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第一章:紅蓮庵の襲撃者
第1話:砂を噛む日々
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20年の月日が流れた。
岐阜の山深く、深い霧に隠れるように建つ高級小料理屋『紅蓮庵』。 そこは、地図にも載らず看板も掲げない。ただ、選ばれた者だけが辿り着ける、現世の吹き溜まりのような場所だった。
厨房では、女将の香が、目に沁みるほどの刺激臭を立てて調理をしていた。本来、彼女が提供するのは、旬の食材の滋味を最大限に引き出した、繊細で奥深い和食だ。しかし今、彼女が冷えた指先で刻んでいるのは、世界中から取り寄せた殺人的な辛さを誇る「香辛料」の数々。青いハバネロ、乾燥したブート・ジョロキア、そして抽出された純粋なカプサイシン。
「……香。すまないな、いつもこんな無理をさせて」
カウンターの隅、一番端の席から、掠れた声が届く。 53歳になった御門朔夜だ。かつての若々しさは影を潜め、彫りの深い顔立ちには、刻まれた皺の一本一本に苦難の歴史が刻まれている。香は手を休めることなく、けれどその瞳には隠しきれない憂いを湛えて答えた。
「無理なんて思っていません。……ただ、これを作るたびに、あなたの喉が焼けていくようで……。本当はもっと美味しい、春の山菜の出汁を飲んでいただきたいんです。朔夜さん」
香が差し出したのは、真っ赤に煮え立ち、硫黄のような匂いさえ漂う地獄のような煮込み料理だった。朔夜はそれを無造作に口に運び、咀嚼する。常人であれば呼吸困難に陥るほどの激辛。しかし、朔夜の眉は動かない。
「……ああ。喉の奥に、僅かな『熱』を感じる。……ありがたい。これでまだ、俺は死神になりきらずに済む」
朔夜の声は、感情を排した冷徹な標準語だった。あの日以来、彼は温かな栃木の訛りを心の奥底に封印した。五感のほとんどを妖刀に喰われ、常に口の中は不毛な砂を噛んでいるような感覚に支配されている。この激辛料理による強烈な「痛み」だけが、彼に戦鬼としての闘志を繋ぎ止める、唯一の錨だった。
「親父、それ以上はやめときんね。香さんが泣いとるばい」
23歳になった桜猟が、隣の席から呆れたように声をかけた。彼は居候としてこの店に身を置きながら、父を支え、『朔月会』の若頭としてNEXUSへの反撃の機を窺っている。
「……桜猟。お前は、なぜこの刀が『紅時雨』と呼ばれているか、知っているか?」
朔夜が、傍らに置かれた漆黒の鞘を指先でなぞった。桜猟は箸を止め、父の白濁した左目を見つめる。
「……確か、一族の守り刀っち聞いとった」
「半分は正しい。だが、本当の由来は……この刀を抜く時、天から降るのは雨ではなく、持ち主が流す『血の雨』だからだ」
朔夜の声が、重く、低く響く。
「抜けば抜くほど、斬れば斬るほど、持ち主の五感は削り取られ、周囲には赤い時雨が降り注ぐ。俺の味覚が砂に変わったのも、この刀がお前の母を救えなかった俺の『悔恨』を喰らい尽くした結果だ。……この刀は、復讐のためにしか振るえない。救いのための力ではないんだ」
重苦しい空気がカウンターを支配する。香は堪えきれず、朔夜の手元にそっと冷たい水を置いた。
「それでも、あなたは生きている。砂の味しかしない世界でも……あなたがここに居てくれることが、どれだけ私を救っているか……」
香の切ない独白が、厨房の湯気に溶けて消える。その時だった。
ドォォォォォン!!
静寂を、扉を蹴り破る凄まじい轟音が粉砕した。 吹き込む冷たい雨風と共に、一人の女が立っていた。
「……なんや、ここ。えらく気取った店やね。――おい、女将。一番高い酒ば出しんね。今からここは、私が貸し切るっちゃ。文句のある客は、叩き出すばい」
黒いライダースジャケットを纏い、濡れた髪をかき上げる女。望月蹴鞠。 彼女の全身からは、隠しきれない野獣のような殺気が溢れ出していた。
桜猟は、静かに立ち上がった。腰には、母・ろみながかつて打ったという二振りの日本刀――『劫炎丸・朝梅』と『劫炎丸・夜桜』。
「……おい、ねーちゃん。一見さんが土足で上がってよか場所じゃなか。……悪いが、お引き取り願おうか」
桜猟の筑後弁が、低く鋭く響く。
互いに実の姉弟とは知らぬまま、そして朔夜が「我が子」であることに気づかぬまま、宿命の再会は殺気の火花とともに幕を開けた。
岐阜の山深く、深い霧に隠れるように建つ高級小料理屋『紅蓮庵』。 そこは、地図にも載らず看板も掲げない。ただ、選ばれた者だけが辿り着ける、現世の吹き溜まりのような場所だった。
厨房では、女将の香が、目に沁みるほどの刺激臭を立てて調理をしていた。本来、彼女が提供するのは、旬の食材の滋味を最大限に引き出した、繊細で奥深い和食だ。しかし今、彼女が冷えた指先で刻んでいるのは、世界中から取り寄せた殺人的な辛さを誇る「香辛料」の数々。青いハバネロ、乾燥したブート・ジョロキア、そして抽出された純粋なカプサイシン。
「……香。すまないな、いつもこんな無理をさせて」
カウンターの隅、一番端の席から、掠れた声が届く。 53歳になった御門朔夜だ。かつての若々しさは影を潜め、彫りの深い顔立ちには、刻まれた皺の一本一本に苦難の歴史が刻まれている。香は手を休めることなく、けれどその瞳には隠しきれない憂いを湛えて答えた。
「無理なんて思っていません。……ただ、これを作るたびに、あなたの喉が焼けていくようで……。本当はもっと美味しい、春の山菜の出汁を飲んでいただきたいんです。朔夜さん」
香が差し出したのは、真っ赤に煮え立ち、硫黄のような匂いさえ漂う地獄のような煮込み料理だった。朔夜はそれを無造作に口に運び、咀嚼する。常人であれば呼吸困難に陥るほどの激辛。しかし、朔夜の眉は動かない。
「……ああ。喉の奥に、僅かな『熱』を感じる。……ありがたい。これでまだ、俺は死神になりきらずに済む」
朔夜の声は、感情を排した冷徹な標準語だった。あの日以来、彼は温かな栃木の訛りを心の奥底に封印した。五感のほとんどを妖刀に喰われ、常に口の中は不毛な砂を噛んでいるような感覚に支配されている。この激辛料理による強烈な「痛み」だけが、彼に戦鬼としての闘志を繋ぎ止める、唯一の錨だった。
「親父、それ以上はやめときんね。香さんが泣いとるばい」
23歳になった桜猟が、隣の席から呆れたように声をかけた。彼は居候としてこの店に身を置きながら、父を支え、『朔月会』の若頭としてNEXUSへの反撃の機を窺っている。
「……桜猟。お前は、なぜこの刀が『紅時雨』と呼ばれているか、知っているか?」
朔夜が、傍らに置かれた漆黒の鞘を指先でなぞった。桜猟は箸を止め、父の白濁した左目を見つめる。
「……確か、一族の守り刀っち聞いとった」
「半分は正しい。だが、本当の由来は……この刀を抜く時、天から降るのは雨ではなく、持ち主が流す『血の雨』だからだ」
朔夜の声が、重く、低く響く。
「抜けば抜くほど、斬れば斬るほど、持ち主の五感は削り取られ、周囲には赤い時雨が降り注ぐ。俺の味覚が砂に変わったのも、この刀がお前の母を救えなかった俺の『悔恨』を喰らい尽くした結果だ。……この刀は、復讐のためにしか振るえない。救いのための力ではないんだ」
重苦しい空気がカウンターを支配する。香は堪えきれず、朔夜の手元にそっと冷たい水を置いた。
「それでも、あなたは生きている。砂の味しかしない世界でも……あなたがここに居てくれることが、どれだけ私を救っているか……」
香の切ない独白が、厨房の湯気に溶けて消える。その時だった。
ドォォォォォン!!
静寂を、扉を蹴り破る凄まじい轟音が粉砕した。 吹き込む冷たい雨風と共に、一人の女が立っていた。
「……なんや、ここ。えらく気取った店やね。――おい、女将。一番高い酒ば出しんね。今からここは、私が貸し切るっちゃ。文句のある客は、叩き出すばい」
黒いライダースジャケットを纏い、濡れた髪をかき上げる女。望月蹴鞠。 彼女の全身からは、隠しきれない野獣のような殺気が溢れ出していた。
桜猟は、静かに立ち上がった。腰には、母・ろみながかつて打ったという二振りの日本刀――『劫炎丸・朝梅』と『劫炎丸・夜桜』。
「……おい、ねーちゃん。一見さんが土足で上がってよか場所じゃなか。……悪いが、お引き取り願おうか」
桜猟の筑後弁が、低く鋭く響く。
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