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Part3 The year of 2000

Chapter_11.Fly to me! (3)勉、サンシンを見つける~ホームシック

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At Westwood, Los Angeles; November 30, 4:00PM PST, 2000. = At Nishihara Town, Okinawa; December 1, 9:00AM JST, 2000.
Since this time, the narrator changes from Taeko Kochinda into Tsutomu Uema.
勉君のモノローグへ切り替わります。

UCLAメディカルセンターへ来て、三ヶ月が経った。
休みの日以外はERにカンヅメって感じで、本当に目が回るような忙しさだった。ようやく体もアメリカになじんできたのか、それとも単なるストレス太りか、体重も二キロくらい増えた。
クリスマスが近づき、Westwoodの街は日本なんかと比較にならないくらい賑わい始めた。僕も同僚から貰い受けた小さなクリスマスツリーに電飾を巻きつけ、ちょっとしたクリスマス気分に浸った。

十一月三十日、金曜日。
僕はめずらしくERのlongを午前七時きっかりに上がり、午睡の後、久々にアパートの部屋を掃除していた。明日土曜から、明後日日曜の十二時まで、丸々休みだ。しかも今回はポケベルなし、つまり、呼び出しon callの義務は無い。そう思うとうれしくてたまらなかった。朝からベイエリアあたりをドライブがてら、買い物でもしようかな? などと、ぼんやり考えていた。

おや、テーブルの下になにかあるぞ。
掃除機を消して、その物体を手にとってみた。
あ、サンシンだ。そうか、こんなところに置いてたのか。

ケースを雑巾で拭き、サンシンをケースから取り出した。ロサンゼルスに着いてからというもの、僕は全くサンシンに触っていなかった。というか、覚えることが多すぎて、本当にそれどころではなかった。
久々に手にしたサンシンは、妙な感触だった。そうか、こいつに全然触らなかったからな。

カラクイ(棒ねじ)を回して調弦ちんだみを合わせる。ちょっと緩んでいるな。よし、これで本調子だ。
さて、……えーっと、困ったな?

そう。この三ヶ月の間に、僕はサンシンの弾き方をほとんど忘れていた。オペも楽器の演奏も似たようなところがあって、鍛錬を積み重ねないと腕が確実に落ちる。僕はおもむろに、本棚からサンシンの楽譜である『工工四くんくんしー』を引っ張り出した。「白瀬走川節しらしはいかわぶし」を探し出して弾いてみる。この曲は初心者向けで弾きやすい曲の一つで、琉球舞踊の女踊り「貫花ぬちばな」の地謡としてもよく知られている。それなのに、僕の左手の動きは非常にぎこちなかった。一番の歌詞を歌い切るのがやっとだったのだ。

やばいな。本当に全然弾けなくなってる。

基本的に『工工四くんくんしー』には左手の指運びしか書かれていない。もともと僕は、そんなに『工工四くんくんしー』を見るタイプのサンシン弾ちゃーではなかった。サンシンを弾く師匠の姿が僕の教科書だったからだ。
僕は愕然として『工工四くんくんしー』を閉じた。サンシンをケースに入れ、手を止める。自責の念が押し寄せてきた。

何でこうなってしまったのだろう? 唐船とうしんドーイも、鳩間節も、谷茶前たんちゃめーも、何も考えないで弾けていたのに。本当に、てぃーからぎてぃ、全部むるねーらんなとーん。
僕は自分の両手を広げて、まじまじと見つめた。
サンシンが弾けないなんて、もう、俺じゃない。
なんで忘れちゃったんだろう? どうしてもっと早く気づかなかったんだろう?
僕は首を思い切り横に振った。頬を涙がつたっていった。 

僕にとって、サンシンを弾くことと医者の仕事は、今まで何の矛盾もなく両立していた。そりゃ、医者になってからは、東風平こちんだ長助師匠の元へ顔を出す時間は確実に減ってしまったけど、サンシンを弾かない生活なんて考えられなかった。
小学校の頃から、一人ぼっちの僕を支えてくれたサンシン。
受験勉強の最中でも引き続けていたサンシン。
医学生の時にはバイトの糧でもあったサンシン。
激務だった研修医の時でさえ、リハビリのおじぃおばぁに弾いて聞かせみんなを喜ばせていたサンシンを、僕は忘れてしまったのか?
僕にとって大切な僕の一部を、こんな簡単に失ってしまっていいのか?

僕の中で張り詰めていた糸がプツンと切れ、涙が次から次へと溢れてきた。悔しくて、自分が情けなくって、仕方なかった。
今まで何度かホームシックに駆られてきたけど、なんとか乗り越えてこれた。でも今回は、……今回は、もう、だめだ。

僕の目の前に、サザン・ホスピタルから見える中城湾の景色が広がった。
青い海、青い空。頬に当たる心地よい潮風の感触。
師匠のサンシンの音が耳の中をゆったりと流れていく。
突如、僕の鼻腔をある香りが刺激した。信じられないことにそれは、ごく最近まで西原にあった製糖工場から流れていた、うーじを蒸す香りだ。正直僕はこの香りが苦手だったが、今は鼻腔に蘇ったこの香りが沖縄の初冬の風景を鮮やかに映し出し、僕の心を激しく揺さぶる。僕はその場に崩れ、大声を張り上げて泣いた。

帰りたい! 沖縄へ、帰りたい!

プロロローン プロロローン

その音で我に返った。電話が鳴っているのだ。よろめきながら立ちあがり、力なく受話器を取った。
“Hello?”
「あ、勉?」
「多恵子?」
沖縄からかけてきているとは思えないほど、鮮やかな声だ。
「元気にしてる? 最近、メールばっかりだったからさ、たまには声を聞かせよっかなーっと思って。今日はたしか明け番だったよね? ひょっとして、寝てたの? あたし、起こしちゃった?」
いつも僕を明るくしてくれる無邪気な声。とびきりの笑顔が眼に浮かぶ。僕は耐えられなくなった。
「多恵子、……会いたい」
「え?」
「会いたいよ。今すぐ会いたいよ」
僕は受話器に向かって大声で叫んでいた。
「俺、サンシン弾けんくなった」
「……勉?」
感情が再び爆発した。僕は辺りをはばからず泣きじゃくった。
「もうだめだ。会いたい! 助けて! 助けてくれ多恵子!」

「……勉? 聞こえる? 勉?」
耳元で、優しい声が響く。
「わかった。今から、そっちに行くからね。待っててよ!」

電話が、プツッと切れた。
「はあ?」
僕は切れた受話器を持って、しばし茫然としていた。口の中でぶつぶつと、多恵子の言葉を繰り返す。

わかった。いまから、そっちにいくからね。まっててよー?

……あいつ、フラーか?
だって、そうだろ? ここ、アメリカだぜ? ロサンゼルスだぜ? 沖縄からどれくらい掛かると思ってるばー?

僕は受話器を戻した。あまりの間抜けさに涙がすっかり止まってしまった。ま、どうせまた、電話かかってくるだろ? ごめんとか、なんとか言って。あいつ、短絡的だからな。さて、と。掃除の続きでもするか。((4)へつづく)
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