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二章
裸の付き合い
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ララはその夜、王宮の広い浴室でひとりで風呂に浸かりながら、夢のようなこの展開にパッと心が浮き立つような、一方で、この縁談がラウルを危険に追い込んでしまうのではないかという寒気がするような両極端な思いの狭間で気を揉んでいた。
どうか、どうかポルドが間に合いますように――
「――…姫様、そろそろお上りに……」
レイチェルの声が聞こえた。
「レイチェル!」
「はい?」
「おまえも一緒に入ってこないか?」
「……はい、では、遠慮なく」
裸のレイチェルがおずおずと浴室に入って来た。
その白い裸体は、多少贅肉がついているが、優美という言葉がぴったりだ。若いララとはまた違った美しさである。
ララは王宮に設えられた、王専用の広い温泉に入っている。本来なら、王といえばどこも身の回りの世話をまめまめしくする侍女が侍るものだが、シンの場合、よほど手のこんだ衣装の着付けでなければ、そういう世話をする侍女はいない。意外にもカリアの方針ではなく、3歳のララがかつてそう言ったのだ。
自分のことは自分でって、お母さんが言ってた――。
身分を笠に着ることのないカリアではあったが、根っからの王宮育ちに、幼いララのこの発言が響いたのである。
そして、その人材は余すことなく王宮の治療院に回した。
「レイチェル」
「あまり長湯はいけませんよ。お顔が真っ赤です」
「うん」
昔はよくレイチェルに風呂に入れてもらった。ララは子供の頃、服を脱ぐとまずザーッと砂や泥が落ちてくるのだった。砂場や泥の中を歩き回った覚えはないのに、なんでこんなことになるのか自分でもサッパリわからない。何度梳かしても髪はすぐクシャクシャになるし、結んだり編んだりすると、その隙間から砂や葉っぱが出てくるものだから、毎日レイチェルのお世話になっていたのだ。
「ああ、気持ちいい」
浴槽の湯がタプタプと揺れながらレイチェルを飲み込んだ。
シンは火山から湧く天然温泉があるのだ。王宮にも温泉が引かれており、それもあって、カリアは王宮を治療院にした。王宮病棟には、患者専用の浴場がいくつか据えられている。
「レイチェル」
「はい?」
「……もし、ラウルが私との縁談を嫌がったらどうしよう」
ララが珍しく気弱だ。
「あら、でもトトなのでしょう? それなら……」
「……ラウルはトトだった時のことを覚えていなかったんだ」
「まぁ、でも……」
「ラウルは、そ、その、私と、その……、あ、愛し合ったんだが私を覚えていたからじゃない。だから……」
ラウルはもしかしたら、ララの身体が目当てだっただけかも知れない。ラウルのあの様子は、結構な遊び人だと物語ってはいなかったか?
それになにより、ララはラウルに愛の言葉を囁かれたわけでも、何かの約束を交わしたわけでもない。そもそも最初からラウルとの関係を諦め、黙ってラウルの前から姿を消したのだ。ラウルが怒っていても不思議ではない。そんなことを考えれば考えるほど、この話がうまくいくはずがないと思えてきた。
「それに、私は子供を持てない……」
「きっと大丈夫ですよ。ラウル様は子供の頃、あなた様がいなければ眠ることさえできなかったではありませんか」
「……でも、もう立派な大人だ」
白く濁ったお湯に、ララの白い髪と灰色の瞳が揺れているのが映っている。
レイチェルはなんとも答えられなかった。二人のことは二人にしかわからないし、ラウルの本当の気持ちはラウルにしかわからない。
「レイチェル……」
「はい?」
「私の髪と瞳は変じゃないかな?」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で、ララが言った。
カリアとともにたくさんの患者を相手に、どんな悲惨な患者でも顔色ひとつ変えずにやってきたララの、驚くほど初心な乙女心に、レイチェルは思わず胸をぎゅっと掴まれた。
「まあ、ララ様! あなた様はいつでもどんな時でもお美しくてお可愛らしいですよ」
「そ、それはレイチェルが、私の姉のようなものだから、身内の欲目ってことも……」
「まぁ、私の目をお疑いですのね? どれ、よく見せてください」
レイチェルは、お湯に鼻先をくっつけそうになっているララの頬を両手で持って顔を上げた。
そして、頬を両手でグニグニと押して変な顔を作る。
「むにゅにゅ……」
「ああ、勘違いでした。姫様はやっぱり変なお顔でした」
「あははは……」
ララは首をそらしてレイチェルの手から逃れると、腕を伸ばしてレイチェルに抱きついた。
「レイチェル……」
レイチェルがララを抱きとめた。濡れたその身体は熱く、わずかに震えている。
「……レイチェル、私、怖い」
「………」
「私は王としてやっていけるだろうか? おばあさまが前に言っていた。神龍が選ぶ王は、その器があるからではなく自分に合う体質の人間を探しているだけだろうと。そんな私がこの国の女王になって、ましてや他国の王族であるラウルを救えるのか? そもそも、他国の深部である神龍の秘密を探れるだろうか? 王になったばかりのこの私が? ……あまりにも多くのことが一度に起きすぎて、何をどう考えればいいのかよくわからないんだ」
レイチェルは、自分の首にしがみつくララの頭をぎゅっと抱きしめ、濡れた冷たい髪に唇を押し付けた。
20年前のララは、口が利けずに首からたくさんの言葉の札を下げて、利発そうな茶色い目で大人たちを見上げていた。王宮の庭を駆け回り、夢中で遊び、誰よりも熱心に学び、いつの間にかカリア様に負けないぐらいの優秀な医師になっていた。そして今、王としての責任の重さと、心を震わす初めての恋に圧倒されている。
この方は、まだたった25才の若い女性なのだ。
それでもレイチェルは確信した。ラウル様はきっと、私の姫様に夢中だと。百歩譲って今は無理でも、そのうちきっと夢中になると。
「ララ様。謹んで白状いたしますと、あなた様の家臣であるわたくしどもはみんな、我らがララ女王陛下に恋をしているんですの。それはもう、みんなあなた様に夢中です」
レイチェルは首に巻きついたララの手を離し、両肩を掴んで灰色の目を覗き込んだ。
見慣れない灰色の目は不安に揺れている。レイチェルは励ますようにニッコリと微笑んだ。
「あなた様に恋をするちょろい者など、チョチョイと鼻先であしらっておしまいなさいませ。それが女に生まれた甲斐というものですわ」
いたずらっぽくそういうと、ララがパチパチと目を瞬いた。
「ふふ、レイチェルったらもう……」
「ふふ、ララ様、とりあえず一旦上がりましょう。のぼせた頭では、何を考えてもダメですわ」
「あはは、わかった」
鏡の前で、レイチェルがララの髪を乾いた布でよく拭いて、昔と同じように丁寧に髪を梳かしてくれている。
鏡の中では、見慣れない白銀の髪と冷ややかな灰色の瞳のよそよそしい女が映っている。
「心のない冷たい人形のようだ」
何気なく呟いたララに、レイチェルも鏡に映った自分の顔をちらっと見ながら顔をしかめた。
「嫌だわ。目尻に皺が刻まれた、しょぼくれた太ったおばさんが映ってるわ」
「そ、そんなことはない!」
ララが驚いたように目を剥いた。
「いつも朗らかで会う人すべてを優しく包み込む、包容力のある美しくて暖かい女性が映っている」
「ふふ……」
レイチェルが嬉しそうに、鏡の中のララと顔を並べた。
「……そうだな。すまない。自分だとどうしても欠点ばかり見てしまう」
「私たちの愛しい姫様は、くるくるとよく動く瞳で、豊かな髪をなびかせて、颯爽と王宮を歩き回り、慣れない政務を一生懸命こなしながら、いつもの明るく闊達なところはちっともお変わりになりません。カリア様はあなたが何かしようとするたびにこう仰った」
「「ララや、おまえの好きなようにやりなさい」」
二人の声が揃った。広い脱衣室に女の明るい笑い声が弾けた。
「ありがとう、レイチェル。心が決まった。私の最初の大仕事は、ゴダール王子との婚姻と、ゴダールの神龍を調査することとする」
「仰のままに。ララ女王陛下………」
レイチェルがスカートの裾を持ち上げ、片膝を折って恭しくお辞儀した。
どうか、どうかポルドが間に合いますように――
「――…姫様、そろそろお上りに……」
レイチェルの声が聞こえた。
「レイチェル!」
「はい?」
「おまえも一緒に入ってこないか?」
「……はい、では、遠慮なく」
裸のレイチェルがおずおずと浴室に入って来た。
その白い裸体は、多少贅肉がついているが、優美という言葉がぴったりだ。若いララとはまた違った美しさである。
ララは王宮に設えられた、王専用の広い温泉に入っている。本来なら、王といえばどこも身の回りの世話をまめまめしくする侍女が侍るものだが、シンの場合、よほど手のこんだ衣装の着付けでなければ、そういう世話をする侍女はいない。意外にもカリアの方針ではなく、3歳のララがかつてそう言ったのだ。
自分のことは自分でって、お母さんが言ってた――。
身分を笠に着ることのないカリアではあったが、根っからの王宮育ちに、幼いララのこの発言が響いたのである。
そして、その人材は余すことなく王宮の治療院に回した。
「レイチェル」
「あまり長湯はいけませんよ。お顔が真っ赤です」
「うん」
昔はよくレイチェルに風呂に入れてもらった。ララは子供の頃、服を脱ぐとまずザーッと砂や泥が落ちてくるのだった。砂場や泥の中を歩き回った覚えはないのに、なんでこんなことになるのか自分でもサッパリわからない。何度梳かしても髪はすぐクシャクシャになるし、結んだり編んだりすると、その隙間から砂や葉っぱが出てくるものだから、毎日レイチェルのお世話になっていたのだ。
「ああ、気持ちいい」
浴槽の湯がタプタプと揺れながらレイチェルを飲み込んだ。
シンは火山から湧く天然温泉があるのだ。王宮にも温泉が引かれており、それもあって、カリアは王宮を治療院にした。王宮病棟には、患者専用の浴場がいくつか据えられている。
「レイチェル」
「はい?」
「……もし、ラウルが私との縁談を嫌がったらどうしよう」
ララが珍しく気弱だ。
「あら、でもトトなのでしょう? それなら……」
「……ラウルはトトだった時のことを覚えていなかったんだ」
「まぁ、でも……」
「ラウルは、そ、その、私と、その……、あ、愛し合ったんだが私を覚えていたからじゃない。だから……」
ラウルはもしかしたら、ララの身体が目当てだっただけかも知れない。ラウルのあの様子は、結構な遊び人だと物語ってはいなかったか?
それになにより、ララはラウルに愛の言葉を囁かれたわけでも、何かの約束を交わしたわけでもない。そもそも最初からラウルとの関係を諦め、黙ってラウルの前から姿を消したのだ。ラウルが怒っていても不思議ではない。そんなことを考えれば考えるほど、この話がうまくいくはずがないと思えてきた。
「それに、私は子供を持てない……」
「きっと大丈夫ですよ。ラウル様は子供の頃、あなた様がいなければ眠ることさえできなかったではありませんか」
「……でも、もう立派な大人だ」
白く濁ったお湯に、ララの白い髪と灰色の瞳が揺れているのが映っている。
レイチェルはなんとも答えられなかった。二人のことは二人にしかわからないし、ラウルの本当の気持ちはラウルにしかわからない。
「レイチェル……」
「はい?」
「私の髪と瞳は変じゃないかな?」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で、ララが言った。
カリアとともにたくさんの患者を相手に、どんな悲惨な患者でも顔色ひとつ変えずにやってきたララの、驚くほど初心な乙女心に、レイチェルは思わず胸をぎゅっと掴まれた。
「まあ、ララ様! あなた様はいつでもどんな時でもお美しくてお可愛らしいですよ」
「そ、それはレイチェルが、私の姉のようなものだから、身内の欲目ってことも……」
「まぁ、私の目をお疑いですのね? どれ、よく見せてください」
レイチェルは、お湯に鼻先をくっつけそうになっているララの頬を両手で持って顔を上げた。
そして、頬を両手でグニグニと押して変な顔を作る。
「むにゅにゅ……」
「ああ、勘違いでした。姫様はやっぱり変なお顔でした」
「あははは……」
ララは首をそらしてレイチェルの手から逃れると、腕を伸ばしてレイチェルに抱きついた。
「レイチェル……」
レイチェルがララを抱きとめた。濡れたその身体は熱く、わずかに震えている。
「……レイチェル、私、怖い」
「………」
「私は王としてやっていけるだろうか? おばあさまが前に言っていた。神龍が選ぶ王は、その器があるからではなく自分に合う体質の人間を探しているだけだろうと。そんな私がこの国の女王になって、ましてや他国の王族であるラウルを救えるのか? そもそも、他国の深部である神龍の秘密を探れるだろうか? 王になったばかりのこの私が? ……あまりにも多くのことが一度に起きすぎて、何をどう考えればいいのかよくわからないんだ」
レイチェルは、自分の首にしがみつくララの頭をぎゅっと抱きしめ、濡れた冷たい髪に唇を押し付けた。
20年前のララは、口が利けずに首からたくさんの言葉の札を下げて、利発そうな茶色い目で大人たちを見上げていた。王宮の庭を駆け回り、夢中で遊び、誰よりも熱心に学び、いつの間にかカリア様に負けないぐらいの優秀な医師になっていた。そして今、王としての責任の重さと、心を震わす初めての恋に圧倒されている。
この方は、まだたった25才の若い女性なのだ。
それでもレイチェルは確信した。ラウル様はきっと、私の姫様に夢中だと。百歩譲って今は無理でも、そのうちきっと夢中になると。
「ララ様。謹んで白状いたしますと、あなた様の家臣であるわたくしどもはみんな、我らがララ女王陛下に恋をしているんですの。それはもう、みんなあなた様に夢中です」
レイチェルは首に巻きついたララの手を離し、両肩を掴んで灰色の目を覗き込んだ。
見慣れない灰色の目は不安に揺れている。レイチェルは励ますようにニッコリと微笑んだ。
「あなた様に恋をするちょろい者など、チョチョイと鼻先であしらっておしまいなさいませ。それが女に生まれた甲斐というものですわ」
いたずらっぽくそういうと、ララがパチパチと目を瞬いた。
「ふふ、レイチェルったらもう……」
「ふふ、ララ様、とりあえず一旦上がりましょう。のぼせた頭では、何を考えてもダメですわ」
「あはは、わかった」
鏡の前で、レイチェルがララの髪を乾いた布でよく拭いて、昔と同じように丁寧に髪を梳かしてくれている。
鏡の中では、見慣れない白銀の髪と冷ややかな灰色の瞳のよそよそしい女が映っている。
「心のない冷たい人形のようだ」
何気なく呟いたララに、レイチェルも鏡に映った自分の顔をちらっと見ながら顔をしかめた。
「嫌だわ。目尻に皺が刻まれた、しょぼくれた太ったおばさんが映ってるわ」
「そ、そんなことはない!」
ララが驚いたように目を剥いた。
「いつも朗らかで会う人すべてを優しく包み込む、包容力のある美しくて暖かい女性が映っている」
「ふふ……」
レイチェルが嬉しそうに、鏡の中のララと顔を並べた。
「……そうだな。すまない。自分だとどうしても欠点ばかり見てしまう」
「私たちの愛しい姫様は、くるくるとよく動く瞳で、豊かな髪をなびかせて、颯爽と王宮を歩き回り、慣れない政務を一生懸命こなしながら、いつもの明るく闊達なところはちっともお変わりになりません。カリア様はあなたが何かしようとするたびにこう仰った」
「「ララや、おまえの好きなようにやりなさい」」
二人の声が揃った。広い脱衣室に女の明るい笑い声が弾けた。
「ありがとう、レイチェル。心が決まった。私の最初の大仕事は、ゴダール王子との婚姻と、ゴダールの神龍を調査することとする」
「仰のままに。ララ女王陛下………」
レイチェルがスカートの裾を持ち上げ、片膝を折って恭しくお辞儀した。
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