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第1章

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 そこでようやく俺は夢から覚めた。
 いつもの見慣れた寝室で高校生としての平穏な日常に帰る事ができた。
 そう思って安堵していた俺の心に突然、他人の記憶が次々に湧き上がった。
 それは死の直前に見る人生の走馬灯の様だった。
 汚い中年男の人生の記憶が次々によみがえる。
 しばらくはその走馬灯の様な記憶の奔流ほんりゅうに、と言っても走馬灯の実物を見たことはないが、じっと耐えているだけだった。やがて記憶の沸き上がりがおさまると、のろのろと起き上がって鏡を見た。

 そこには、寝起きの腫れぼったいいつものような俺の顔が映っていた。
 自分が女子高生の姿のままだと安心した俺は、ベッドの上でこれからどうするかを考え始めた。時計を見るとハナの散歩の時間まではまだ余裕がある。
 そこで、この生々しい記憶が目が覚めた時にはなくなっているのを期待して、もう一度眠る事にした。
 どうか頭痛がしませんように、そう願いながら俺は目を閉じた。


 睡眠時間は十分なはずだったが、不思議なぐらいすぐに眠りに落ちた。
 そして、また夢を見た。
 そこはところどころ木が生えている野原だった。ぼんやりと明るく、遠くはぼやけてはっきり見えない。
 俺は夢だと自覚しながら夢の世界を歩いた。

 人の姿はなく、家も見えない。しばらく歩き回っていると、古い井戸のようなものが見えた。
 よく見るとその井戸からは兎の耳のようなものが突き出ていた。おかしな事もあると近づいてみると、こんどは兎の前足が一本出てきて、俺を手招きしている。
 ますます不思議に思ったが、夢の中の出来事なのだからと思い、深く考えずにさらに近づいていった。

 耳と片方の前足だけが井戸から出ていて、頭は隠れたままだが、こちらの様子がわかるのか、俺の歩みが遅くなるとせわしく前足を動かし、歩みを速めると安心したようにゆっくりとした動きになる。なんだか楽しくなってきて足取り軽く井戸に近づいて行った。


 井戸の縁を丸く囲む石組みにつまずかないように、少し距離をとって立ち止まった。
 すると突然耳と前足が引っ込み、かわって井戸の中から、長い触手の様なものが伸びてきて半回転すると、俺の体に巻き付いてきた。
 これはあの時のオオアリクイの舌!
 それに気が付いた時には体に何重にも巻き付いた舌に引っ張られ、俺の体は井戸の中に落ちていった。


 井戸の中は当然真っ暗だったが、不思議な事に底を通り抜け、再び明るくなったかと思うと穴の中から引きずり出されていた。そこはさっきの場所とは違う、森の中の開けた場所で、うすぼんやりとした明かりではなく、太陽の光がくっきりと影を生み出していた。
 穴を通り抜けると静かに俺の体をおろして舌は離れていった。自由を取り戻した俺が仰向けの姿勢から一度深く息をして、上半身を起こすと目の前に三人の人がいた。

 みんなフードのついた修道服の様な衣服を着て、俺に向かってひざまずき深く頭を下げている。
 どうやら三人とも女性らしい。そして奇妙な事に俺はその三人が人であり人以外の動物でもあると知覚していた。なぜかはわからないが、それはごく自然に認識できている。
 こちらから見て左側の初めて見る小柄な女性はコキンメフクロウ。その隣がさっき手を振っていたアナウサギ。一番右にいるのが前世の俺を殺したオオアリクイ。
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