上 下
5 / 49

同じ頃、同じ時間(2)

しおりを挟む
「ちょっと! 早坂から話は聞いてるけど、それにしたってなんなのこの部屋は……っ」
 打ち合わせに訪れた部屋を見て開口一番そう声を上げて、松苗女史がまだ玄関ドアにぐったり寄りかかっている担当作家である塔子を振り返れば、彼女は虚ろな目をし、どんよりと灰色の空気をまとっているかの如き様子で「あぁ……はい……」と要領の得ない返答をする。
 よくあることではあるものの、松苗女史は額を押さえてため息を吐く。
 玄関の廊下を少し歩けばドア無しで広がるダークブラウンを基調に落ち着いた雰囲気にまとめられたモデルルーム地味たLDKは見る影もなく、散乱した衣類に空になったペットボトル、コーヒーや紅茶の色のついたマグカップ、バナナの皮や中身のなくなった缶詰や菓子の袋、雑誌やDVDや書籍、おびただしい紙と紙くず等のゴミ溜めと化していた。
 おまけに部屋の主の影響かなんとなく全体の雰囲気もどんよりと薄暗いような気がする。
「松苗さん……」
 ひたっ、とフローリング床に裸足の足音を立てて、腰のあたりまで伸びっぱなしの黒髪をだらりと垂らし俯いて背後から現れた塔子に、彼女のそんな様子に慣れているはずの松苗女史も一瞬ひっと驚いて息を飲む。
「私、もう、死にたい……」
 生気のない顔でふらふらと松苗女史に近づいてその側を通り過ぎ、ぐったりと衣類と大小のクッションが無造作に積まれているソファの座面に顔を伏せ、床に崩折れたのは生き霊でもゾンビでもなく松苗女史が担当する人気急上昇中の美人恋愛小説家のはずだった。
「初対面の……男の人に……あんな、あんな……」
「んな、大袈裟な」
「うわーん、松苗さぁぁあん、ごめんなさいぃぃ――っ」と、まるで幼児同然に天井を仰いで泣き出した塔子にはじまった……と松苗女史は肩をすくめる。
 初めて出会ったまだ十代の少女の頃から。甘糟塔子あまかすとうこという作家は異常なまでにネガティブな性格で、その豊かな想像力のおかげもあり時折被害妄想レベルで自分自身を追い詰める。
「この企画……きっともうダメです……カドワカの仕事ダメにしたなんて……もう、私、この仕事……」
「ストーップ! 全っ然大丈夫だから。企画会議でもこっちがフォロー入れるまでもなく絶賛継続中だからっ!」
「ほ、本当……に?」
「うん」と仁王立ちに深く松苗女史が頷けば、力が抜けたように塔子は再びソファーに突っ伏す。
「安心した?」
 本当に手間のかかる子と思いながら軽く上半身をかがめ、ソファに伏せている塔子の顔を覗き込むように松苗女史が尋ねれば、再びうわーんと塔子は声を上げる。
「でもやっぱり無理――!!」
「なんなのよっ、もー本当に、あんたはっ」
「だって……」
 やっぱり自分の話は読む人が読めば底が浅いとか、小説とイメージを重ねるような出方は世間様への詐欺じゃないのかとか、そもそも見た目からして無理があるしとか。
 ソファに顔を埋め号泣しながらぼそぼそと呟く塔子に、やれやれと松苗女史は嘆息する。
「それになんなんですかあの上津原さんって人。色々言い当てられたし」
「早坂曰く、切れ者食わせ者らしいから」
 気にするなと松苗女史が宥めても、「うっううっ……でも、だって……」と涙声でぐずぐずしている塔子がお尻を向けているテーブルの上に、ところどころ赤で書き入れのあるプリントアウトされた原稿を松苗女史は見つけて、自己羞恥プレイの真っ最中だったわけねと理解した。

 二人のやりとりを録音したICレコーダーのひどい会話なら、早坂から強引に取り上げて松苗女史も聞いていた。
 早坂は第一回目の対談を仕切直そうとしていたが、上津原のスケジュールが詰まりすぎていて断念せざるをえなかった。
 初回分なら二人のプロフィールと企画意図の説明で文字数を稼ぎ、各々別撮りした写真を使いレイアウトでスペースを埋めて、あとはICレコーダーに記録されたやりとりを膨らませるだけ膨らませて書き起こせばなんとかなる。
 困り果てていた早坂にそう指示して書き起こしさせた原稿だった。
「それだけ落ち込みながらも原稿の直しはするんだから、勤勉というか律儀というか」
  鼻水をすする音混じりに、「ひ……引き受けた、仕事ですから……」と答える塔子の言葉を聞きながら、松原女史はテーブルの原稿をつまみ上げてざっと目を通す。本人は酷い状態だが、原稿には冷静な直しが入ってる。
 書くこと、仕事においてはぐずぐずと繊細な本人とは別物にしっかりしてるのよねぇと呆れる松苗女史の心中など知らず、ずびずび音を立てて塔子はティッシュで鼻をかんでいる。
 ひとしきり悶々と思い巡らしていたことを松苗女史に訴えて少し気持ちが落ち着いたらしい。
「何度も言うけど、その超絶ネガティブで根暗なところさえ直したらあんた悪くないんだから。でもって他社のカルチャー誌のインタビュー記事見たけど一人でもちゃんと出来るじゃないの」
 若干、表情が引き攣っていたけれどといった感想は松苗女史の胸の内にしまっておく。なにも寝た子を叩き起こすようなことを言う必要はない。
「……仕事ですから」
 憔悴した声で再び塔子が繰り返す。これまでまったくすることがなかったメディア露出への対応でかなり参っているらしい。
「地方上映のスケジュールも終盤だから映画絡みの仕事はさすがにもうないわ。顔と名前が売れたから取材仕事がなくなることはないけれど、これまでなさ過ぎたくらいだし流石にここ最近みたいなことはないわよ。そういやうちの女性誌の編集部の子から連載エッセイのお伺いが内々にきたけど?」 
「……お願いします」
「他社で二つ連載抱えて、あたしとやってる書き下ろし他諸々あるでしょう? 大丈夫なの? もう、多少は仕事選んでいい身分に十分なってると思うけど?」
「そんなの……今だけです……保障なんてないんですから。一人で生きていくためにも……書くことくらいしか能はないしそれすら危ういし……」
「謙虚なんだか、堅実なんだか、ネガティブなんだかわからないわね」
 多くの作家や作家志望者を見て関わってもいるが、甘糟塔子ほどストイックな作家もいないと松苗女史は思う。
 出した本がどれほど順調な売れ行きを見せようが、書評で褒められようが、作品賞を受賞してもけして有頂天になどならない。
『そんなのいまだけ……いまだけです』
 そう言って絶対に安心などしない。
 たまたま順番が回ってきた、タイミングや運が良かっただけ、たとえ一時的に話題になって持ち上げられても落ちるのは一瞬、離れていく読者を引き留める術はないと本気で思い込んでいる。
「順番にしてもそもそもその順番が回ってくること自体、タイミングと運を引き当てること自体、すごいことなんだけどね……」
 塔子を見下ろしながらぼそりと口の中で呟いた松苗女史の言葉は、はっきり言い聞かせたところで彼女には届かない。
 一体、世の中どれほどの数の作家志望者がいて、掲載や書籍化で作品が活字となってもその後は鳴かず飛ばずで消えていく作家がどれほどいると思っているのだかこの娘はと呆れてしまう。
 最初の作品掲載は十九歳、今年三十を迎えたばかり。少女小説の頃から数えて丸十年のキャリア。
 代表作と言えるくらいにそこそこ売れている本もいくつか出している、書店の棚に彼女の名前の仕切りが挟まれるくらいの作家であるというのに。
「……松苗さん」
「ん?」
「読者の人に騙されたって訴えられたらどうしようぅぅぅ——っ!!」 
「んなわけないでしょうっ!!」
 すがりついてきた塔子を一喝し、あーもー面倒くさいと松苗女史は緩やかに巻いたセミロングの髪を額からかきあげる。
「部屋片付けてあげるから、あんたちょっと散歩でも行って頭冷やして来なさい。そんなんじゃ打ち合わせできやしない。とりあえずシャワー浴びてシャキッとする」
「……はい」
 ごめんなさいと詫びながらとぼとぼとリビングを横切っていく塔子を、ちょっと待ったと松苗女史は呼び止めた。
「いま着てる服、また着て出るつもり?」
 某大手量販店のルームウェアらしいライトグレーのスウェットパンツにネイビーの色も褪せた着古したボーダーニット。腰に届く黒髪は百円ショップで買ったらしきヘアクリップでざっくりまとめられており、顔はノーメーク。

『甘糟塔子(30)・作家。天涯孤独な少女と変わり者三兄弟の交流、植物博士の長男との風変わりな恋愛模様を描いた「苔の恋愛」の映画化で幅広い層の読者から支持されている。「それからの果て」(カドワカ)、「なにがあったかは聞かないで」(新星社)他著作多数』

 塔子の家を訪ねる前にチェックしたばかりのカルチャー誌に載っていた彼女の経歴と、喫茶店で撮影したらしき二十代半ばにしか見えない文学少女めいた写真を松苗女史は脳裏に思い浮かべ、一瞬の間を置いてから、シャーっと蛇が威嚇するような声を発して塔子に襲い掛かった。
「中学生かあんたはっ。ちょっとありえない若づくりで肌がきれいだからってナメてんじゃないわよっ! きいぃぃっ!」  
「き、近所歩くだけなんですから、別にいいじゃないですかぁぁっ!」
 じたばた抵抗する塔子の首根っこを掴んで彼女の寝室へと引きずって連れていくと松苗女史はクローゼットの扉を開けて、せめてこれを着ろと適当な服を選び出して塔子に押し付け、ほらっとバスルームへ押し出す。
 よろよろと覚束無い足取りでバスルームへ向かっていく後ろ姿をドアの開いた寝室から眺めながらあの様子ではたぶん食事もまともにとっていないに違いないと、松苗女史は微かな苦笑を漏らし額にかかる髪を再度かきあげる。
「まったく、世話の焼ける子」
 しかしそれにしても。
「まさかあの子に、“俺と恋愛してみる”とくるとは」
 当面様子見だけど、どうしたものかな。
 カサカサ――。
 幾枚もの紙がはためく音と首筋を撫でた風に松苗女史は寝室の奥の窓を振り返った。
「またあの子は、窓も開けっぱなしで……」
 ぼやきながら半分ほど開いてカーテンをはためかせている窓を閉める。
 寝室には、休息は大事だからと半ば強引に勧めた有名メーカーのマトレスを乗せた部屋に対してやや立派なセミダブルベッドにサイドテーブル。簡素なドレッサー。本棚。
 そして殺風景な白い壁を大きく占めて張り付いている強化ガラス製のホワイトボード。
 そこには無数の付箋と雑誌や新聞の切り抜きなどがマグネットで留められている。
「いつ見てもここだけちょっとぞくっとくるわね、この部屋」
 休んでいてふと浮かんだ設定、シチュエーション、言葉を無造作に貼り付けていく。日に灼けた年季の入った付箋もある。
 これでも休息と着替えなどのための部屋だ。
 仕事部屋はもっと圧巻でデスク以外のあらゆるスペースが資料置場と化している。
「本当、惚れるわぁ」
 腕組みし、眩しいものを見るようにわずかに目を細め、松苗女史は微笑んだ。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

七人の兄たちは末っ子妹を愛してやまない

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:18,097pt お気に入り:7,956

主神の祝福

BL / 完結 24h.ポイント:1,350pt お気に入り:255

あなたが見放されたのは私のせいではありませんよ?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7,366pt お気に入り:1,659

浮気の認識の違いが結婚式当日に判明しました。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:4,426pt お気に入り:1,219

おしっこ我慢が趣味の彼女と、女子の尿意が見えるようになった僕。

大衆娯楽 / 連載中 24h.ポイント:2,527pt お気に入り:13

巣ごもりオメガは後宮にひそむ

BL / 完結 24h.ポイント:6,130pt お気に入り:1,590

淫乱お姉さん♂と甘々セックスするだけ

BL / 完結 24h.ポイント:653pt お気に入り:9

異世界でおまけの兄さん自立を目指す

BL / 連載中 24h.ポイント:12,091pt お気に入り:12,476

処理中です...