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2.捜査協力依頼
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沙羅は娘を知人に預け、リチャード改め崚介と、勤務を終えた誠也とともにカラオケボックスに入った。喫茶店などの開けた場所で話すのは崚介が嫌がり、かといって自宅に招くのも抵抗があったからだ。
「なぜ彼がここに? 君と彼との関係は?」
同席している誠也を見て、崚介が腕組みをしながら不機嫌そうに聞いた。彼の長い脚では、カラオケボックスの低いソファは居心地が悪そうだ。
「誠也は私の弟だ。日本の警察官でもある。信用していい」
「俺は君と二人で話したい」
「あなたの身元確認はしたが、それでも警戒を解けというのは無理だ。あなただってわかっているだろう」
崚介の身元は大使館に問い合わせて確認した。不審がられたが、結局崚介本人が電話をかわりIDナンバーを提示することで教えてくれた。彼は現役のFBI捜査官だと。
「君の弟は君の過去をどれほど知っている?」
「私がDEAに勤務していたことは」
「沙羅さん、今、DEAって」
「うん。驚かないところを見ると、リチャード……いや、コールマン捜査官も知っていたようだね」
DEAとはアメリカ麻薬取締局の略称だ。サラは高校卒業後アメリカへ留学し、卒業後DEAに入局した。
「ふぅん、英語がわかるんだな。彼は君が潜入捜査をしていたことも?」
崚介の言葉に誠也が目を見開いた。
「今、潜入捜査って言った⁉ 沙羅さん、ずっと内勤だったって言ってたよね⁉」
沙羅は五年前麻薬密売組織に潜入することになり、シズカ・キサラギの偽名で組織の末端に所属していた。リチャードとはそこで出会ったのだ。
「すまない。潜入捜査のことは極秘だったから、話すわけにはいかなかった」
弟に謝罪すると、崚介が疑うような視線を向ける。
「本当に信用しているのか」
「もちろん。内容が内容だから話していなかっただけだよ。五年前の帰国当時、弟はまだ学生だったしね」
「日本の警察組織を、俺は信用していない」
「彼が警察官というのは身分と度胸の保証くらいに思ってくれ。今は私の家族として同席している。日本の警察組織に安易に情報を漏らしたりしない。させない。それくらい微妙な情報だと誠也もわかっているよ」
崚介をまっすぐに見つめてそう言うと、しぶしぶといった様子で頷いた。誠也に向かって釘を刺す。
「いいだろう。ただし彼女が言った通り、他言無用だ」
「分かっています」
誠也が頷く。沙羅は弟に向かってかつての立場を話した。
「五年前、私はアメリカの裏組織『ナーヴェ』に潜入していた。ナーヴェはイタリア語で『船』を意味する。イタリア系マフィアの流れを汲む組織で、かつて密輸で財を為したといわれている。その主な収入源は麻薬取引だ」
沙羅の説明に崚介が頷いた。崚介は誠也を気遣ってか日本語で話し始めた。
「もうわかっていると思うが、俺も潜入捜査官だ。FBIのな。当時君の正体は知らなかったが、五年前君が失踪したときは慌てたよ。君に証言を頼むつもりだったから」
「証言?」
「ザック・ブラウン」
これまた久しぶりに耳にした名に、妙に納得した。
「なるほど、FBIの狙いは彼か」
ひとりわからないという顔をする誠也が沙羅を見る。
「五年前の当時、ザックは組織のナンバー3だった」
「今はナンバー2だ」
崚介がすかさず訂正する。沙羅が潜入する数年前から幹部の顔触れや序列は変わっていなかった。序列が入れ替わっただけなのか、それとも死んだのか。ザックの性格や手口を知る者として、後者という気がしてくる。
「奴にはナーヴェが持つ麻薬の密輸ルートのほかにとある商売をしているという噂があった。メキシコのギャングと繋がっていて、麻薬を仕入れる代わりに武器の密輸を行っているらしいというものだ。私も半信半疑だったが、FBIの本命はそちらだったんだな」
ナーヴェとしての仕事ではなく、ザック・ブラウンの個人事業のようなものだ。沙羅が組織にいた当時は噂の域を出なかったが、FBIが動くということはかなり確度の高い情報なのだろう。
沙羅の言葉に崚介が頷く。
「そうだ。その情報が欲しい」
「まさかその証言を私に? 噂以上のことは知らないぞ」
「それは本当か?」
「どういう意味だ」
「五年前君が失踪した後、ザックは躍起になって君を探していた。FBIは君が奴やナーヴェに消されたんじゃないかと焦ったが、様子を見るにどうもそうではない。俺は重要な機密を握った君が、身の安全のために組織から逃げたんだと思っていた。それからずっと君を探していた」
「五年間も、ずっと?」
「そうだ。君が失踪して二年ほど経って、シズカ・キサラギが亡くなっていることを突き止めた。救えなかったと一度は絶望したよ。けれどそれは君じゃなかった」
DEAが沙羅に用意したのは、実在した如月静佳という日本人留学生の身分だった。本物の静佳は麻薬犯罪に巻き込まれ、五年前の当時はすでに亡くなっていた。
「そこまで調べたのか」
静佳の事件は沙羅の潜入のために記録が秘匿された。事件そのものを抹消することはできなくとも、写真や個人を特定できるような情報は厳重に管理されていたはずだ。
「シズカの友人を見つけたんだ。写真を見せてもらったが、君はどこにも写っていなかった」
「なるほど。優秀な捜査官のようだな」
「そうでもないさ。君の名前も何もわからなくて、それで手詰まりになった。日本に帰国していることも考えて調べたが、俺が持つ情報だけじゃそれらしい人間が多すぎて絞り込めなかった」
「じゃあどうやって私がここにいると」
「偶然だ」
「そんなの信じられるわけないでしょう」
言ったのは誠也だった。
「本当だ。ナーヴェは次のマーケットに日本を選んだ。俺はジャパニーズ極道に挨拶に来たのさ。シズカの手がかりは何もなかったが、昔話してくれたことがあっただろ。日本の桜の美しさを。俺もルーツは日本だし、気まぐれに上野に見に行ったんだ」
「あっ……」
沙羅と誠也は異口同音に声を上げた。先週娘と三人で訪れたところだった。
「偶然君を見かけて、サラと呼ばれていた。それでFBIに調べさせた。そしてサラ・カンザキという女性が見つかった。十八で日本からアメリカへ留学、大学卒業後DEAに入局するもその後の経歴は一切不明。だが五年前、成田行の乗客リストに載っていた。君がDEAの潜入捜査官だとしたらすべての辻褄が合う。君だと思った」
五年も経って、何の因果だろう。崚介は手がかりなどほとんど持っていなかったのに、同じ日の同じ時間に居合わせただなんて。それにあの日上野恩賜公園にいた人間は少なくなかった。その中で気づいたのか。沙羅は気づかなかったのに。
「神崎沙羅。二十九歳。結婚歴なし。職業不明。四歳になる娘と都内高級タワーマンションで二人暮らし。相変わらず謎が多いな。本当に一般人か?」
「今はただの小説家だ。ペンネームを使っているからまだ調べ切れていないんだろうが、FBIの情報部もすぐ突き止めると思うよ。幸運なことに出産直後にヒット作に恵まれてね。そのときの印税のほとんどをあのマンションにつぎ込んだ。贅沢をしたかったわけではないけれど、セキュリティ面は妥協したくなかったから。帰国してからナーヴェの人間と接触はないが、それでも娘に万が一のことがないように」
「時期から見て、帰国したきっかけは妊娠か」
迷いがないわけではなかったが、沙羅は正直に頷くことにした。
「そうだ」
「父親は」
「黙秘権を行使する」
沙羅の言葉に、崚介が表情を少し曇らせた。
「ザックか」
「え?」
誠也が声を上げ、顔色を変えて沙羅を見る。対照的に沙羅は笑みを浮かべた。わざとではなく、つい零れた。滑稽だったからだ。
「そうか。あなたは私がすでに奴の愛人だったと考えているんだな」
「沙羅さん。どういう意味」
それに答えたのは崚介だった。
「女性捜査官が潜入するのは、大抵がハニートラップを仕掛けるためだ。君も例外じゃなく、DEAからザックの愛人になるよう命令されていたんだな」
「そうだよ」
「沙羅さん……!」
肯定すると誠也が子どものような顔をした。怜の父親のことは誰にも話していない。そのことですでに散々気を揉ませた。不安にさせたかった訳じゃない。
「そうだな、ザックとのことだけは否定しておこうか」
「本当に?」
崚介と誠也の声が重なる。沙羅は「本当だ」と答えた。
「私は命令を実行途中で奴を誘惑していた。だが奴の寝室に呼ばれる少し前に妊娠に気づいた。自分から『愛人になりたい』と匂わせたわけだし、もう穏便に済ませられる状況じゃなかったんだ。だから逃げるように帰国した。――信じられない?」
崚介は少し考える素振りを見せたが、ほとんど間を置かずに首を振った。
「いや。君がそういう嘘をつくタイプとは思わない」
「ありがとう」
「あいつの愛人は何人かいるが、そのどれもが裏家業の女たちでザックに忠誠を誓っている。それに君を加えようというんだから、よっぽどうまく誘惑したんだな」
「東洋人が珍しかったのか、奴から誘いをかけてきた。最初はかわしていたんだ。DEAからも当初は奴を警戒するように命令されていたから」
「そうだったのか。まあ、わかる気がする」
納得する崚介に、誠也が複雑な表情をしている。身内に話すのもどうかとは思うが、もう子どもじゃない。
「ザックは警戒心が強い。特に女性に関しては、長年の愛人がほとんどだ。気まぐれに手を出した女はほとんどが薬漬けにされて部下に下げ渡されるか、娼婦のようなことをさせられている。いずれにせよ正気を保てないと思ったほうがいい」
崚介の説明に、誠也が苦虫を噛み潰したような顔をする。そのまま心配そうに沙羅を見た。
「そういう理由からザックへのハニートラップはないはずだった。だが誘いを交わし続ける私に奴は『愛人にしてやろうか』と言ったんだ。私も驚いたよ。DEAにとっては千載一遇のチャンスだった」
「そんな男に沙羅さんを」
一人納得のいかない様子の誠也に、沙羅は説明した。
「やつの情報があればナーヴェだけでなく、メキシコの麻薬カルテルの一斉摘発することだって夢じゃなかった。噂が本当なら武器商人としての情報も引き出せたかもしれない。それに一夜の娼婦ではなく愛人であれば、薬漬けにされる危険は少ない。あれでも愛人たちには気を配っているようだったからね。DEAの判断は間違っていないよ」
「女の人を犠牲に犯人逮捕なんて、どこが間違ってないんだよ⁉」
「少しの犠牲で多数を助ける。あの国は合理的なんだ。その機会を私は台無しにした。裏切者……いや、テロリストとして処罰されてもおかしくなかった。私の退職と帰国を認めただけでもかなりの温情だったよ」
誠也の説得のためではなく、心の底からそう思う。当時の上司からは厳しいことを言われもしたが、そのおかげでこうして日本で出産し、娘を育てている。
「FBIの狙いはまさにその一斉摘発だ。君にその手伝いをしてほしい」
「それができるならDEAを辞めるときにしていた。私に何をさせたいんだ、コールマン捜査官」
「本当に何も知らないのか。君が消えたときのザックの様子は尋常じゃなかった。奴は今も密かに君を探させている」
「そんな馬鹿な」
人探しは時間も手間も金もかかる。五年も経てば忘れられていると思っていたのに。当時末端の構成員だったシズカにそれほどの労力をかける理由がわかない。
「私自身そうとは気づかず何かの情報を持っている、ということか? しかし……」
「沙羅さん。沙羅さんの体質そのものが目的だった、てことない?」
誠也の心配に、沙羅は「まさか」と否定的な気持ちになった。ナーヴェがそれを知っていた筈がないからだ。
「君の体質っていうのは?」
崚介が当然の疑問を口にする。もう捜査官でもないし隠すこともないだろうと沙羅は打ち明けた。
「私はあらゆる薬物への耐性が異常に高い。DEAが私を潜入捜査官に選んだのもそれが理由の一つだ」
「薬物耐性? それはつまりどういうことだ?」
「ドラッグへの耐性が高く、ほとんど効かないんだ。つまりジャンキーになりにくい」
崚介が目を瞠った。
潜入中はどうしてもドラッグの危険に晒される。不本意に摂取させられた場合でも理性を失わず体調を損なわず、任務遂行できるというのが沙羅の強みだった。
「まあ、治療薬も効きにくいわけだからデメリットも大きいけれど」
捜査官でなくなった今となっては厄介な体質でしかないが、崚介は顔色を変えた。
「それかもしれない」
「え?」
「『アスモデウス』を覚えているか」
崚介が口にした名に、今度は沙羅が表情を変えた。苦い記憶がよみがえる。
「……もちろん」
「あすも……何?」
馴染みのない単語に誠也が眉を寄せた。そんな弟に沙羅が答える。
「アスモデウス。性欲を司る悪魔の名がついたドラッグだ。要するにセックスドラッグだよ」
「せっ」
誠也が頬を赤らめた。そちら方面にはまだまだ初心らしい。二十四という年齢でそれはどう取ればいいのか、姉としては安心も不安も感じて少々複雑だ。
とはいえ今は関係のないことなので、弟の動揺に気づかないふりをして話を続ける。
「五年前ナーヴェが開発中だったものだが、あれは危険過ぎた」
沙羅が組織に潜入した理由もアスモデウスだった。
「当時アメリカで、性行為の前後に突然死亡する事件が数件報告された。いずれも急激に血圧が上がったことに起因するショック死だった」
いわゆる腹上死というわけだが、それが急激に増えた時期があったのだ。
「脳出血を起こしたり、心臓に大きな負担がかかったりしたらしい。体中の数か所で内出血が起こし、体外への出血が認められた例もあったそうだ。そして内数名は麻薬中毒者だった。当時流通していたドラッグに類似するものはなかったが、FBIの捜査の結果、新種のドラッグの人体実験によるものではないかと思われた。それでDEAに情報がきたんだ。DEAはそのドラッグを開発しているのがナーヴェだと突き止め、私を送り込んだ。想像以上に危険なドラッグだった」
沙羅の言葉に崚介も頷く。
「ああ。一時的に強烈な快楽をもたらすが、危険性と依存性が高すぎる。たった一回の服用で死んだ例もある。五年経っても改良に難航しているんだ。君のその薬物耐性の謎が解明できれば、ドラッグの改良に大きく貢献することになるとザックは考えているのかもしれない」
「あり得る話かもしれないが、ザックが私の体質を知っていたなんて」
「アスモデウスを摂取したことは?」
崚介の質問に咄嗟に返事ができなかった。
「あるの⁉」
誠也が心配そうに声を上げる。尋ねた崚介本人も険しい顔をしていた。
「一度だけ、偶発的にだ」
「どこで」
「第三ラボの襲撃の場に私もいた」
沙羅が白状すると、崚介は顔をしかめた。
「あのとき君も?」
「襲撃って……それ、銃も出てくるやつ?」
誠也がまた非難めいた視線を送ってくる。
「まあ、そうだな」
肯定すると、誠也は「まったくアメリカは」とぶつくさ言った。どちらかというと、その場にいた沙羅を非難しているようだ。
「ナーヴェはドラッグの開発や製造のためのラボをいくつか持っていて、第三ラボはアスモデウスの開発を行っていた。そうした拠点が敵組織の襲撃を受けることはたまにあって、あの日もそうだった。銃撃戦が起きて手榴弾も使われた。開発中の薬品が飛散して、施設にいた多くの人間がオーバードーズで重篤な症状を引き起こした。あの惨状は予想をはるかに超えていたよ。止められるならそうすべきだった」
五年経ってもあの光景が目に焼き付いて忘れられない。捜査官としてあれを止められなかったことはいくら悔いても悔やみきれなかった。
「君はなぜあそこに」
「DEAはあの襲撃の情報を捉えていたんだ。私はDEAの介入を進言したが聞き入れられず、むしろ混乱に乗じてサンプルを奪取するよう命令された」
「FBIも情報を掴んで突入作戦が動いていたが、間に合わなかった。情報を掴んだのが直前だったからだ。大方DEAも同じ理由だったんじゃないか」
思いがけず肯定的な言葉をかけられる。だが少しも慰めにならなかった。
「ああ。間に合わないと判断され、一番近くにいた私ならばとサンプル奪取の命令が下った。それでも襲撃には間に合わなかったから、DEAの判断は間違っていなかったんだろう。でもあの惨状を思い出すと、今でも辛くなる」
突然の銃撃、飛散した薬物の過剰摂取で訳も分からず命を落としたもの、正気を失って手当たり次第に性行為に及ぶもの。屍姦する者さえいた。
「俺は突入隊に先行して現場にいたが、君がいたとは知らなかったな。君は本当になんともなかったのか」
「まったく、とは言えなかったけれどね。多少体が火照りはしたけれど、そのくらいで済んだよ」
それを聞いた崚介は、まるで化け物でも見るような目を向けた。
「マジかよ。サンプル奪取ってことは、ラボの保管庫に入ったんだろ? あそこもかなり酷かったって聞いたぞ」
「うん。私に影響が出るくらいだから、かなり強いドラッグなんだと驚いた」
ガチめに引いている様子の崚介に、誠也は「こういう人だから」と同情の目で言っていた。以前一緒に酒を飲んだときに同じ顔をされたことがある。沙羅の体質はアルコールにも有効なのか、酔っぱらったことがない。誠也が実家に同僚の警察官たちを招いた際に引っ張り出され、いつの間にか酒豪を自称する全員を潰してしまったことがあった。
「これが本当なら、十分狙われる理由になる。実験体としてひどい扱いをされてもおかしくない」
「潜入中は隠していたんだが」
「襲撃の日に君を目撃した奴がいたのかもしれない。あの少し後だったろう。君が姿を消したのは」
沙羅は曖昧に頷いた。
「とにかく、ザックって奴の狙いが沙羅さんの体質だっていうのなら、沙羅さんに捜査協力は無理だよ」
誠也が言うと、崚介は口元に手を当てて少し考えた。
やがて納得したのか、残念そうに微笑んだ。
「そうだな。時間を取らせて悪かった」
「いや。力になれなくてすまない。無駄足だったな」
そう言葉をかけると、予想に反して崚介は表情を和ませた。
「この五年間、君が攫われたり殺されたりしたんじゃないかと心配していた。元気な顔が見られてよかったよ」
「ありがとう。おかげさまで幸せだよ。私も久しぶりに会えて嬉しかった」
「今は小説家だったか?」
「ああ」
「なんだか似合うな。裏組織の構成員や捜査官よりずっと」
「そうかな?」
「余暇の予定を聞くと大抵『読書』と言っていただろ。拠点でもたまに読んでいたし」
「あの場ではほとんど読んでいなかったけれどね」
拠点にいるときは潜入捜査官として情報が拾えないか、常に周囲に気を配っていた。そのため本を開いてもほとんどポーズだったのだ。だから内容を聞かれてもいいように、いつも読んだことのある本を持っていた。
「時々本当に読んでいただろう。声をかけても気づかれなかったことが何度かあった」
「そ、そうだったかな」
指摘されて、少し動揺した。捜査官としての本分を蔑ろにしていたつもりはなかったのに、本に夢中になっていたときは確かにあった。同じ捜査官にそれを気づかれていたのは恥とも言える。
「あの頃から執筆を?」
「いや。帰国してからだよ。妊婦が新たな職を得るのは難しいから、最初は知り合いの伝手で翻訳の仕事をしたんだ。簡単なものからね。そのうち自分でも書いてみようという気になって、いつの間にかこうなっていた。娘の側にいられる仕事でよかった。私は幸運だ」
大変だったけれど、本当に幸運だったと思う。つわりも軽い方で、妊娠中から色々と動けたのも大きかった。
崚介は眩しそうに目を細めた。
「君は変わらず美しいな」
「なんだ唐突に」
「そう思ったからそう言っただけだ」
冗談を言われたのかと思ったが、そんな様子はない。笑みを浮かべる崚介に、沙羅はいたたまれなくなった。
それは側で聞いていた誠也も同じだったようだ。
「欧米人ってほんとにすっげーナチュラルに褒めるよね……恥ずかしくないのかな」
誠也の呟きに沙羅も大いに同意する。聞き取れているはずだが共感はできなかったらしく、崚介だけが少し不思議そうな顔をしていた。
崚介とは駅前で別れることにした。
「さよならだ。もう会うこともないだろう」
崚介が右手を差し出す。沙羅はそれを握って笑顔を作った。
「元気で。コールマン捜査官」
「できれば崚介と。日本で暮らしたこともないが、日本人らしいこの名を結構気に入っているんだ」
「ああ。さよなら、崚介。元気で」
「シズカ……いや、沙羅も」
握手を終え、沙羅は背を向ける。温もりが離れた手が、急に冷えていくような気がして切なかった。
その様子を見ていた誠也は、後ろの崚介を気にしながら沙羅に尋ねた。
「良かったの? 沙羅さん」
「何が?」
「だって沙羅さん、あの人と」
言い募る弟の言葉を遮るように「悪いが」と切り出した。
「悪いが、怜を一晩実家で預かってくれないか。今夜は……明日のパーティの準備をしなくちゃ」
姉の様子から何かを察したのか、誠也は言おうとしていたことを噤んだ。
「うん、わかった。朔さんに連絡して迎えに」
「……っ沙羅‼」
崚介の声がした。
振り返ったそのとき、やけに激しいエンジン音が迫ってくる。
「沙羅さん‼」
スピードを上げたトラックが突っ込んできた。状況を理解するよりも先に突き飛ばされる。遅れて耳に届いた轟音。
一瞬耳が遠くなった。
「きゃーっ」
悲鳴が耳に届いて、音が戻ってくる。
駅舎に突っ込んだトラック。傍らに倒れているのは――。
「……っ誠也‼」
トラックは運転席部分が半分ほど潰れていた。誠也は跳ねられたのか、少し離れたところにうつ伏せで倒れている。血が出ていて、足が変な方向に曲がっているのが見えた。
そこへ駆け寄ってきた崚介が、半ば放心している沙羅の両肩を掴んで揺さぶった。
「沙羅! 怪我は⁉」
「リッ……私は、私はなんともない。せい、せ、誠也が」
「救急車を早く! 日本は何番だ⁉」
咄嗟に動けなくなっていた沙羅は、崚介の言葉でスマホを手にした。それを見て崚介は誠也に駆け寄っていく。沙羅はその場にへたり込んだまま、震える手で電話をかけた。
「なぜ彼がここに? 君と彼との関係は?」
同席している誠也を見て、崚介が腕組みをしながら不機嫌そうに聞いた。彼の長い脚では、カラオケボックスの低いソファは居心地が悪そうだ。
「誠也は私の弟だ。日本の警察官でもある。信用していい」
「俺は君と二人で話したい」
「あなたの身元確認はしたが、それでも警戒を解けというのは無理だ。あなただってわかっているだろう」
崚介の身元は大使館に問い合わせて確認した。不審がられたが、結局崚介本人が電話をかわりIDナンバーを提示することで教えてくれた。彼は現役のFBI捜査官だと。
「君の弟は君の過去をどれほど知っている?」
「私がDEAに勤務していたことは」
「沙羅さん、今、DEAって」
「うん。驚かないところを見ると、リチャード……いや、コールマン捜査官も知っていたようだね」
DEAとはアメリカ麻薬取締局の略称だ。サラは高校卒業後アメリカへ留学し、卒業後DEAに入局した。
「ふぅん、英語がわかるんだな。彼は君が潜入捜査をしていたことも?」
崚介の言葉に誠也が目を見開いた。
「今、潜入捜査って言った⁉ 沙羅さん、ずっと内勤だったって言ってたよね⁉」
沙羅は五年前麻薬密売組織に潜入することになり、シズカ・キサラギの偽名で組織の末端に所属していた。リチャードとはそこで出会ったのだ。
「すまない。潜入捜査のことは極秘だったから、話すわけにはいかなかった」
弟に謝罪すると、崚介が疑うような視線を向ける。
「本当に信用しているのか」
「もちろん。内容が内容だから話していなかっただけだよ。五年前の帰国当時、弟はまだ学生だったしね」
「日本の警察組織を、俺は信用していない」
「彼が警察官というのは身分と度胸の保証くらいに思ってくれ。今は私の家族として同席している。日本の警察組織に安易に情報を漏らしたりしない。させない。それくらい微妙な情報だと誠也もわかっているよ」
崚介をまっすぐに見つめてそう言うと、しぶしぶといった様子で頷いた。誠也に向かって釘を刺す。
「いいだろう。ただし彼女が言った通り、他言無用だ」
「分かっています」
誠也が頷く。沙羅は弟に向かってかつての立場を話した。
「五年前、私はアメリカの裏組織『ナーヴェ』に潜入していた。ナーヴェはイタリア語で『船』を意味する。イタリア系マフィアの流れを汲む組織で、かつて密輸で財を為したといわれている。その主な収入源は麻薬取引だ」
沙羅の説明に崚介が頷いた。崚介は誠也を気遣ってか日本語で話し始めた。
「もうわかっていると思うが、俺も潜入捜査官だ。FBIのな。当時君の正体は知らなかったが、五年前君が失踪したときは慌てたよ。君に証言を頼むつもりだったから」
「証言?」
「ザック・ブラウン」
これまた久しぶりに耳にした名に、妙に納得した。
「なるほど、FBIの狙いは彼か」
ひとりわからないという顔をする誠也が沙羅を見る。
「五年前の当時、ザックは組織のナンバー3だった」
「今はナンバー2だ」
崚介がすかさず訂正する。沙羅が潜入する数年前から幹部の顔触れや序列は変わっていなかった。序列が入れ替わっただけなのか、それとも死んだのか。ザックの性格や手口を知る者として、後者という気がしてくる。
「奴にはナーヴェが持つ麻薬の密輸ルートのほかにとある商売をしているという噂があった。メキシコのギャングと繋がっていて、麻薬を仕入れる代わりに武器の密輸を行っているらしいというものだ。私も半信半疑だったが、FBIの本命はそちらだったんだな」
ナーヴェとしての仕事ではなく、ザック・ブラウンの個人事業のようなものだ。沙羅が組織にいた当時は噂の域を出なかったが、FBIが動くということはかなり確度の高い情報なのだろう。
沙羅の言葉に崚介が頷く。
「そうだ。その情報が欲しい」
「まさかその証言を私に? 噂以上のことは知らないぞ」
「それは本当か?」
「どういう意味だ」
「五年前君が失踪した後、ザックは躍起になって君を探していた。FBIは君が奴やナーヴェに消されたんじゃないかと焦ったが、様子を見るにどうもそうではない。俺は重要な機密を握った君が、身の安全のために組織から逃げたんだと思っていた。それからずっと君を探していた」
「五年間も、ずっと?」
「そうだ。君が失踪して二年ほど経って、シズカ・キサラギが亡くなっていることを突き止めた。救えなかったと一度は絶望したよ。けれどそれは君じゃなかった」
DEAが沙羅に用意したのは、実在した如月静佳という日本人留学生の身分だった。本物の静佳は麻薬犯罪に巻き込まれ、五年前の当時はすでに亡くなっていた。
「そこまで調べたのか」
静佳の事件は沙羅の潜入のために記録が秘匿された。事件そのものを抹消することはできなくとも、写真や個人を特定できるような情報は厳重に管理されていたはずだ。
「シズカの友人を見つけたんだ。写真を見せてもらったが、君はどこにも写っていなかった」
「なるほど。優秀な捜査官のようだな」
「そうでもないさ。君の名前も何もわからなくて、それで手詰まりになった。日本に帰国していることも考えて調べたが、俺が持つ情報だけじゃそれらしい人間が多すぎて絞り込めなかった」
「じゃあどうやって私がここにいると」
「偶然だ」
「そんなの信じられるわけないでしょう」
言ったのは誠也だった。
「本当だ。ナーヴェは次のマーケットに日本を選んだ。俺はジャパニーズ極道に挨拶に来たのさ。シズカの手がかりは何もなかったが、昔話してくれたことがあっただろ。日本の桜の美しさを。俺もルーツは日本だし、気まぐれに上野に見に行ったんだ」
「あっ……」
沙羅と誠也は異口同音に声を上げた。先週娘と三人で訪れたところだった。
「偶然君を見かけて、サラと呼ばれていた。それでFBIに調べさせた。そしてサラ・カンザキという女性が見つかった。十八で日本からアメリカへ留学、大学卒業後DEAに入局するもその後の経歴は一切不明。だが五年前、成田行の乗客リストに載っていた。君がDEAの潜入捜査官だとしたらすべての辻褄が合う。君だと思った」
五年も経って、何の因果だろう。崚介は手がかりなどほとんど持っていなかったのに、同じ日の同じ時間に居合わせただなんて。それにあの日上野恩賜公園にいた人間は少なくなかった。その中で気づいたのか。沙羅は気づかなかったのに。
「神崎沙羅。二十九歳。結婚歴なし。職業不明。四歳になる娘と都内高級タワーマンションで二人暮らし。相変わらず謎が多いな。本当に一般人か?」
「今はただの小説家だ。ペンネームを使っているからまだ調べ切れていないんだろうが、FBIの情報部もすぐ突き止めると思うよ。幸運なことに出産直後にヒット作に恵まれてね。そのときの印税のほとんどをあのマンションにつぎ込んだ。贅沢をしたかったわけではないけれど、セキュリティ面は妥協したくなかったから。帰国してからナーヴェの人間と接触はないが、それでも娘に万が一のことがないように」
「時期から見て、帰国したきっかけは妊娠か」
迷いがないわけではなかったが、沙羅は正直に頷くことにした。
「そうだ」
「父親は」
「黙秘権を行使する」
沙羅の言葉に、崚介が表情を少し曇らせた。
「ザックか」
「え?」
誠也が声を上げ、顔色を変えて沙羅を見る。対照的に沙羅は笑みを浮かべた。わざとではなく、つい零れた。滑稽だったからだ。
「そうか。あなたは私がすでに奴の愛人だったと考えているんだな」
「沙羅さん。どういう意味」
それに答えたのは崚介だった。
「女性捜査官が潜入するのは、大抵がハニートラップを仕掛けるためだ。君も例外じゃなく、DEAからザックの愛人になるよう命令されていたんだな」
「そうだよ」
「沙羅さん……!」
肯定すると誠也が子どものような顔をした。怜の父親のことは誰にも話していない。そのことですでに散々気を揉ませた。不安にさせたかった訳じゃない。
「そうだな、ザックとのことだけは否定しておこうか」
「本当に?」
崚介と誠也の声が重なる。沙羅は「本当だ」と答えた。
「私は命令を実行途中で奴を誘惑していた。だが奴の寝室に呼ばれる少し前に妊娠に気づいた。自分から『愛人になりたい』と匂わせたわけだし、もう穏便に済ませられる状況じゃなかったんだ。だから逃げるように帰国した。――信じられない?」
崚介は少し考える素振りを見せたが、ほとんど間を置かずに首を振った。
「いや。君がそういう嘘をつくタイプとは思わない」
「ありがとう」
「あいつの愛人は何人かいるが、そのどれもが裏家業の女たちでザックに忠誠を誓っている。それに君を加えようというんだから、よっぽどうまく誘惑したんだな」
「東洋人が珍しかったのか、奴から誘いをかけてきた。最初はかわしていたんだ。DEAからも当初は奴を警戒するように命令されていたから」
「そうだったのか。まあ、わかる気がする」
納得する崚介に、誠也が複雑な表情をしている。身内に話すのもどうかとは思うが、もう子どもじゃない。
「ザックは警戒心が強い。特に女性に関しては、長年の愛人がほとんどだ。気まぐれに手を出した女はほとんどが薬漬けにされて部下に下げ渡されるか、娼婦のようなことをさせられている。いずれにせよ正気を保てないと思ったほうがいい」
崚介の説明に、誠也が苦虫を噛み潰したような顔をする。そのまま心配そうに沙羅を見た。
「そういう理由からザックへのハニートラップはないはずだった。だが誘いを交わし続ける私に奴は『愛人にしてやろうか』と言ったんだ。私も驚いたよ。DEAにとっては千載一遇のチャンスだった」
「そんな男に沙羅さんを」
一人納得のいかない様子の誠也に、沙羅は説明した。
「やつの情報があればナーヴェだけでなく、メキシコの麻薬カルテルの一斉摘発することだって夢じゃなかった。噂が本当なら武器商人としての情報も引き出せたかもしれない。それに一夜の娼婦ではなく愛人であれば、薬漬けにされる危険は少ない。あれでも愛人たちには気を配っているようだったからね。DEAの判断は間違っていないよ」
「女の人を犠牲に犯人逮捕なんて、どこが間違ってないんだよ⁉」
「少しの犠牲で多数を助ける。あの国は合理的なんだ。その機会を私は台無しにした。裏切者……いや、テロリストとして処罰されてもおかしくなかった。私の退職と帰国を認めただけでもかなりの温情だったよ」
誠也の説得のためではなく、心の底からそう思う。当時の上司からは厳しいことを言われもしたが、そのおかげでこうして日本で出産し、娘を育てている。
「FBIの狙いはまさにその一斉摘発だ。君にその手伝いをしてほしい」
「それができるならDEAを辞めるときにしていた。私に何をさせたいんだ、コールマン捜査官」
「本当に何も知らないのか。君が消えたときのザックの様子は尋常じゃなかった。奴は今も密かに君を探させている」
「そんな馬鹿な」
人探しは時間も手間も金もかかる。五年も経てば忘れられていると思っていたのに。当時末端の構成員だったシズカにそれほどの労力をかける理由がわかない。
「私自身そうとは気づかず何かの情報を持っている、ということか? しかし……」
「沙羅さん。沙羅さんの体質そのものが目的だった、てことない?」
誠也の心配に、沙羅は「まさか」と否定的な気持ちになった。ナーヴェがそれを知っていた筈がないからだ。
「君の体質っていうのは?」
崚介が当然の疑問を口にする。もう捜査官でもないし隠すこともないだろうと沙羅は打ち明けた。
「私はあらゆる薬物への耐性が異常に高い。DEAが私を潜入捜査官に選んだのもそれが理由の一つだ」
「薬物耐性? それはつまりどういうことだ?」
「ドラッグへの耐性が高く、ほとんど効かないんだ。つまりジャンキーになりにくい」
崚介が目を瞠った。
潜入中はどうしてもドラッグの危険に晒される。不本意に摂取させられた場合でも理性を失わず体調を損なわず、任務遂行できるというのが沙羅の強みだった。
「まあ、治療薬も効きにくいわけだからデメリットも大きいけれど」
捜査官でなくなった今となっては厄介な体質でしかないが、崚介は顔色を変えた。
「それかもしれない」
「え?」
「『アスモデウス』を覚えているか」
崚介が口にした名に、今度は沙羅が表情を変えた。苦い記憶がよみがえる。
「……もちろん」
「あすも……何?」
馴染みのない単語に誠也が眉を寄せた。そんな弟に沙羅が答える。
「アスモデウス。性欲を司る悪魔の名がついたドラッグだ。要するにセックスドラッグだよ」
「せっ」
誠也が頬を赤らめた。そちら方面にはまだまだ初心らしい。二十四という年齢でそれはどう取ればいいのか、姉としては安心も不安も感じて少々複雑だ。
とはいえ今は関係のないことなので、弟の動揺に気づかないふりをして話を続ける。
「五年前ナーヴェが開発中だったものだが、あれは危険過ぎた」
沙羅が組織に潜入した理由もアスモデウスだった。
「当時アメリカで、性行為の前後に突然死亡する事件が数件報告された。いずれも急激に血圧が上がったことに起因するショック死だった」
いわゆる腹上死というわけだが、それが急激に増えた時期があったのだ。
「脳出血を起こしたり、心臓に大きな負担がかかったりしたらしい。体中の数か所で内出血が起こし、体外への出血が認められた例もあったそうだ。そして内数名は麻薬中毒者だった。当時流通していたドラッグに類似するものはなかったが、FBIの捜査の結果、新種のドラッグの人体実験によるものではないかと思われた。それでDEAに情報がきたんだ。DEAはそのドラッグを開発しているのがナーヴェだと突き止め、私を送り込んだ。想像以上に危険なドラッグだった」
沙羅の言葉に崚介も頷く。
「ああ。一時的に強烈な快楽をもたらすが、危険性と依存性が高すぎる。たった一回の服用で死んだ例もある。五年経っても改良に難航しているんだ。君のその薬物耐性の謎が解明できれば、ドラッグの改良に大きく貢献することになるとザックは考えているのかもしれない」
「あり得る話かもしれないが、ザックが私の体質を知っていたなんて」
「アスモデウスを摂取したことは?」
崚介の質問に咄嗟に返事ができなかった。
「あるの⁉」
誠也が心配そうに声を上げる。尋ねた崚介本人も険しい顔をしていた。
「一度だけ、偶発的にだ」
「どこで」
「第三ラボの襲撃の場に私もいた」
沙羅が白状すると、崚介は顔をしかめた。
「あのとき君も?」
「襲撃って……それ、銃も出てくるやつ?」
誠也がまた非難めいた視線を送ってくる。
「まあ、そうだな」
肯定すると、誠也は「まったくアメリカは」とぶつくさ言った。どちらかというと、その場にいた沙羅を非難しているようだ。
「ナーヴェはドラッグの開発や製造のためのラボをいくつか持っていて、第三ラボはアスモデウスの開発を行っていた。そうした拠点が敵組織の襲撃を受けることはたまにあって、あの日もそうだった。銃撃戦が起きて手榴弾も使われた。開発中の薬品が飛散して、施設にいた多くの人間がオーバードーズで重篤な症状を引き起こした。あの惨状は予想をはるかに超えていたよ。止められるならそうすべきだった」
五年経ってもあの光景が目に焼き付いて忘れられない。捜査官としてあれを止められなかったことはいくら悔いても悔やみきれなかった。
「君はなぜあそこに」
「DEAはあの襲撃の情報を捉えていたんだ。私はDEAの介入を進言したが聞き入れられず、むしろ混乱に乗じてサンプルを奪取するよう命令された」
「FBIも情報を掴んで突入作戦が動いていたが、間に合わなかった。情報を掴んだのが直前だったからだ。大方DEAも同じ理由だったんじゃないか」
思いがけず肯定的な言葉をかけられる。だが少しも慰めにならなかった。
「ああ。間に合わないと判断され、一番近くにいた私ならばとサンプル奪取の命令が下った。それでも襲撃には間に合わなかったから、DEAの判断は間違っていなかったんだろう。でもあの惨状を思い出すと、今でも辛くなる」
突然の銃撃、飛散した薬物の過剰摂取で訳も分からず命を落としたもの、正気を失って手当たり次第に性行為に及ぶもの。屍姦する者さえいた。
「俺は突入隊に先行して現場にいたが、君がいたとは知らなかったな。君は本当になんともなかったのか」
「まったく、とは言えなかったけれどね。多少体が火照りはしたけれど、そのくらいで済んだよ」
それを聞いた崚介は、まるで化け物でも見るような目を向けた。
「マジかよ。サンプル奪取ってことは、ラボの保管庫に入ったんだろ? あそこもかなり酷かったって聞いたぞ」
「うん。私に影響が出るくらいだから、かなり強いドラッグなんだと驚いた」
ガチめに引いている様子の崚介に、誠也は「こういう人だから」と同情の目で言っていた。以前一緒に酒を飲んだときに同じ顔をされたことがある。沙羅の体質はアルコールにも有効なのか、酔っぱらったことがない。誠也が実家に同僚の警察官たちを招いた際に引っ張り出され、いつの間にか酒豪を自称する全員を潰してしまったことがあった。
「これが本当なら、十分狙われる理由になる。実験体としてひどい扱いをされてもおかしくない」
「潜入中は隠していたんだが」
「襲撃の日に君を目撃した奴がいたのかもしれない。あの少し後だったろう。君が姿を消したのは」
沙羅は曖昧に頷いた。
「とにかく、ザックって奴の狙いが沙羅さんの体質だっていうのなら、沙羅さんに捜査協力は無理だよ」
誠也が言うと、崚介は口元に手を当てて少し考えた。
やがて納得したのか、残念そうに微笑んだ。
「そうだな。時間を取らせて悪かった」
「いや。力になれなくてすまない。無駄足だったな」
そう言葉をかけると、予想に反して崚介は表情を和ませた。
「この五年間、君が攫われたり殺されたりしたんじゃないかと心配していた。元気な顔が見られてよかったよ」
「ありがとう。おかげさまで幸せだよ。私も久しぶりに会えて嬉しかった」
「今は小説家だったか?」
「ああ」
「なんだか似合うな。裏組織の構成員や捜査官よりずっと」
「そうかな?」
「余暇の予定を聞くと大抵『読書』と言っていただろ。拠点でもたまに読んでいたし」
「あの場ではほとんど読んでいなかったけれどね」
拠点にいるときは潜入捜査官として情報が拾えないか、常に周囲に気を配っていた。そのため本を開いてもほとんどポーズだったのだ。だから内容を聞かれてもいいように、いつも読んだことのある本を持っていた。
「時々本当に読んでいただろう。声をかけても気づかれなかったことが何度かあった」
「そ、そうだったかな」
指摘されて、少し動揺した。捜査官としての本分を蔑ろにしていたつもりはなかったのに、本に夢中になっていたときは確かにあった。同じ捜査官にそれを気づかれていたのは恥とも言える。
「あの頃から執筆を?」
「いや。帰国してからだよ。妊婦が新たな職を得るのは難しいから、最初は知り合いの伝手で翻訳の仕事をしたんだ。簡単なものからね。そのうち自分でも書いてみようという気になって、いつの間にかこうなっていた。娘の側にいられる仕事でよかった。私は幸運だ」
大変だったけれど、本当に幸運だったと思う。つわりも軽い方で、妊娠中から色々と動けたのも大きかった。
崚介は眩しそうに目を細めた。
「君は変わらず美しいな」
「なんだ唐突に」
「そう思ったからそう言っただけだ」
冗談を言われたのかと思ったが、そんな様子はない。笑みを浮かべる崚介に、沙羅はいたたまれなくなった。
それは側で聞いていた誠也も同じだったようだ。
「欧米人ってほんとにすっげーナチュラルに褒めるよね……恥ずかしくないのかな」
誠也の呟きに沙羅も大いに同意する。聞き取れているはずだが共感はできなかったらしく、崚介だけが少し不思議そうな顔をしていた。
崚介とは駅前で別れることにした。
「さよならだ。もう会うこともないだろう」
崚介が右手を差し出す。沙羅はそれを握って笑顔を作った。
「元気で。コールマン捜査官」
「できれば崚介と。日本で暮らしたこともないが、日本人らしいこの名を結構気に入っているんだ」
「ああ。さよなら、崚介。元気で」
「シズカ……いや、沙羅も」
握手を終え、沙羅は背を向ける。温もりが離れた手が、急に冷えていくような気がして切なかった。
その様子を見ていた誠也は、後ろの崚介を気にしながら沙羅に尋ねた。
「良かったの? 沙羅さん」
「何が?」
「だって沙羅さん、あの人と」
言い募る弟の言葉を遮るように「悪いが」と切り出した。
「悪いが、怜を一晩実家で預かってくれないか。今夜は……明日のパーティの準備をしなくちゃ」
姉の様子から何かを察したのか、誠也は言おうとしていたことを噤んだ。
「うん、わかった。朔さんに連絡して迎えに」
「……っ沙羅‼」
崚介の声がした。
振り返ったそのとき、やけに激しいエンジン音が迫ってくる。
「沙羅さん‼」
スピードを上げたトラックが突っ込んできた。状況を理解するよりも先に突き飛ばされる。遅れて耳に届いた轟音。
一瞬耳が遠くなった。
「きゃーっ」
悲鳴が耳に届いて、音が戻ってくる。
駅舎に突っ込んだトラック。傍らに倒れているのは――。
「……っ誠也‼」
トラックは運転席部分が半分ほど潰れていた。誠也は跳ねられたのか、少し離れたところにうつ伏せで倒れている。血が出ていて、足が変な方向に曲がっているのが見えた。
そこへ駆け寄ってきた崚介が、半ば放心している沙羅の両肩を掴んで揺さぶった。
「沙羅! 怪我は⁉」
「リッ……私は、私はなんともない。せい、せ、誠也が」
「救急車を早く! 日本は何番だ⁉」
咄嗟に動けなくなっていた沙羅は、崚介の言葉でスマホを手にした。それを見て崚介は誠也に駆け寄っていく。沙羅はその場にへたり込んだまま、震える手で電話をかけた。
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