。
 駆け出しの頃からずっと、姉のように塔子のことを見守ってくれている松苗女史が持ってきた話でなければ、映画化なんて塔子には目が回りそうに恐れ多い話でとても頷けたものではない。
 莫大な費用と人員をかけて作られる映画の反響がふるわず、もしも失敗に終わったら……その損失とダメージを考えたら原作なんてとんでもない。
 たとえ一時的に話題となったとしても、この業界は甘くはないのだ。
 一定の固定ファンを獲得し、細々とでも長く続く職業作家でありたいと願っている塔子にとっては、不特定多数の人々の評価に晒されるのは恐怖であるし、一時的に入ってくる原作使用料も翌年の税金が恐ろしいだけのものでしかない。
 それに頷いたといっても、松苗女史が持ってきた話はその時点では雑談の中の冗談半分な話でしかなかった。
 しかしながら、冗談半分な話が実現してしまうのが、松苗女史が松苗女史と呼ばれる所以ゆえんでもある。
 本人曰く「引きが強い」だけらしいが、塔子が耳にしているだけでも松苗女史の逸話は数え切れないほどある。
 今回の映画化も、松苗女史が参加していた飲み会で、塔子の作品が好きだという人がいて作品の話で盛り上がったのがそもそものきっかけだった。
 松苗女史の「引きの強さ」は、塔子の作品を取り上げたのが新進気鋭の映画監督で、その場にバイプレーヤーとして人気の中年俳優がいたことであり、またその二人が各々プライベートの出来事としてSNSに作品名を含めて投稿し、そこへまた別の女優がリプライして、断片的な情報を見逃さないマニアの間で新作の企画かと憶測が流れた。
 それでも普通はそこで話は途切れるものだ、けれど人が人を呼ぶ形で話は繋がった。
「普段全然接点のない偉い人から上司共々呼び出しがあって、なにかやらかしたかしらと出頭したら、あんたの作品の企画書が上がっててびっくりよ」と、けらけらと笑った松苗女史に塔子が絶句したのはもうニ年近く前の話だ。
 そして、某ファッション情報サイトのカルチャーニュースが報じたたった三行の映画情報。

 "天涯孤独な少女と変わり者三兄弟の交流を描いた、甘糟塔子『苔の恋愛』映画化決定。監督に新進気鋭のY氏、脚本にK氏を迎えるカドワカの意欲作。来年公開予定"

 それこそ映画にでもなりそうな話で、本来、コンテンツ事業とは部門違いな松苗女史も、発端が彼女なだけにプロジェクトに参画することになった。
 元々、社内営業に強く、企画力と交渉力があり、社外でも顔の広い松苗女史だったからプロジェクトのメンバーとして一目置かれるようになったそうで。
 その後、行われた映画の制作発表は噂通りの内容となった。
 ヒロインはアイドルのような華やかさには欠けるものの監督が自ら発掘した新人女優を起用し、脇を実力派俳優が固める。コアなファンがついている劇伴音楽家も参加しており、「カドワカの本気」などとSNSで映画の話題が再び賑わい、原作本がじわじわと売れて重版がかかった。
 にんまりと笑みを浮かべ前評判を伝えにきた松苗女史に、大変なことになったと塔子は震え上がった。
 本気でプロジェクトとして取りかかれば、日に一度予告編を見かけるような状況に至るまでそう長い時間はかからず、松苗女史の予測通り、いや、それを遥かに大きく上回る形で映画はヒットした。
 数年前に出版されてから低目安定の売行きをキープしていた原作本は、重版につぐ重版で累計部数百万部の大大台に乗ろうとしている。
 漫画と違って文芸書は発行部数自体が少ない。
 どんなに売れても八十万部が限界と言われ、三十万部も売れれば人気作家としての地位がひとまず得られる。 
 十代の終わりから二十代前半まで、少女小説から一般文芸へとキャリアを積み上げる間。
 そこそこ本が売れ、作家としてまあまあ生活が成り立つまで、塔子をなにかと気遣ってくれた松苗女史にミリオンセラーといった形で恩返しが出来るのは塔子としてもうれしかったけれど。
 まさか、原作者本人の露出までが望まれることになろうとは。

「じっとしてなさい」
「お化粧くらい自分でする、か…ら……」
「地味にまとめるから、だーめ! せっかくだから華やかにしないと。素材はいいんだから」
 そんなことはない。鏡に映る自分の姿をまじまじと見詰め塔子はひとりごちる。
 いくら塔子が松苗女史を信頼していようとも、その一点だけは例外だ。
 目鼻立ちに大きなばらつきはないが、全体的に薄い印象で華やかさとは縁のない顔。
 松苗女史がさっと塗ったアイシャドウのピンクベージュのグラデーションが醸し出すひどく不釣り合いな華やぎと、やはり松苗女史が選んだ普段は着ない軽やかな色と生地のワンピースに気が重くなる。
 履いている靴のヒールもいつもより細く高い。
「あーもーっ! すぐどんよりするの止めなさい。どんな暗い学生時代を過ごしてきたのかしらないけれど、過去は過去で今は今! あんた目鼻立ちの整った、華奢で色白な十分美人の部類に入る女なのっ」
 鏡に映った塔子のすぐ後ろで声を荒げる松苗女史の、そのさらに後ろで小さなテレビモニタが出演予定の生番組を放映している。
 松苗女史と会話していて音声を聞き流していたのでよくわからないが、ペットの話題なのかかわいらしい犬や猫がちらちらと映るのが塔子の興味を引いた。
 いまは動物病院らしい物々しい診察室が映っている。
 お昼の総合情報番組。全国ネットのスタジオ生中継。
「松苗さん……」
「ん?」
「やっぱり全国放送のテレビなんて無理ぃぃぃぃっ!」
「化粧台に突っ伏して泣くなあぁっっ!」
「だってぇぇっ、地味で貧相な引きこもりの作家が出演なんて一体誰得なんですかぁ……」
 苦心して施した化粧が崩れると嘆く松苗女史の声を聞き流しながら、突っ伏した顔をわずかにもち上げて塔子は鏡を見る。
 松苗女史が言っているような美人にはとても思えない。
 もしも仮に、本当にそうであるのなら、これまでの人生の中でそれ相応の扱いを何度かは受けたはずだ。
 そんな記憶はない、一切ない。
「テレビであんた見て興味を持つ男が出てくるかもしれないじゃない」
「そういうの……あまり……」
「始終家の中にこもってて、一体どうやって人と出会うの」
「だから恋愛とか、別に……」
 人前に出ず、家の中でできる仕事で悠々自適に暮らせればそれで十分。
 わざわざ思い上がった勘違い女などに塔子はなりたくない。
「恋愛小説のベストセラー作家先生の言葉と思えないのですけど? 恋愛経験ほぼゼロでここまで登ってこれたのよ? もったいないっ。色んな意味でもったいないっ」
「時間……大丈夫なんですか……?」
 出演したくないけれど、松苗女史とこの押し問答を続けるのも嫌だと塔子は背後のテレビを振り返る。
 一目で別撮りだとわかる簡素なスタジオセットの背景に、若い女性アナウンサーとゲストらしい男性が白いテーブルセットに向かい合って座っている。
「あれ?」
 ダークグレーのスーツにやや派手なストライプ柄のシャツを合わせた男性の顔に見覚えがある気がして、誰だろうと塔子は目を細める。

『動物にも高度医療を行う病院があるなんて初めて知りました。すごいですね~』
『ありますよ。MRI、CT、超音波診断装置、内視鏡など画像診断装置や放射線治療装置など、設備も人と大差ない』
『へえ、そうなんですか。すごいですねえ』
『人間同様、動物にも難病がありそれを研究する研究者もいます。大学付属の動物病院はそのような難病の症例に対する研究成果を臨床現場にいかす場でもありますね』

 同じ言葉をしきりに繰り返すだけの女性アナウンサーに気を害する風もなく、穏やかな態度で淡々と説明する男性にやはり見覚えがあると塔子は首を傾げてテレビを見詰める。
「あの人、誰だっけ?」
「ん? ああ、どっかの大学教授かなんかじゃなかった? 最近、教養番組なんかでよく見る」
 テレビに出ているのなら見覚えがあってもおかしくない。しかし、テレビではないような引っかかりを塔子は覚える。そう、彼が何者か文字で読んだ気がする。
「えーと、名前……喉元まで出かかってるんだけど」
「うちから本出してなかったかな。たしか早坂が手掛けてそこそこ売れてるやつ」
「早坂さんて、松苗さんの後輩の?」
「そ、新人研修の一環で書籍部にきたからしごいてやった舎弟。いまは雑誌の編集部にいるけど」
 松苗女史の言葉に、そうだ雑誌だと塔子は思い出した。
 ペット雑誌の相談コーナーで回答者として顔写真付きで載っているのを見た。
「舎弟って……」
「使える子だから書籍部こっちに引っぱりたいんだけどね、重宝されているみたいで。そうだ。『動物とヒトの距離感』だ、思い出した」
「その本。オンライン書店のランキングに最近ずっと上がってます」
「渋いイケメン獣医って人気あるらしいけど? なあに、塔子ってばもしかしてああいったのが好みだったりするわけ?」
 うふふ、などと口元に手を当てて揶揄からかってくる松苗女子に、違いますっと塔子は首を横に振った。
「犬か猫飼いたいなと思って、最近読んでいた雑誌で見覚えあっただけで」
「ますます自己完結して引きこもる理由作ってどうするのよ。あんたそういうのは自分の世話が見られるようになってから言いなさい」
「わかってます……」
 仕事に集中すると、寝食含めて他の事には一切気が回らなくなる。生き物の世話など到底難しいこともなにより動物に好かれたことがないことも自覚している塔子にとっては、半ば憧れに近い望みなのは重々承知している。
 しかし三十路を迎え、このまま一人で生きていく気配濃厚と思えば、なんとなくそんなことも考えてしまいその手の雑誌をオンライン書店で購入してしまうこの頃だった。
「著者名なんだったかなぁ。書名は覚えててもあまり関係ない人の名前ってすぐ忘れちゃうのよ……たしか、上高地だったかなんだったか。一時期、早坂によく愚痴られてたんだけど」
 もどかしそうにぶつぶつと呟く松苗女史の声に、能天気な朗らかさで女性アナウンサーの声が被さる。

『本日のゲストは先月発売されたエッセイ『動物とヒトの距離感』が話題のイケメン獣医こと朝布大学獣医学部・准教授……』
「そうだ! かみつはら!」
上津原聡かみつはらさとし先生でした』
「上津原聡!」

 松苗女史とテレビ音声がぴったり重なった形で男性の名前を塔子が聞いた直後、控え室のドアをコンコンと誰かがノックした。
 松苗女史が応じれば、二十代前半のADらしき青年が「そろそろスタジオ入りをお願いします」と指示を伝えたのに、塔子は化粧が崩れていないか松苗女史のために鏡でチェックして、観念したようによろよろと立ち上がった。
「いってきます……」
「いってらっしゃい~。ここで見てるし、頑張って!」
 覇気のない挨拶をし、屠殺場とさつじょうに引っ張られていく子牛のような哀れを誘う様子で塔子が控室を出るのをにこやかな笑顔で松苗女史は見送り、控室のドアが閉じてすぐ彼女はテレビに映っている男へ視線を移す。
 自著の紹介を終え、人好きのする笑みで女性アナウンサーに軽く会釈している上津原の姿。
 松苗女史の目には、胡散臭い男にしか見えない。
「雑誌連載、出版にテレビ……人気のイケメン獣医、ねぇ」
 後輩から繰り返し聞かされるもほとんど聞き流していた愚痴の内容を思い出し、松苗女史は人の悪い笑みを口元に浮かべる。
「面白い」
 昼の番組としては珍しい、上津原が勤務する都内の私立大学のCMが流れだしたのを眺めながら呟いた松苗女史のその言葉が、スタジオに向かって廊下を歩く塔子の耳に届くことはもちろんなかった。
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