アスモデウスの悪戯

ミナト碧依

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13.研究者・早坂さおり

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 結果として、朔人さくとはカルテを開示した。
 彼にどこまでの情報を渡すかは問題だったが、秘密保持契約を結び、沙羅さらがFBIの庇護下にあることだけは伝えられたそうだ。
 それを聞いた朔人は意外にあっさりと了承した。ただメッセージを伝えたとき、朔人は「予想はしていた」とあまり動じなかったという。そして「聞けて安心した。教えてくれてありがとう」と。沙羅は拍子抜けした半面、朔人らしいとも思った。
 メールで送られてきたカルテを見たカレンは、見るなりぎょっとした。
「嘘、こんなに? ていうかあなたこの状態でよく出産なんてしたわね⁉」
「あー、うん。朔人にも相当心配された」
 薬が効きにくいということは麻酔薬の調節が困難ということだ。出産となると胎児への影響も考えねばならず、できれば帝王切開は避けたいと妊娠初期から言われていた。結果的に経膣分娩で出産できたのはほっとした。
「これもこれも……うわ、こんなのよく調べたわね。日本じゃ違法なんじゃない?」
 カレンが示したのは覚せい剤の成分だった。
「DEAにいたころに調べたものだ。特別な許可を取ってね。私から頼んだんだけど、朔人には随分渋られた」
「すごいわあなた。治療という点では本当に大変でしょうけど、これほど麻薬捜査官にぴったりな人材もいないわね」
 カルテを見ながらカレンの顔が次第にわくわくしていく。正直新鮮な反応だ。大抵は沙羅の体質の異常さに羨望を通り越して憐憫を抱くものだから。それくらい、沙羅の体質は厄介なのだ。
「楽しそうだな」
 不意に馴染んだ声がして振り向くと、崚介りょうすけが立っていた。
「リョウ! 珍しいわね、こんなに頻繁に顔を見せるなんて」
 言いながらカレンが崚介にハグをする。それに応えながら、崚介は「ちょっと野暮用で」と言った。五日ぶりの再会で沙羅にとっては随分久しぶりに思えたが、潜入捜査官にとっては短いスパンだろう。連絡は取り合っているが、元気そうな顔が見られてほっとする。
 ハグを終えて沙羅を見た崚介は、案じるように尋ねた。
「体調は平気か?」
「うん。今のところ後遺症もないし、問題ないだろうってカレンが」
「怪我はどうだ」
 怪我というほどのことはなかったが、裸足で飛び出したために足の裏には傷ができてしまった。汚れもあって崚介には実際より重症に見えたようで、かなり心配された。意外と心配性である。
「もう治ったよ」
「嘘つけ。まだ首筋が赤い」
「え、どこ?」
 嘘を言ったつもりのなかった沙羅は素で驚いた。
「うなじの左側だ」
 一瞬キスマークの類かと不快感が呼び起こされたが、崚介がそれを否定してくれた。
「多分、ネックレスのチェーンの痕だと思う。細い線上の傷だが、ナイフにしては荒い。だから治りが悪いんじゃないか」
「あ……引きちぎられたから」
 シャワーの時に少し染みた気もしたが、見えないので気のせいかと思っていた。まさか傷があったとは。ザックに襲われたときのものに違いないが、不快感が随分やわらぐ。
 沙羅は自分が情けなくなった。ザックは死んだし、あの襲撃がなかったら最後まで犯されていたはずだ。未遂で済んだのに、まだこんなにも引きずっている。
 そんなネガティヴな感情から目をそらすように、沙羅は話題を変えた。
「今日はどうしてこっちに?」
「いくつか報告ついでに寄っただけだ。ナーヴェで休暇を取らされたんでな。数日はこっちにいる」
「休暇?」
「東京でも一応休暇を取るはずだったのが、中断させられたからな。その穴埋めで」
「随分ホワイトな職場ね」
 カレンの皮肉に崚介が両手を広げて同意する。
「まったくだ。まあ表向きはザックの葬儀も終わっての慰労ってことで、俺以外にも多くが休暇を出されてる」
 その言葉に沙羅は違和感を覚えた。
「一斉に? なんだか気になるな」
「だろ。多分、ザックの持つ武器密売ルートの契約再締結をするんじゃないかと見込んでる」
 それを聞いたカレンが顔色を変える。
「その報告に来たのね。あなたは行かなくていいの?」
「呼ばれてない商談に行く訳にはいかない。探るにしても、俺は面が割れてるから駄目だ。正直に言うと、確かな情報が掴めなくてな。今は沙羅がいるし、アスモデウスの件を確実に進めることになった。今回は大人しくしてるよ」
 崚介の本命はザックの武器密売ルートの摘発だったはずだ。それがアスモデウスの件を優先しろとは、随分悔しいだろう。
「それで機嫌が悪かったのか」
 沙羅が指摘すると、カレンがきょとんとした。崚介も似たような表情をする。
「え? 悪かったの? 機嫌」
「リチャード……崚介は昔から、苛つくと煙草を折るから」
 崚介の指先に煙草の屑がついていた。指摘されたほうも驚いている。
「これはさっき吸ってたのを消したときについたんだ」
「その屑は燃えカスじゃない。煙草をねじ消したときにつくのは煤や燃え殻だろう。消すときに折ったから、まだ燃えていない部分の屑がついたんだ。普段はねじ消すだけだが、あなたは機嫌が悪い時だけ煙草を折ってから消してる。昔からたまにやってるぞ?」
 思い当たることがあったのが、崚介ははっとした。
「……気を付ける」
 沙羅は別にいいのにと思ったが、確かに捜査官としては良くないのかもしれない。大したことではないだろうが、どこで痕跡を残すかわからないからだ。
「サラにかかればリョウも形無しね」
「さっきからなにを読んでるんだ」
 カレンにからかわれて、崚介はあからさまに話題を変えた。
「日本から取り寄せたサラのカルテと研究資料よ」
「というと天谷氏から?」
 名前を憶えていたんだなと思いながら、沙羅は頷いた。
「うん。私がFBIに保護されていることは伝えたらしい。一応は待ってくれるみたいだ」
 朔人の行動力については、日本を出る際に崚介には話していた。それを聞いた崚介は少しほっとした表情を見せる。朔人は様々な事情を知っているとはいえ一般人だ。武道を嗜んでいたこともあるがせいぜい護身術程度だし、巻き込みたくない。
 カレンは朔人による沙羅のカルテを興味深そうに読み入っていた。
「無数の薬の組み合わせを試してる。すごいわ。かなりの数の論文も参考にしてるし、勉強家なのね彼。……あ」
「どうした?」
 急に声を上げたカレンに、崚介が尋ねる。
「実はサラのこと誰かに似てるってずっと思ってたんだけど、誰だか思い出したの」
「私に似てる人?」
 沙羅も首を傾げた。
「サオリ・ハヤサカって研究者。ほら、ここに参考資料として名前が載ってるわ」
 思いがけない名に沙羅は少し動揺した。それに気づかず、カレンが話を続ける。
「同じ日本人だからそう思うのかしら。もう随分と前に亡くなった人だけど」
「へえ、俺たちが見ても似てるって思うかな。……沙羅?」
 動揺に気づいた崚介が、心配そうに沙羅を見る。我に返った沙羅は、なんとか口元に笑みを浮かべた。
「あ……、それは私の母だ」
「え、そうなの?」
「まさか亡くなって十九年も経って母を知っている人に会うとは思わなかったな」
 それに朔人が母の研究資料を参考にしていたのを初めて知った。秘密にしたわけではないだろうが、沙羅に気を遣って言わなかったのだろう。
「もちろん直接は知らないわ。学生時代、彼女の論文を読んだことがあるの。研究チームの写真も載ってたから。あら? でもこの間、お父さんの話してたわよね」
「どういう意味だ」
 話が繋がらない様子の崚介が尋ねたが、カレンは言いよどむ。FBIはそこまでは調べていなかったのだと気づいた。沙羅は崚介に打ち明けることにした。
「両親はアメリカの研究機関に勤めていたんだけれど、実験中の事故で二人とも亡くなったんだ」
 それを聞いた崚介が、返事にワンテンポ遅れる。
「そうか。それは、悪いことを聞いた」
 気まずそうに言う崚介に沙羅は「もう昔のことだから」と笑ってみせた。
「それまでは両親とこっちで暮らしていたんだ。両親の死後、十歳のときに神崎かんざき家に引き取られた。この間話した父は神崎の父のことだよ」
「じゃあ里親なのね」
「他人という訳でもないんだ。神崎家は母の実家だから。神崎の……父が、早坂はやさかの母の兄で」
 神崎の両親を伯父夫婦と呼ぶのには抵抗がある。沙羅にとってはどちらも大事な両親だからだ。もうすでに、神崎の娘になってからの人生の方が長い。
誠也せいやとあまり姉弟らしくなかった理由がわかった」
「そう?」
「日本人はあまり年上の兄弟を名前で呼ばないだろ」
 崚介の指摘はもっともだ。沙羅もそれは感じているから。
「昔は『お姉ちゃん』と読んで懐いてくれたよ」
 両親を亡くしたとき沙羅は十歳だった。子どもだが色々と理解もできる歳だ。それにアメリカ住まいだった早坂家は日本の神崎家との交流がなく、当時沙羅にとって彼らはほぼ他人。日本での生活に馴染むのには時間がかかった。神崎の両親には随分迷惑をかけたと思う。そんな中無邪気に慕ってくれる誠也には随分救われた。
 今ではとうに身長も抜かれてしまったが、幼い頃の誠也は小さくてやわらかくて、本当に可愛かった。思えば今の怜にも少し似ている。
「私が引き取られたとき彼は五歳だった。記憶できる年齢だったと思うけれど、当時は私が養女だと理解していなかったんだろうね。成長して理解が追い付いたのか、よそよそしくなった。私が留学して、彼が思春期の頃に離れて暮らしていたから……大学卒業前に一時帰国したとき、かなり他人行儀でちょっと傷ついたよ」
 初めて「沙羅さん」と呼ばれたときの寂しさは忘れられない。声変わりして記憶にあるものより随分低くなった声でそう呼ばれたときは、弟がまるで知らない人になったようだった。
「いとこ同士は結婚できるわよね」
 カレンの発言の意図がよくわからなかった。首を傾げると、崚介がつまらなそうに言う。
「だから誠也が、その……君に恋をしてるから姉ではなく女性として扱ってるんじゃないかってことだ」
「それは、わからないけど。『ない』よ。誠也は大事な弟だ」
 弟にしろ主治医にしろ魅力的な男性であるのは否定しないが、なんでもかんでも恋愛に結び付けられるのは少し困ってしまう。
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