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失恋(2)

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 体が、重い――。
 締切明けの疲労困憊状態に似た重さではあるけれど、微妙に違う。
 体の奥底に重油のようなどろりとした液体が澱んでいるような……それでいて少し熱ぽくもあるような。
 おまけに頭が割れるように痛い。
 風邪でもひいたのかなと、微睡まどろむ意識のなかで塔子は考えた。
 目を開けるのがひどく億劫で、左側から差してくる朝日がやけに眩しい。
 左……?
 おかしい。寝室の窓は頭の方向にあって朝日は真上から差してくる、はず。
 ぱちりと目を開けた塔子の視界に飛び込んできたのは、上品なベージュの高い天井。
 次いで見覚えのないモダンデザインの照明器具。
「えっ、と……」
 被っている布団のカバーを見れば、深い青。つややかな生地は明らかに高級なものだ。
 おまけにいつも寝ているベッドより明らかに広い。
 そして手足をもそもそと動かし気がつく。
「え……え……っ?!」
 どうして私、服を着たまま――それもシャツのボタン全開にして、ブラのホック外して、スカート脱いで寝てるの?!
「って、ここはどこっ?!」
 がばりと起き上がれば、ズキンと重く目の奥まで貫かれるような鋭い頭痛に、いたたたた……と、頭を抱えて掛布団に伏せる。
 半ば予想はしていたけれど、どう見てもホテルの一室だ。それもスタンダードな部屋じゃない。
「広い」
 特別フロアにあるような、スイートまではいかないけれどその一歩手前にあるランクの部屋だ。
 どうしてこんなところに、どこでどうしてどうなってこんな場所にいるのかまったく記憶がない。
 一体、自分の身になにが起きたと塔子は必死に思い出そうとしたが、どういった経緯でこのホテルの一室にたどり着いたのか完全に記憶から抜け落ちている。
「ちょっと待て……落ち着いて……じゅ、順番に……そ、そう、昨日はたしか朝布大に――」
 朝布大に対談の仕事に出掛けて……。
 特に変わったことはなかった。
 いつも通りに上津原かみつはらは失礼だったが大したことじゃない。
 むしろいつもより暴言は少なかった気がする。
 テーマが失恋だったからだろうか。失恋であれば塔子だって多少は話せる事もある。それはそれで悲しいことかもしれないけれど。
 そして、その後。
 思い出して、あっ、と小さく塔子は声を上げると、そのまま沈む気持ちで前のめりに布団に顔を埋めた体勢からそのままベッドに沈むように横に倒れた。
 そうだ、その後……立原さんの研究室で。
「……私、研究者の話を書くとか考えてるとか言ったことなんてなかったよ、ね?」
 ここ一ヶ月半ほどの間、立原の誘いと態度にもしかして好意を持たれているのかもしれないと、何度も思っては絶対無いと否定を繰り返してきたけれど。
 話すのはあくまで出版関係の話や共通の知人――それが上津原だというのがなんとも複雑な気分になってしまうのだが――また、立原が一度会って話をしてみたいなどと言った松苗女史の話だったから、もしかして彼にとっては人脈を広げるための誘いなのかもと疑ってみるも、立原は紳士的で塔子に優しい態度であるから却って自分の性格が歪んでいるだけで、けれどそうなら淡い期待を持ってしまうしどうなのだろうと正直心は揺れていた。
 なんとなく自分に触れようとする立原の素振りに、そんなはずはないと思いながらも待ち受けるような気分になったことも否定はできない。
 しかし立原の部屋を訪ねてきた、学部長だと紹介を受け挨拶を交わした初老の男性に対して立原が行った塔子の説明は、出会ったきっかけは中庭でのことに間違いはなかったが、それで親しくなった塔子から取材要望を聞いて協力していたような内容であった。
 塔子としては、そんな覚えもつもりも微塵なく、なにかそう受け取らせるような事を言ってしまったのかと思ったが……これまでの会話の大半はほとんど塔子の周辺の話であったし、それも立原が尋ねて答えることが多かったから釈然としない。
 挨拶が一段落し、用件を訪ねた立原に学部長の男性が伝えたのは、縁談が進んでいるらしき相手の家族との昼食会の日程についてであった。彼は仲人のような調整役を買って出ている様子であった。
 また――。
 そう、また、いつの間にか思い上がったみっともない状態になって……。
「もう……このまま死にたい……」
 頭は痛いし、体はどろりと重い疲労感に浸っているし、おまけになんだか胃が気持ちが悪いし。
「いや、でも……だからってどうして私はこんな場所に……えっと」
 それで立原さんの研究室を出て帰ろうとして、それで……ああ、そうだ。猫の声が聞こえたから建物の裏手に回ってみたら、そこに。
「あー……なんだよ失恋女」
 そう、そんなことを言って猫を構ってた上津原さんが……って、あれ?
 いまの、頭の中じゃなくて耳で声を聞いたような――。
 そろりと起き上がって声がした方向へ塔子が顔を向ければ、頭にタオルをのせている見知った仏頂面があった。
「ああ?! さっきからぶつぶつなに寝ぼけてんだ。俺はもう支度して出るからな。土曜だが大学行かなきゃなんねぇし」
「な、な、なな……っ」

 ナゼ、ア、アナタガ、ワタシノ、メノマエデ、ウロツイテ……。
 シカモ、ナゼ、ヌレタカミデ、ジョウハンシンハダカデ、シャツナドハオッテイルノデスカ?
 ワタシ、ワタ、ワタワタシシシシシシシ……。

「いやああああっ!」
「おい、どうした!?」
「なんっ、なななな……なんっでどうして上津原さんがここにっ? わ、私に一体なにを……な、ななななにしたんですかあああっ……あったたたたた、ぐぅ……」
 あ、頭っ! 頭痛いっ!
 布団に顔を埋めてぐううと呻きながら、もはや頭痛になのか、混乱する記憶になのか、動転している精神状態になのかなにが原因なのかわからないまま塔子が頭を抱えて悶絶していると、上津原の心底うんざりしたような溜息の音が聞こえた。
「まぁ、昨晩アレじゃ、そうなるわな」
 頭痛と混乱に悶えながらも薄目を開けていた塔子の視界の中で、シャツの前を止めながらスタスタと塔子から離れて部屋の奥へと歩いていった上津原は、部屋の隅でぱたんと音を立てて、また塔子の側に戻ってきた。
 突然なにか冷たいものを後ろの首筋に押し当てられて、ひやっと叫びながら首をすくめ、塔子が身を起こし顔を上げれば、冷たいものは今度は額に押し当てられる。
 冷たくて気持ちいい。
「ちょっとそれでも飲んで落ち着け」
「へっ?! あ……水」
 ミネラルウォーターのペットボトルを塔子が掴めば、上津原はまた塔子から離れ、ベッドのヘッドボードに寄せた枕とクッションに身を預けるようにして座り直した塔子の真正面、ベッドの足元にあるリクライニングチェアに飛び乗るように腰かけてシャツの袖口のボタンを留めながら仏頂顔で塔子を睨むように見据えた。
「ったく、起きた早々強姦魔扱いか? あんたが終電過ぎても帰らず前後不覚に酔っ払って滅茶苦茶だから仕方なく面倒みたんだろうが」
「……はあ」
「連休前の金曜の都内をなめるんじゃねぇぞ。適当なビジネスホテルにあんた押し込んで帰るつもりが、こんなホテルのこんな部屋しか空いてねーわ、部屋連れてったら急性アル中めいた状態になるわ……俺はヒトじゃなく動物相手の医者だ。つーか、覚えてねぇのかよ」
「あ……えっと、はい」
 なにか、よくわからないけれどものすごく迷惑をおかけした?
 いや、でも。
「なんでそんな私酔っ払って……お酒なんて普段あまり飲まないのに……」
「知るかよ。いまにも首吊りそうな顔して野良猫の餌やり場にふらふらやってきたから、飯連れてってやったんだろうが。そもそも飲めないなら飲むなっ、バカっ!」
「ひゃっ、……大声は、やめ、頭、頭いたい……っ」
「12時まで部屋使えるから、勝手に悶えてろ」
 立ち上がった上津原は今度は塔子の右側へと移動し、テーブルセットの三人掛けソファの上にだらしなく脱ぎ捨てられていた背広を取るとそれを羽織った。
 そういえば、対談前に用事でもあったのか珍しく彼はスーツだった。
「よ、ようするに上津原さんは私を介抱してここにいると」
「ああ」
「な、なにもしてないですよね……?」
「脱がしても鶏ガラみたいな酔っ払い女になにかするほど困ってねぇよ。あんたのおかげでこんないい部屋泊まってソファで寝るとかめったにない経験までさせられて……」
「ぬ、脱がしっ!?」
「仕方ねぇだろ、あんた吐くだけ吐いたら青くなって震え出したんだから。それともなにか? 放置しとけばよかったか、アア!?」
「い、いえっ」
「まったく人に迷惑かけて詫びや礼の一つも言えねぇのかよ」
「も、申し訳ありませんでした……覚えていないですが親切にしていただいたみたいで、あ、ありがとうございます……」
「いいけどよ。まー、無い谷間で効果半減だが黒子ほくろあんのは好きな奴は好きじゃねぇの?」
「え?」
 そういえば、ブラのホック、外れて。
「わたし……」
「あん?」
「もう、お嫁に行けないいいい……っ!」
「あんた、いつの時代の人間だよっ」
 もう、もう……私一生お酒なんか飲まない。絶対!
 ふ、不可抗力とはいえ。こんな、女好きで失礼な人と一夜を共にするなんてえええっ!
「なんだよ今更、医者に胸くらい見せるだろ。動物相手とはいえ似たようなもんだろうがよ」
「う……ひっ……ぐすっ……だ、大学行かなくていいんですか?」
「言われなくても行くよ。まだ八時過ぎだ。水飲んで一眠りして帰れ。言っとくがホテル代は割り勘だからな金はテーブル置いておくから」
「はい……」
 しばらくして、ドアのロック音がして途端に室内が静まりかえる。
 手元のペットボトルをしばらく眺め、塔子は幾分かぬるくなった中味を半分ほど飲むと、ベッドのサイドボードにペットボトルを置いてもうなにも考えたくないとばかりに布団を頭から被って潜り込んだ。

 *****

「上津原先生ー、ちょっとよろしいですか?」
 薄く開いた内科学第三研究室のドアから顔をのぞかせ遠慮がちに声を掛けてきた院生の気配に、ノートパソコンに向かい、一向に進まない申請書の細かい文字を見ては何度も目を滑らせていた上津原は唸るような応答の声を発してくるりと座っていた椅子ごと回転して振り返った。
「なんだ?」
 問いかければ、水色の地厚なシャツにグローバル展開もしているアパレル量販店製の黒いパンツを履いた男子学生がふらふらとプリントアウトした紙を抱えて入ってきた。研究テーマに沿った実験を指示している目下指導中の院生だ。
 なんだその妙な歩き方はお前はコメディアンかと口が滑りそうになるのを抑えて、上津原は、彼にとっては珍しくぼんやり気長に待った。
 短く揃えた院生の黒髪が目に入る。
 黒い髪なら散々見下ろしてきたばかりだ、出会った頃からまったく美容院で手入れしている気配もないまま背中の半ばより下に伸びているが、あれはどこまで伸ばしたままでいるつもりなんだろうか。 
「あのぉー、上津原先生?」
「ん? ああ、すまん」
 院生の声に我に返って、彼が差し出してきた紙に目を向ける。ここのこの値なんですが……などと質問の声がする。余白を埋めているメモや計算式の書き込み、質問の箇所を指して動く指先、上津原の目に確かに映っている。言ってることも書いてある内容も理解できるが、言葉も文字もただ上津原の器官を流れていくだけであった。
「で、自分なりに考えて出したのを突っ込んでですね……」
「……ああ」
 ふと、壁の時計が目に入った。もうそろそろ十時間近く経つのに、指に湿った粘膜の感触がかなり薄くではあるもののしつこく残っていた。 
 口の中に指を突っ込むなど日常行為だ。少し違うのはそれが動物ではなくヒトだったことと、手袋越しではなく素手であったことだけである。
 そもそも吐き方知らない女に吐かせるためなのだから医療行為と変わりなく、だからなんだといった話で別にこれと思うところもないのだが。
「どうでしょう?」
「……そうじゃないだろ」
「ええっ、違いますかね?!」
「あ? あー……」
 院生があらためて指差した紙を片手に取り、目を細め、院生の顔を上津原は見た。
「え、っと。上津原先生?」
「すまん、考えが余所に行ってた」
「先生~……泣きますよ。そんなに申請書行き詰まってんですか?」
「なんだよっ! 情けない顔で一言多いんだよっ!」
 ノートパソコンをちらちらと見ながらの院生の言葉に吠えながら、ざっと手元の紙全体目を通して院生の考えを概ね掴んだ上津原はタイムラグを返上するようにいくつか質問して院生の見解を聞いてコメントとアドバイスを返し、万城目まきめの補助を受けろと指示を与えて部屋から彼を追い出した。
 ドアが閉まるのを睨む目付きで見ながら腕を組み、がくんと首を落として俯くと深い息を吐く。
 そのままの体勢でスーツの上着を白衣に替えたそのポケットを探り、ライターと煙草を取り出し咥えて火をつけ、手にしているものを無造作にデスクへ置いた。
 手の指に挟んだ煙草と吐き出した煙の中に浮かぶ幻燈のように、自分になにもしなかったかと動転しきった様子で尋ねた甘糟塔子の姿が一瞬過る。
 鶏ガラの酔っ払い女になにかするほど困っていないなどと答えたが――。
 なにもなかったわけでもない。
「……いや、だからそういったのとは違うだろ」
 ざわざわ、と窓の外で音がしたのに上津原は外を見た。
 いつの間にか生い茂っていた裏庭の木の緑や芝生はうっすらと黄色味を帯びて、日が傾くのも随分と早くなってきている。
 もう秋だ、と呟く。
 春先に甘糟塔子と出会って、早くも丸七ヶ月が過ぎようとしていた。
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