記憶の中に僕は居ますか

遭綺

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君に触れられただけなのに

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それから時間は流れ、夬皇が無事退院する日となった土曜日。
記憶の変化は特になく、穏やかな顔つきのまま頭にバンダナを巻いた状態で病院を後にする夬皇。
その隣には少しだけ安心した様子の彼の母親と凜、それと勇緋が居た。
一旦、彼らは勇緋の運転する車に乗り込む。

「ねえ。これからどこへ行くの?」
「俺達の家だ」
夬皇の問いかけにそう答えた勇緋。当の本人は何もわからないらしく、大きく首を傾げていた。
少しひんやりとした空気の車内。
すかさず勇緋はカーステレオを操作する。
二人の敬愛するバンドの音楽が流れて来た。
いつもそのイントロを聴く度に、心を熱く震わせる気持ちが湧いてくる神曲だ。
「へぇー。巽も好きだったんだ、このバンド」
「当然だろ。お前と何回ライブ行ったと思っているんだ?」
「ライブ? 俺と?」
「ああ。ライブの度に盛り上がって、グッズもいっぱい買ってさ」
「お、俺は巽とライブなんて…」
夬皇は少し頭を押さえて無言になると、何か情報を整理しているように見えた。
勇緋はあえて自分の名を発さない。
終始 巽 として振舞いつつ、話の随所に彼が忘れてしまっている記憶を埋め込んでいく。
まるで数百万のピースを埋めていくパズルのように。
「夬皇。じゃあさ、この曲、知ってる? 最近リリースされた曲なんだけど」
そう言って次の曲のイントロが流れる。
優しいピアノの音から始まり、女性ボーカルのしっとりとした声が旋律に乗る。
推しのバンドはラブソングをほとんど歌わない。
だが、この曲は完全なるラブバラード。
美しいコード進行と声色に、夬皇はじっとしたまま聴き入っていた。
「凄い良い曲…。歌詞もとても響く」


目の前に居る貴方の目に私は映っている?
いつも触れてくれたその手は今、誰のもの?
自分がこれ程好きなのに、貴方の好きは何処に行ってしまったの?
だからもう一度聞かせて欲しい。本当に好きなのは君だけだよと。


丁度夬皇の記憶が無くなった日にリリースされた曲だった。
サビの一節であるが、何故か、今の二人を予言しているようなリリックに勇緋は衝撃を受けた。
初めて聞いた日は人知れずワンワン泣く程心に沁みてしまい、それ以降は、礼拝のように毎日聞き続けていた。

「次のライブでは絶対、この曲を実演するはずだ。それまでに、必ず俺はお前の記憶を取り戻す」

勇緋の決意表明。
この言葉を発すると同時に、曲も静かに終えるのだった。

二人の聖域の玄関の扉が開く。
入口前でおどおどしている夬皇。
「ねぇ。知らない人の家に行くなら言ってくれよ。緊張すんじゃんか」
「何、言っているの? ここはアンタの家でしょ?」
「ちょっと、やめてよ!」
凜はの力を使って、彼を無理やり家へと引き入れる。
「お、お姉さん…」
「あれが家では普通だから、気にしなくて良いわよ」
夬皇の母親は、何事もなかったように、家に入って行った。

広々としたリビングにあるテーブルを四人は囲った。
「さっきから、何をキョロキョロしているのよ、アンタは」
「だって。落ち着かないよ」
椅子に座っては居るが、夬皇は視線があちこちに向けられ、ソワソワしている。
「それじゃあ、私はお昼の準備でもしますか。凜、貴方も手伝って」
「はーい。ねぇ、ゆうひ君。冷蔵庫にある食材、使わせて貰うわよ」
「どうぞ。リクエストのモノは買ってあります」
「流石ね。ほら、夬皇。アンタは久し振りに自分の部屋でも掃除して来なさい」
「部屋? 俺の?」
戸惑う夬皇に、勇緋はスッと手を伸ばす。
「俺が案内するよ」
「う、うん…」
夬皇も手を伸ばして、久し振りに二人の手が触れ合った。
いつもなら嬉しい気持ちになるはずなのに、夬皇の手が少し震えているのを感じ取った勇緋は複雑な気持ちになってしまった。

勇緋に案内されて、夬皇は数週間ぶりに自室に入る。

作業用スペースとPC、時々自分で描いていた絵、大好きな漫画の数々、疲れを癒すフカフカのベッド。
お気に入りの間接照明。
これら全部を、自分が決めて自分で配置をしたと横に居る巽と言う男が言う。
「何で俺、何にも覚えていないんだ。これ全部、俺が好きなモノなのに」
いつどうやってこれらを手に入れたのかわからない。
それが夬皇を凄く寂しい気持ちにさせる。
ふと、デスクに置いてある写真に目をやる。
「あー。その写真、お前が職場に置いていたものだよ。三輪さんから預かっていたんだ」
「三輪さん? 職場?」
知らない情報が沢山羅列され、夬皇の頭はどんどん混乱していく。
「ぐっ!」
ズキンと言う痛みと共に彼は頭を押さえながらベッドに座り込んでしまった。
「大丈夫か?」
「へ、平気。少し休めば落ち着くと思う…」

閉じられた扉の奥にある記憶を無理矢理引き摺り出そうとすると、痛みが走るのか。
勇緋は痛みに苦しむ夬皇の姿に心を痛めるが、同時にこの痛みこそ、記憶が戻るきっかけになっていると思うと気が気ではなかった。

「ねぇ、巽…」
すると突然、夬皇が隣に座る勇緋の頬に手を触れながら、そう呟いたのだ。
(やめろ。その目で俺を見るな)
だが、触れられた手を払いのける事が出来ない。
自分の名前ではなく、彼の幼馴染の名を呼んでいるのに。
思わず夬皇の手に自分の手を重ねてしまいそうになった。
勇緋の身体の奥底が彼に触れられて嬉しがっている。
それに抗えない自分が嫌になりそうだった。
だんだんと彼の顔が近づいてくる。

そんな時である。
「二人とも、ご飯出来たわよー」

二人はビクリと身体の動きを止めた。

「い、行くぞ。夬皇」
「お、おう」
二人は何処か恥ずかしい気持ちを抱きながらも、何故か互いに嬉しさを感じていた。
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