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1.邂逅
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『先生、プロットありがとうございました。編集部会議でも問題ありませんでしたので、これで進めていただいて大丈夫です。いやあ、今回も胸アツな展開ですね! 先生の文章で読むのが楽しみですよ』
電話の向こうで、担当編集者の向井が興奮気味に言った。この若い編集者は少々子どもっぽく思われるが、率直な言葉を使うので作家の気分を上げるのが上手い。
「ありがとう。君の期待に応えられるように頑張るよ」
『期待してます! それにしても新藤陸が女性だなんて、僕いまだに脳がバグるときがありますよ。あっ、もちろんいい意味で、ですからね!』
日本へ帰国して五年。二十代前半の向井が担当について約一年。ようやく日本の若者言葉にも慣れてきた。
神崎沙羅は『新藤陸』というペンネームで小説家として活動している。ハードボイルドな文体で描く刑事ものや推理小説を得意とする。淡々とした文章はどうも男性的な印象を与えるらしい。四年前のデビュー以来男性を装ったことはないが、世間のイメージは『新藤陸』を男性として扱っている。沙羅としてもその方が助かる気もして、敢えて公表することもなかった。
沙羅はデビューして四年の新人ながら、リアリティのあるストーリーで人気を博し、たちまちベストセラー作家の仲間入りをした。デビュー作の映画化の話も進んでいる。
『そういえば、神保町の書店からまたサイン会のオファーが来てます。一応の確認ですけど、今回もお断り……でいいんですよね?』
「うん。悪いけど頼むよ。サイン本の依頼なら受けるから」
『ですよねー。了解っす』
沙羅の返答に、向井は少々残念そうに言った。
昨今の作家といえばそれなりの知名度を得たらメディア露出も増えていくものだが、沙羅は徹底してそれを拒んでいた。SNSはやっていないしサイン会も行わない。
「そういえば、もうすぐゲラが届くんだよね?」
話題を変えようとしたわけではないが、沙羅は担当にスケジュールの確認をした。
『そうです! 新刊の著者校の作業を先にお願いします。ええと、明日には発送できると思いますので、またメール入れますね。再来週くらいに戻していただけると助かります』
「分かった。そのスケジュールなら問題ない。明日はちょっと連絡がつきづらいと思うけど、諦めてくれ」
『まあ、急ぎの連絡もないと思いますけど。なにかあるんですか?』
「うちのお姫様の誕生日」
『あっ、そうか。それは仕方ないですね。編集長からも聞いてます』
「そういうことだから、悪いけどよろしく」
『了解っす。では、よろしくお願いしますー』
スマートフォンの通話を切り、時間を見てはっとした。
「まずい、お迎えの時間だ」
沙羅は慌ててバッグを掴むと、家を飛び出した。
娘の通う幼稚園までは、徒歩で二十分ほどの距離だ。走れば十分もかからない。小説家という職業柄体がなまりやすいので、沙羅はなるべくなら走って、そうでなくとも自転車や車を使わないことにしている。娘が同行しているとそうも言っていられないこともあるが。
娘の怜は明日四歳になる。結婚は一度もしていない。シングルマザーというやつだ。それこそが沙羅が学生時代から過ごしたアメリカから帰国し、小説家という職業を選んだ理由だった。
幼稚園に着くと、怜が大きな目をぱあっと輝かせて沙羅を歓迎した。
「おかーさん!」
光に当たると色素の薄い瞳が、懐かしい面影を残す。自分に似ず愛想のいい我が子が、たまらなく愛おしい。
「おまたせ、怜。帰ろうか」
スーパーに寄って夕食の買い出しを終え、帰路につく。それが今の沙羅の日常。
けれどなんの因果だろう。その日は少し違った。
マンションの前に長身の男性が立っていた。歳は三十代後半だろう。サングラスをかけた彼は黒髪だが、雰囲気がどことなく日本人のそれとは違う。心臓が早鐘を打った。
「おかーさん? はやくはいろうよ」
怜が無邪気に言う。その声に気付いた男が振り返った。まずい、と咄嗟に怜を隠すように抱きかかえる。けれど隠しきることなどできはしない。
男が走り出した。沙羅も怜を抱えたまま逆方向に走りだす。
追いつかれるまでにさほどかからなかった。
右肩を掴まれる。抱えた娘を落とさないようにと思うとバランスを崩し、しゃがみこんでしまった。
「シズカ! シズカ・キサラギだな⁉」
懐かしい英語が聞こえる。けれど再会に喜んでいる暇はない。
「リチャード」
彼のことはアメリカ時代に知っていた。友人だとも思っていた。だが単純に喜べない。彼を怜に会わせるわけにはいかない。彼は、犯罪者だ。
「リチャード、どうしてここに」
「……沙羅さん!」
声がした。振り返ると、警察官の青年が自転車を乗り捨てるようにこちらに駆けてくるところだった。
「誠也」
少しだけ安心感が生まれる。けれど掴まれた右腕に力がこもり、リチャードの険しい声がした。
「『サラ』。やはりそれが君か」
確信を得た言葉に半ば絶望する。この人は沙羅の素性を知ってここへきたのか。
「離れてください。場合によっては暴行の現行犯で逮捕しますよ」
割り込んだ誠也に、リチャードは意外にも大人しく従い手を離した。
「沙羅さん、怜。大丈夫? 怪我は?」
「ああ。ありがとう、誠也。怪我はないよ。驚いて、しゃがみこんでしまって」
「ちょっとお話聞かせてもらえますか」
誠也は沙羅たち母娘から距離を取らせるためにリチャードを誘導しようとする。しかし彼はそれを交わし、威圧的に誠也を見下ろした。
「君は彼女と親しいのか」
リチャードが日本語で尋ねた。日系アメリカ人の彼は日本語も問題なく操る。アメリカ時代それがきっかけで親しくなった。
「質問しているのはこちらです。彼女に何を?」
リチャードはため息をついて、ジャケットの内側に手を伸ばした。誠也が緊張したのがわかる。ここは日本だとわかっていても、沙羅も警戒した。
しかし彼が取り出したのは拳銃でもナイフでもなく、IDだった。
「FBI捜査官の崚介・J・コールマンだ。シズカ・キサラギ……いや、サラ・カンザキに捜査協力を依頼したい」
「FBI……⁉」
沙羅と誠也の声が重なる。沙羅の驚きは誠也以上だった。沙羅が知る彼は、麻薬密売のブローカーだったのだから。
電話の向こうで、担当編集者の向井が興奮気味に言った。この若い編集者は少々子どもっぽく思われるが、率直な言葉を使うので作家の気分を上げるのが上手い。
「ありがとう。君の期待に応えられるように頑張るよ」
『期待してます! それにしても新藤陸が女性だなんて、僕いまだに脳がバグるときがありますよ。あっ、もちろんいい意味で、ですからね!』
日本へ帰国して五年。二十代前半の向井が担当について約一年。ようやく日本の若者言葉にも慣れてきた。
神崎沙羅は『新藤陸』というペンネームで小説家として活動している。ハードボイルドな文体で描く刑事ものや推理小説を得意とする。淡々とした文章はどうも男性的な印象を与えるらしい。四年前のデビュー以来男性を装ったことはないが、世間のイメージは『新藤陸』を男性として扱っている。沙羅としてもその方が助かる気もして、敢えて公表することもなかった。
沙羅はデビューして四年の新人ながら、リアリティのあるストーリーで人気を博し、たちまちベストセラー作家の仲間入りをした。デビュー作の映画化の話も進んでいる。
『そういえば、神保町の書店からまたサイン会のオファーが来てます。一応の確認ですけど、今回もお断り……でいいんですよね?』
「うん。悪いけど頼むよ。サイン本の依頼なら受けるから」
『ですよねー。了解っす』
沙羅の返答に、向井は少々残念そうに言った。
昨今の作家といえばそれなりの知名度を得たらメディア露出も増えていくものだが、沙羅は徹底してそれを拒んでいた。SNSはやっていないしサイン会も行わない。
「そういえば、もうすぐゲラが届くんだよね?」
話題を変えようとしたわけではないが、沙羅は担当にスケジュールの確認をした。
『そうです! 新刊の著者校の作業を先にお願いします。ええと、明日には発送できると思いますので、またメール入れますね。再来週くらいに戻していただけると助かります』
「分かった。そのスケジュールなら問題ない。明日はちょっと連絡がつきづらいと思うけど、諦めてくれ」
『まあ、急ぎの連絡もないと思いますけど。なにかあるんですか?』
「うちのお姫様の誕生日」
『あっ、そうか。それは仕方ないですね。編集長からも聞いてます』
「そういうことだから、悪いけどよろしく」
『了解っす。では、よろしくお願いしますー』
スマートフォンの通話を切り、時間を見てはっとした。
「まずい、お迎えの時間だ」
沙羅は慌ててバッグを掴むと、家を飛び出した。
娘の通う幼稚園までは、徒歩で二十分ほどの距離だ。走れば十分もかからない。小説家という職業柄体がなまりやすいので、沙羅はなるべくなら走って、そうでなくとも自転車や車を使わないことにしている。娘が同行しているとそうも言っていられないこともあるが。
娘の怜は明日四歳になる。結婚は一度もしていない。シングルマザーというやつだ。それこそが沙羅が学生時代から過ごしたアメリカから帰国し、小説家という職業を選んだ理由だった。
幼稚園に着くと、怜が大きな目をぱあっと輝かせて沙羅を歓迎した。
「おかーさん!」
光に当たると色素の薄い瞳が、懐かしい面影を残す。自分に似ず愛想のいい我が子が、たまらなく愛おしい。
「おまたせ、怜。帰ろうか」
スーパーに寄って夕食の買い出しを終え、帰路につく。それが今の沙羅の日常。
けれどなんの因果だろう。その日は少し違った。
マンションの前に長身の男性が立っていた。歳は三十代後半だろう。サングラスをかけた彼は黒髪だが、雰囲気がどことなく日本人のそれとは違う。心臓が早鐘を打った。
「おかーさん? はやくはいろうよ」
怜が無邪気に言う。その声に気付いた男が振り返った。まずい、と咄嗟に怜を隠すように抱きかかえる。けれど隠しきることなどできはしない。
男が走り出した。沙羅も怜を抱えたまま逆方向に走りだす。
追いつかれるまでにさほどかからなかった。
右肩を掴まれる。抱えた娘を落とさないようにと思うとバランスを崩し、しゃがみこんでしまった。
「シズカ! シズカ・キサラギだな⁉」
懐かしい英語が聞こえる。けれど再会に喜んでいる暇はない。
「リチャード」
彼のことはアメリカ時代に知っていた。友人だとも思っていた。だが単純に喜べない。彼を怜に会わせるわけにはいかない。彼は、犯罪者だ。
「リチャード、どうしてここに」
「……沙羅さん!」
声がした。振り返ると、警察官の青年が自転車を乗り捨てるようにこちらに駆けてくるところだった。
「誠也」
少しだけ安心感が生まれる。けれど掴まれた右腕に力がこもり、リチャードの険しい声がした。
「『サラ』。やはりそれが君か」
確信を得た言葉に半ば絶望する。この人は沙羅の素性を知ってここへきたのか。
「離れてください。場合によっては暴行の現行犯で逮捕しますよ」
割り込んだ誠也に、リチャードは意外にも大人しく従い手を離した。
「沙羅さん、怜。大丈夫? 怪我は?」
「ああ。ありがとう、誠也。怪我はないよ。驚いて、しゃがみこんでしまって」
「ちょっとお話聞かせてもらえますか」
誠也は沙羅たち母娘から距離を取らせるためにリチャードを誘導しようとする。しかし彼はそれを交わし、威圧的に誠也を見下ろした。
「君は彼女と親しいのか」
リチャードが日本語で尋ねた。日系アメリカ人の彼は日本語も問題なく操る。アメリカ時代それがきっかけで親しくなった。
「質問しているのはこちらです。彼女に何を?」
リチャードはため息をついて、ジャケットの内側に手を伸ばした。誠也が緊張したのがわかる。ここは日本だとわかっていても、沙羅も警戒した。
しかし彼が取り出したのは拳銃でもナイフでもなく、IDだった。
「FBI捜査官の崚介・J・コールマンだ。シズカ・キサラギ……いや、サラ・カンザキに捜査協力を依頼したい」
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