モブがモブであるために

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37.本当のノレン

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 ノレンは俺の両手首を掴んで壁に押し付けると、怒りを露に眼前に迫る。今にも俺を食らいつくさんばかりに、ノレンが薄く整った唇を開き紅い舌を覗かせた。客観的に見れば壮絶なほどの色気に溢れた姿なのだろうが、俺は恐怖と掴まれた手首の痛みで呼吸音だけの小さな悲鳴を漏らし、ぎゅっと目を閉じた。
 訪れる衝撃を覚悟して待っているが、肌が触れる距離にノレンの気配は感じるけれどそれ以上は迫ってこない。恐々と薄目を開いてみれば、ノレンはくしゃりと顔を歪めて俺を見ていた。
 そのうちに手の戒めが緩み、目の前にあったノレンの顔がトスンと俺の肩に乗った。

「ごめん、朝比奈」

 そう呟いた声は、俺様生徒会長ではなくペルソナ・オフしたノレン本人のもののようだった。

「調伏したはずの闇の力を制御しきれないだなんて、僕ともあろうものが情けないね」

 うん、この中二感と揺るぎない自意識、間違いなくノレン本人だ。
 俺はひとまずほっと安堵のため息を吐いた。
 ノレンはバツが悪いのか、俺の肩口に額を預けたままくぐもった声で話す。謙虚を装いつつもいつでも自信に溢れているノレンらしからぬ姿に少し戸惑ってしまう。

「逢坂兄弟から聞いたんだ。朝比奈は生徒会に入らないらしいって。どうして?」

 どうしてもこうしても、最初からそのつもりはなかったと即答しかけたが、ノレンが悲愴な自分語りを始めそうな空気を読んでぐっと我慢した。

「僕は生徒会長だから」

 俺の予想した通り、俯いたままのノレンが語り出す。

「僕はさ、生徒会長のペルソナを外せないんだ。目の前で綾人が朝比奈に触れているのに、闇の衝動に任せてその場に混沌を生むこともできない。聖なる秩序を守れとペルソナが僕を支配するんだ。ペルソナは僕が負った呪いさ」
「お、おう……」

 正直なに言ってるのかわからなかったが、とりあえず頷いた。大人しく聞いてやれば早く話が終わるだろうと踏んだのだ。すごく疲れるが。

「綾人に言えた義理じゃない。焦っているのは僕さ」

 ノレンが自嘲気味に笑う。漏れ出た吐息は微かに震え、両手は俺の服の裾を掴んでいた。

「朝比奈だけなんだ。本当の僕を見てくれるのは。ペルソナから解き放ってくれる僕の、俺だけの……」

 しばらく言葉を詰まらせてから、ノレンが掠れた声で言った。

「だからそばにいて。朝比奈が隣にいなきゃ、いやだ。……ねぇ、副会長になってよ」

 額を肩に擦り付けながら、ノレンは俺の背に腕を回した。腕の力は弱く、抱きしめるというよりは縋りつくようで。その幼くも庇護欲を掻き立てる姿は、俺様生徒会長とも自意識高い中二病患者とも違い、頼りなく純粋な子どものようだった。もしかしてこれがノレンの本来の姿なのかもしれない。
 生い立ちや容姿や能力、そしてその将来を期待されるあまり、本当の自分を何重にも隠して自分を守らないといけない世界で、ノレンは生きているのかもしれない。ずっとそうしてきたから、ノレンの本当の心は無垢なまま、ずっと寄る辺を探しているのかもしれない。
 同い年の高校生が抱えるには荷が重過ぎるだろうと、すっかり俺は同情してしまった。

 そもそも流されやすい俺がこの状況で「だが断る!」などと言えるはずもなく、しがみつくノレンをそのままに黙り込んだ。とりあえず離れてもらおうと口を開けば、その気配に怯えたようにノレンは俺の服をキュッと掴んだ。

「……もう少し考えてみるから。また明日話そう」

 しがみついてくるノレンに、俺はそう言うのが精一杯だった。
 ノレンは僅かに頷いたようだった。
 しばらくはそのまま項垂れていたノレンだが、そろそろ生徒会会議の時間じゃないのかと促すと、途端に背筋は伸び、前髪を乱暴にかき上げ、視線が交わった時には既に俺様生徒会長の顔に戻っていた。

「そうだな。次の会議にはお前も参加だ、俺の天使(アンゲルス)」

 と不敵に口端を吊り上げて笑い、間抜け顔で見上げる俺の頬にちゅ、とリップ音を響かせると颯爽と部屋を出て行ったのである。

 ほんとさ、まじお前さ……。

 どっと疲れを感じてリビングのソファに深く腰掛けて天井を仰ぎ見る。
 明日になればノレンだって俺に執着しなくなるはずだ。騙すようで申し訳ないが、結論を一日延ばせば全部丸く収まるのだ。
 それと同時に、本当のノレンを知って支えてやれるやつがいなくなるということでもある。俺は胸の中がもやもやとして落ち着かず、すぐにソファから立ち上がった。
 このまま契約を続ける選択肢はあるだろうかとちらりと考えてしまった自分に、すぐにストップをかける。「そんなわけにはいかないだろ」と自身に言い聞かせるように口に出して呟いて一歩踏み出した瞬間、足元にバナナの皮があることに気がついた。
 その結果、

「そんな……バナナっ!!」

 という大変不名誉な独り言を叫び、俺は盛大に滑って意識を失ったのである。
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