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Part4 Starting Over

Chapter_03.苦いバレンタイン・デー(2)追放工作

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At the Southern Hospital, Nakagusuku Village, Okinawa; February 14, 2001.
Secondly, the narrator of this story is Rika Aguni.
二番手のモノローグは粟国里香さんです。

産婦人科の処置室から、伊東先生と裕太が出てきた。
「今、眠ってる。このまま、寝かせてあげた方がいい」
裕太の落ち着いた声がする。あたしは、廊下の長椅子に座り込んだ。涙が溢れてきた。
「里香さん」
裕太があたしの側に座って、そっと抱きかかえてくれる。あたしは泣きながら、彼の肩に上半身をもたせかけた。

誰かが、気づいてあげるべきだった。多恵子の悩みに。
正月明けから、多恵子は食が細かった。あの大食らいの多恵子が、ランチや夕食にほとんど口をつけなくなった。何度か注意したし、叱ったりもした。きっとアメリカの上間先生のことが気に掛かるのだろう、先生が戻っていらっしゃれば、また元の多恵子に戻る。楽観的に、そう信じていた。

十二月下旬に裕太が整形外科へ転科してからというもの、慣れない業務に彼はいら立ち、落ち込み、デートの度にずっと愚痴をこぼしていた。ようやく自分の夢が叶ったとはいえ、本当にしんどいのだろう。あたしはずっと聞き役だった。年下の彼を支えてあげる必要があった。
愚痴というものはする側もそうだろうが、聞く側も疲れるものだ。あたしは裕太に掛かりきりになり、神経をそがれ、多恵子に注意を払う余裕をなくしていた。千秋もまた、ブラジルへ帰るナカダさんとの別れに心を痛めていて、彼との思い出作りを第一に行動するようになっていたから、彼女の心に多恵子が入り込む余地がなかった。
ひょっとすると、多恵子はあたしたちに悩みを打ち明けようとしていたのかもしれない。そうでなくても、様子がおかしいと気づいた時点で、こちらからもっと強く問いただせばよかった。彼女の一途な性格を考えると妊娠のリスクを負っても決しておかしくはない。
あらゆる可能性を考えて、彼女に接していれば。
多恵子を追い込んでしまったのは、ほかならぬ、あたしたちなのだ。

「里香さんのせいじゃない。僕らも気づいてあげられなかったんだから」
裕太は真っ直ぐ白い壁を見つめた。膝に置かれた右手は、握りこぶしを作っていた。
「上間先生に、なんとお伝えしたら……」
彼もまた自分を責めている。裕太は上間先生から多恵子のことを託されていた。上間先生の研修中、多恵子に言い寄る男がいれば上間先生に代わって睨んでいた。それなのに、多恵子自身の変化に気づいてあげられなかったなんて。

三十分ほど経っただろうか。
「ちょっと、外の空気を吸ってきます」
あたしは裕太から離れると、立ち上がった。帰らなければならないのはわかっていたが、帰る気持ちにはなれなかった。
「いってらっしゃい、気をつけて。僕も一度医局に戻るよ」
あたしはハンドバッグを持ち、裕太に軽く手で合図した。

外は冷たく、風がひゅうひゅう耳元でうなった。高台にあるサザン・ホスピタルは中城湾からの風がもろに当たる。
あたしは、暗い景色の中目を凝らした。湾は目の前に広がっているはずだ。心の中で、アメリカからこちらへ向かっているはずの上間先生の姿を思い浮かべた。先生は右足を大怪我され、一生、松葉杖歩行を余儀なくされるらしい。自らの行く末すら定かではない状況の中で、多恵子が流産したとお聞きになったら、また、どれだけ力を落とされるだろう?
「ごめんなさい」
あたしはそっと、つぶやいた。闇の向こうの上間先生へ、頭を下げた。

その後、あたしは医局へと向かった。デートでおしゃれをするつもりだったので、今朝は裕太に浦添の実家まで迎えに来てもらってて、バイクは家に置きっぱなしだ。帰るためには、再び裕太の車に乗っけてもらわなくてはならない。
医局に向かう途中、院長室の近くに出た。もうすぐ深夜だというのに明かりがついてて、中から笑い声がする。
「ははは……。ええ、わかってます。あれじゃ医者の仕事は無理ですよ」
あたしは立ち止まった。耳がダンボになる。
「松葉杖の職員なんて、雇って何の得になりますか?」
ぎくりとした。きっと、上間先生のことだ! とっさに、あたしはハンドバッグから新品のICレコーダーを取り出した。英会話のレッスンで使うために奮発して買ったんだ。記念すべき第一声は、大好きな裕太の声を録音するつもりだった。だけど。
あたしはICレコーダーの録音ボタンを押した。薄暗い廊下で赤いランプが点灯する。あたしはパンプスをそっと脱いだ。そして忍び足で機械を持ったまま院長室へ近づき、ゆっくりドアの隙間に近づけた。

声の主は、院長代理だ。ニュージーランド出張中の院長に代わって一月末から仕事に就いている。あまり評判は良くなかった。どこかのIT企業を経てコンサルタント畑を歩み「医療改革」を声高に叫んでいた。人件費削減のため四月から看護助手の数を減らすと公言して、全職員の反発を買っている男だ。
「上間先生はもう無理でしょう。まあ、彼に責任はないんですがね。気の毒といっちゃ気の毒ですが、満足に働けない男を抱えるより、優秀な整形外科医を雇った方がいいですよ。そのほうが、うちの宣伝にもなりますからね。え、組合? あんなもの、潰そうと思えば、どうにでもなります。うるさいのが二人くらいいますが、心配はいらんでしょう」

……なんということを!
段々、あたしは腹が立ってきた。この男は所詮、病院を金儲けの道具としか考えていないのだ。こんな男が院長代理だなんて、寒気がする!

「ええ、これで利益が上がれば、そちらのブツをもうちょっと、こちらに。ええ。あの臨床試験薬を使えればうちの成績も上がるでしょう。副作用が少し気がかりですが、患者の同意が得られれば問題はありません。なあに、あちらは藁をもすがる思いでこっちに来ているんですから。効用を訴えれば大丈夫ですって。はっはっは!」

ちょっと、患者さんまで食い物にする気なの? それが病院のやること?
叫び出したい気持ちを、あたしは必死で押さえた。ICレコーダのスイッチを切ると、あたしは音を立てないようそのまま医局へと向かった。((3)へつづく)
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