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相手を知るには観察から(1)

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「あんた処女だろ。あれか、喪女ってやつ?」

 喪女って、もう死語では――などといったことはかなり後になって思い至ったほど、引き合わされた男は無礼といった点で衝撃的だった。
 男は、長椅子のソファ中央に腰掛け、左右に肘を張って背もたれの縁に預けて仰け反り、投げ出し気味の脚を組み黒いゴムスリッパを引っ掛けた足の先をぶらぶらとさせている。
 端的に言って、態度が悪い。
 初対面の人間に対する大人の態度として有り得ないほど。 
 軽く天井を見上げるように顔を上げているためその表情はよくわからないが、あまりこちらに好感は持っていないだろうことは、挨拶もそこそこでのこの言動に如実に現れている。
「映画になって、原作小説売れてるって?」
 無精髭にざらついた質感の尖った顎先が動いて、煙草を咥えている口元にまとわりつくように煙が細くたなびいている。咥え煙草の言葉はやや不明瞭にくぐもっていた。
 男の声は、低く通る声質ではあるものの、少しがさついた感じにれている。
 それでいてどこか甘い響きも含んでいて、彼の周りに漂っている煙草の、きつく微かに甘い香りを含む煙みたいだと甘糟塔子あまかすとうこは思った。
 同質の声と煙が男の口から発せられている。 
「おい、なに黙ってんだよ」
 なにか返事をしたほうがいいだろうかと塔子が考えていたら、相手の男が先に痺れを切らした。
 煙草の先端越しに塔子を眺め下ろすように見ている、男の眼差しは億劫そうでいて鋭い。
 やはりなにか返事をしたほうがよかったようだ。
 モスグリーンの布地の表面が若干荒れた長椅子が二本、長方形のガラステーブルを挟んでいる。
 塔子と男は向かい合うようにそれぞれのソファへ腰かけていた。
「対談になんねぇだろうが、作家センセ」
「……は、い」
 絞り出すように発した塔子の声は、相手の耳に届いたかどうか怪しいくらいにか細く掠れていた。


 人と会話をするのが塔子は苦手だった。
 相手に対し、適切なタイミング、適切な言葉をどう掛けて返したらいいのかがわからない。
 長年の付き合いになる担当編集者の女性は、「言葉を操る作家先生がなに言ってるの」と呆れるけれど、同じ言葉を操るでも、自分の頭の中で考えた言葉をマイペースに書き綴るのと、相手に合わせて話すのではまったく違う。
 塔子としてはむしろ人とあまり関わることなく済むような仕事と思って作家という職業を選んだのだ。
 実際のところ、それで生計を立てていくならフィクションのように人を寄せ付けない変人作家みたいなことはそうできない仕事ではあるけれど、企業に就職するよりは直接人と関わることははるかに少なくて済む。
 頼まれれば急な穴埋めの原稿でもなんでも、それが文章を書く仕事であれば受けてきた塔子であったけれど、インタビューやなにかにコメントするような、作家本人に目が向けられるような仕事は可能な限り避けてきた。
 顔見知りの同業者でもない見ず知らずの他人相手の対談なんてもってのほか。
 ましてやこんな、粗暴で相手を威圧してくるような一回りも年上の男性なんて。
 一体どうしてこんな状況にと相手の言動から受けたショックもあって内心パニックになりかけていた塔子だったが、男の言葉にそうだ映画だと思い出す。
 ずいぶん前に書いた塔子の小説が映画化されて、話題作として世間でそこそこ評判になり、原作小説だけでなく作者である塔子も注目されることになった。
 おかげでここ何ヶ月かこれまで避けに避けてきた分を一気に取り返す勢いで、TVに雑誌にと塔子本人が露出するような仕事が続いている。
「えっと……」
 初対面でなくても女性に対して失礼極まりない男の問いかけから、かれこれ十分近くまともな会話がない時間が続いている。
 どうしよう。どうすれば……焦った塔子の膝の上で、不意にかさりと乾いた紙の音がした。
 一枚のA4コピー用紙。
 そこに印字されているのは、塔子がいま相対している男のプロフィール。

 ――朝布大学獣医学部 准教授 上津原聡かみつはらさとし

『内科学第三研究室主宰。小動物の血液腫瘍を専門とする研究者。研究だけでなく大学付属動物病院で外来診療も担当し臨床現場でも活躍。病院発行季刊誌に書いていたコラムをきっかけに、専門書だけでなく一般向けの動物エッセイや解説本へと執筆活動の幅を広げる。TVの情報・教養番組等にも多数出演。穏やかな雰囲気の渋いイケメン獣医として人気を得ている――』穏やかな雰囲気の渋いイケメン獣医……。穏やか……。

「おいっ!!」
 ドンッとゴムスリッパ履きのかかとがテーブルを叩く。
 その乱暴な音に弾かれたように塔子は背筋を伸ばし、手元の資料と上津原を見比べた。
 穏やかな雰囲気の渋いイケメン獣医!?
 この威圧感と態度の悪さに目つきの鋭さで!?
 ど、どこからどう見たって……ドラマや映画に出てくる怖い事務所にいる怖いお兄さんでは?!
 少なくとも穏やかはない、絶対に違う! 怖い――っ! 
 胸の内で塔子は叫んだが、心の中の声が相手に聞こえるはずもない。
 資料を押さえる手元が、男の鋭い眼差しと威圧感のある声に対する恐怖に震える。
 本当に大学教員なのだろうか、いや、その前に本人なのだろうか。
 資料には彼のプロフィールと一緒に、いかにも真面目で清潔感のある獣医といった、おそらくは出版した本の著者近影に使われているだろう写真も載っている。
 たしかに穏やかな雰囲気で渋さのある格好いい男性の写真であるし、資料の通りであるのなら、彼はこの大小の本棚に囲まれた十畳程の広さを持つ部屋の主で、社会的地位のある肩書きを持った男性なはずだけれどとてもそう見えない。
 羽織っているよれよれの薄汚れた白衣が、彼がプロフィール通りの人物であるらしいことを示してはいるけれど……資料の内容とも、以前テレビで塔子が見た彼の姿とも、あまりにもかけ離れた印象の人物に見える。
「ようやく人の顔をまともに見たか。ったく」 
 おどおどと萎縮しながら遠慮のない視線で上津原を眺めていた塔子に、彼は黙って煙草の煙を軽く吐き出すと、ソファの背もたれに預けていた頭と肘を持ち上げて姿勢を直し、ふんと鼻を鳴らした。
「か、上津原先生っ!」
「ああ?」
「あまりに資料と見た目とキャラが違うから、甘糟さんが戸惑ってるじゃないですか!」
「しょうがないだろ、こっちが地なんだから」
 テーブル脇。
 丁度、二人の様子を見守るような位置に丸椅子を置いて座っていた青年が、見かねてとりなしの声を上げた。
 二人を引き合わせた、出版大手の株式会社カドワカが発行している月刊文芸誌『野人時代』の編集者。
 彼は、早坂充はやさかみつると塔子に名乗った。
 とりなしの声を上げたものの、上津原に投げやりな返事と共に睨まれて早坂は黙り、今度は塔子に引き攣った笑顔を見せてフォローにならないフォローを入れ始める。
「えーと、すみません甘糟さん。この先生、獣医だけに実はこの通り結構ワイルドで、毒のあることや失礼なこと言いがちなんですけれど、根はいい人、そう! 根はいい人なので気にしないでくださいっ!」
「はあ」
「柄も態度もたしかに悪いかもですけど、ここまで酷いのは珍しいというかなんというか……」
「黙って聞いてりゃ好き勝手言ってくれるな、おい」
「だって本当のことじゃないですか、先生っ」
「そうだけどよ。カドワカっつーか早坂さんも無茶な企画つっこんだな」
「それは、まあ……は、ははは……」 
 見ていて、気の毒だ。
 若干蒼白になった顔に愛想笑いを浮かべ続けている若手編集者に、塔子は申し訳ない気持ちで膝の上の資料に重ねた彼から渡されたばかりの名刺を見る。

 『野人時代』は、ベテランから新進気鋭の若手作家まで幅広い作品を掲載している月刊文芸誌だ。
 近年は大型文芸賞を受賞するような作品も輩出し、また文芸作品だけでなく人気アイドルや俳優などのグラビアインタビューや様々なカルチャー特集のページも組むなど、文芸誌の中では柔軟な編集方針の雑誌だった。
 カドワカでは書き下ろし中心で仕事をしている塔子も、短編や中編作品なら単発で何度か掲載してもらったことがある。少女小説から一般文芸に移って間もない頃だった。
 塔子は、十年程前にカドワカの少女向け文庫レーベルから作家としてデビューしており、その時から現在まで公私を隔てず塔子の世話を焼いてくれている女性担当編集者が新人指導を担当した後輩が早坂だった。
 そして早坂は、上津原の担当編集者でもある。
 上津原は、この雑誌の後方に『動物とヒトの距離感』といったコラムを長期連載していて、これまでの掲載分をまとめ最近刊行された単行本がベストセラーになっていた。
 だから早坂が、塔子の目の前の男を「上津原先生」と呼ぶのならやはり本人なのだ。
 初回巻頭カラーで八頁も割くらしいこの対談連載企画――早坂は、塔子と上津原を引き合わせ、二人の担当編集者としてこの場にいる。
 上津原の言う通り、無茶な企画だ。
 コミュニケーション不全といっていい塔子と、この乱暴で傍若無人な上津原を組み合わせての対談企画なんて、自分が早坂の立場だったら途方に暮れてとても笑ってなんかいられない。
 長く伸びた髪が下りる隙間から、そろりと俯き加減に塔子は上津原を見る。 
 無精なのは髭だけでなく、伸びるままにして肩に届いている髪を襟足で無造作に束ね、くたびれた白衣の下は、黒いVネックのセーターにかなり色落ちしたジーンズというラフな服装だった。
 どうやらこれが上津原の普段の姿であるらしい。
 容貌も含め、全体的に若作りではあり、ぱっと見ただけなら大学院の学生やまだ若手の研究員に見えなくもない。
 寝不足なのか、目の下が暗くかげって皺っぽく落窪んでいるところと、腕捲うでまくりした袖口からのぞく細身の割に逞しそうな筋張った腕の手首に巻かれた高級そうなスチール製の腕時計が、年齢相応に思える部分ではある。
「なに見てんだよ」
 塔子の視線に気がつき、ぎろりと彼女を睨んでの上津原の低い声に、「いえ」と塔子は答え、俯き加減のままほとんど反射的に首を小さく左右に揺らした。
「大体、見た目もキャラも違うってしるかよ。そんなもん営業用に決まってるだろうが」
「営業用……?」
「獣医学部ってのは、全国でたった十数の大学にしかない。総定員数も千人未満なマイナー学部だ。あんた知ってるか? 犬猫クリニックだけじゃなく、家畜の管理も輸入動物の防疫も獣医師の仕事だし、創薬研究にだって獣医師は必要だ。でもってそういった畜産業や感染症対策や基礎研究に携わる獣医師の数は驚くほど少ない」
「はあ」
「広報宣伝。お茶の間にちゃらちゃら合わせて感じ良さげに愛想振りまくのも、興味持ってもらえるんならそれも仕事の内だ。あと、冗談じゃなく見解を述べたまでだ。早坂さんよぉ、これ、企画として成りたたねぇんじゃね?」
「上津原先生~っ!」
 首だけを傾け、壁際の早坂へ問いかけた上津原に、勘弁してくださいよと早坂が情けない声を上げる。
「だ、大丈夫です。いけますよ! いま話題の美人恋愛小説家の甘糟さんと動物恋愛エッセイで有名なイケメン獣医の上津原先生の恋愛対談全六回シリーズ。“お二人さえ”いい雰囲気で対談してくれればっ」
「だってよ」
 上津原に口元から外した煙草を挟む右手を突き出され、すみませんと塔子は俯いた。
「暗ぇ女。美人恋愛小説家ねぇ」
「あのっ、わかってます。私も、その……宣伝というか、そんなのは出版社の方が言ってくださってるだけだって……」
「別になにも言っちゃいねえよ。で、どうだなんだよ?」
「どうとは?」
「対談だろうが、恋愛の。ホストのあんたに、ゲストの俺は一応質問したんだけど?」
「は、早坂さんの進行じゃっ……ないんですかっ!?」
 上津原の鋭い眼差しから逃げるように、塔子はテーブルの中央に早坂が置いたICレコーダーへと視線を落し、救いを求めるように早坂を見た。
「え、えーと。上津原先生、どこか具合でも悪いんですか?」
「なんで?」
「なんだか今日はお疲れというか、機嫌悪いみたいなので」
 早坂が恐縮しているのはこの対談どころではない場の雰囲気や塔子に対してであるようで、傍若無人を通り越し粗暴にも思える上津原の言動には慣れているのか、威圧感を放つ彼に対して案外くだけた気安い調子で話している。
 早坂に気遣われ、上津原は口元へと運んだ煙草を再び離し「まあな」と手の甲を額に当てて息を吐いた。
 塔子の目の前に勢いよく白いもやがかかる。
 煙たい。
 おまけにニコチンもタールもよりライトな煙草へと向かい、喫煙者の肩身は狭くなる一方のこの時代に逆行したきつい重さを感じる。
「面倒見ている学生ガキが実験ミスって、フォローやらなんやらで徹夜明け。この歳で徹夜がどれほどクるかって」
 なるほど。
 徹夜明けなら怠いのも仕方がない。
 今年に入って三十になったばかりの塔子も、年々徹夜はきつくなりつつある。
 たしか上津原は塔子の一回り年上。ならば四十二歳。
 徹夜仕事で疲れているところ時間を取っているのに、まったく対談になっていないのだから苛立つのもわかる気がする。
 そう考えた塔子だったが、吐き出されたばかりの煙に混じるアルコール臭を感じ、またテーブル周辺に数本転がっているビールの空缶にも目が留まって、疲労といってもその疲労は仕事とは違うものではないだろうかと疑問を覚える。
 あらためて部屋全体を見回してみれば、空缶以外にも、学術専門誌からいかがわしいグラビア多数のものまで様々な雑誌や、食べ散らかした後の弁当容器、タオルやシャツなどの衣類までもが研究室のあちこちに散乱している。
 この人……。
 一通り部屋を見回した塔子の視線が、最後に上津原に行き着いてふと目が合った。
「なんだよ」
「あの……家に、帰っていらっしゃらないんですか?」
「家? ああ、言われてみたらここ三日ばかし。そろそろ帰らねぇとかもな」
「先生、独身ですからねぇ。家はここより酷かったりして」
「家は寝るだけだからきれいだよ」
 滑り出しかけた二人の会話に弾みをつけようとしたのか混ぜっ返した早坂に、ふんと上津原が鼻白む。
「あ、そうですか」
「そうだよ。そんなわけだから作家センセ、やるならさっさと終わらせようぜ」
「はあ」 
「さっきから、はあ、はあって覇気のない返事ばっか繰り返してんじゃねえよ」
「すっ、すみませんっ」
 本当に。
 雑誌やテレビで見た時とは全然別人なんですけど!?
 松苗さぁぁん……っ!
 いまこの場にはいない、デビュー当時からの付き合いである敏腕女性編集者に向けて、塔子は胸の内で助けを求めるように呼びかけた。
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