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三月一日

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翌週、三月一日・月曜日は、卒業式だった。八分音符のエンブレムを背中襟につけた三年生が、俺たちの前に整列する。舞台上には演壇、その左右に校長・教頭・学年主任や来賓。そしてその後ろには全合唱部員六十五人の中から選ばれた三十人の合唱隊が並んでいる。見ればこの合唱隊は、奏を除く全員がト音記号のエンブレムをつけている二年生だ。四分休符の一年生で選抜されているのは奏のみ。さすが奏だ。舞台照明を浴びる奏の顔が誇らしげなのが、俺としても嬉しい。
「合唱隊、校歌合唱」
司会の先生の声が響く。奏がギュッとうつむいて歌に集中する。ピアノの短い前奏。引きしまった顔を上げた奏は大きく口を開いて息を吸い込んだ。頸動脈が浮かび、四分休符の前襟がぐっと上がる。そして奏は歌い出す。一心に歌う表情がかわいい。甘美なソプラノが、俺の席まで届いてくる。ああ、奏…。そしてふとそこから視線を移すと、黒髪を長く伸ばした佐伯の姿もある。でかい口を一層大きく開けて歌っている。また息が臭うんだろうなと思うと、ちんこに力が入ってきた。やがて合唱が終わる。校長の式辞、来賓の祝辞が、どちらも冗長に続く。あくびを噛み殺すのに労力が要った。
「卒業証書、授与」
三年生は一組から十組まである。卒業証書はそれぞれクラスの代表が一人で受け取る。合唱隊が校歌のハミングを添える。講堂内のあちこちから、鼻をすする音が聞こえてきた。まあ三年生に縁がある者にとっては、物寂しい光景だろう。卒業証書がすむと、送辞答辞だ。
「送辞。二年一組、坂口秀馬」
「はい」
黒セーラーを端正に着て、髪も整えてきた秀馬が立ち上がる。そして三年生の前に進み出ると、軽く一礼して送辞を読み始めた。いつ原稿を準備してきたのかわからないが、可もなく不可もない無難な内容の送辞を読んでいく。場内のすすり泣きが一層増え、三年生の答辞になって最高潮に達した。
「合唱隊、蛍の光、合唱」
奏の出番がまたやってきた。またギュッとうつむいた後、前奏に続いて歌い出す奏。大きく肩が上がる。確かに、他の部員全員が腹式呼吸の中で、一人だけ肩の動きがある奏は目立つかもしれない。だがこうして選抜メンバーの中に入れるほどの歌唱力を持っているのだから、呼吸は俺の好きな呼吸でいてくれればいい。蛍の光が終わると、卒業生が「仰げば尊し」を歌って退場し、続いて在校生も退場、式典が終わる。今日は授業も部活もなく、これで全員帰宅だ。短いホームルームがすんで、美咲・秀馬・佐伯とともに校庭に出る。そこにはまだ卒業生がたくさんいて、後輩たちと別れを惜しんでいた。
「あたし、ちょっと合唱部の先輩たちのとこ行ってくる」
「俺もバスケ部に挨拶するか」
そう言って佐伯と秀馬は卒業生のところに出かけた。見ると、いつの間にいたのか、奏も三年生たちと話をしている。校庭には、俺と美咲だけが残された。二人とも帰宅部なので、卒業生には縁がない。
「三年生、行っちゃったね」
「ああ。俺たちも、もうあと一年だ」
校庭の先輩後輩を俺たちは見やった。
「ねえ湊くん」
「うん?何だ美咲」
「来年の今日、私たち、どんな思い出を持ってこの場にいるんだろうね」
「そうだな…」
俺は天を仰いだ。三月の日差しが、柔らかく降り注いでいる。季節はもう春だった。奏と出会って、季節が一つ移ろっていく。
「正直、明日のことすら、わからない。一年先のことなんて、どうなることか」
「そうだね」
美咲も天を仰ぐ。吹き寄せる春風が、少し伸びて耳たぶが隠れかけたおかっぱを揺らす。
「ほんと、どうなるかわからないよね」
「ああ…」
奏と思いがけず再会して二ヶ月半、俺自身も、俺と美咲の関係も、大きく変わった。奏・美咲・俺の三角関係を保っていければと思ううち、宮入という余分極まるやつまで現れる。この先一体どうなるのか、まるで不透明だった。
「ねえ湊くん」
「どうした?」
美咲は空から目を戻すと、俺を真っ直ぐに見つめる。そして大きな口を、これまた大きく開いて息を深く吸い込む。飾りボタンのお腹が膨らんだ。
「湊くん。何があったって私、湊くんのそばにいる。卒業式ももちろん一緒。大学も同じところに行きたい。いいでしょう?」
「あ、ああ…」
大きくて深いブレスに裏打ちされた、美咲のはっきりとした物言い。土曜日にはアルファホテルに美咲を放り出してきたばかりだというのに、こんな言い方をされると、気持ちはまた美咲にぐらついてしまう。万が一にも宮入に奏を奪われたって、俺には美咲がいるからいいか。
「美咲…」
「湊くん…」
どちらからともなく手を伸ばし、俺たちは手を握りあった。そして見つめあう。かなり長い間、そうしていた。
「あ、いけない」
美咲が視線を外した。
「奏ちゃん、こっち来そう。私、帰るね」
美咲は俺から手を離すと、足下のカバンを取った。
「それじゃ湊くん、また明日」
「ああ、それじゃあな」
かわいらしく揃った襟足と、萌える背中ファスナーを見せて、美咲は帰っていった。入れ替わって奏がやってくる。俺の中のスイッチがカチリと切り替わり、頭の中が奏で満ちる。美咲?美咲じゃ代わりにならない。俺には奏だけだ。この変化を異常だと言う者がいるか。でもそれが俺なんだからしかたがない。俺に罪はない。
「お兄ぃちゃーん」
奏は俺に駆け寄って、腕にぶら下がった。その後から佐伯と秀馬も来る。
「お兄ちゃん、ボク、ステージで歌ったよ。聴いててくれたぁ?」
「もちろん聴いていたぞ。合唱隊で一年生、奏だけじゃないか。すごいぞ」
「えへへ」
俺たちに対抗しているのか、佐伯も秀馬の腕にぶら下がる。
「秀馬ぁ、あたしの歌も聴いててくれたよね」
「ああ、無論だ。よく声が出ていたと思う」
「えへへ」
えへへ、まで対抗せんでいい佐伯。…だが、そんな佐伯がかわいらしく見える。
「奏。ところで今日、呼び名には気をつけてただろうな。距離感も」
「う、うん…」
奏の顔から笑みが消える。
「宮入くん、いろいろ話しかけてきたけど、みんな『うん、ああ』ぐらいで応えたよ。それでもめげずにいろいろ話してきた」
「ふぅ…」
佐伯もため息をつく。土曜日のことは、今朝始業前に、教室で三人に話してある。
「悠司も往生際が悪ぃというか何というか。気の毒だけど脈全然ないの、わかりきってるだろうになー」
「ですよねー。ボクも困ってるんです」
「だから俺が今朝一年五組の教室でひと暴れしてやろうって言ったんだ」
そう吐き捨てる俺を、奏がなだめる。
「ダメだよお兄ちゃん、乱暴はダメ。宮入くんだって、悪気があってやってるわけじゃないんだから」
「悪気?十分すぎるくらいあるわっ」
「落ち着け湊」
脇から秀馬が言う。
「年下相手にムキになるな。奏ちゃんの気持ちを誰よりも知っているならな」
「ぐっ…。そう言いつつ、秀馬は宮入の味方なんだろう?」
「とも言っていない。土曜日の一件を聞く限りでは、宮入くんも一途すぎるところがなきにしもあらずだ。奏ちゃんを好きと言いながら、奏ちゃんを怖がらせている」
さすがの堅物秀馬もそう言う。それ見たことか宮入。
「あ、ライン来た」
奏のスマホにラインが着信する。案の定、宮入からだった。
「『奏、今日は合唱隊お疲れ様。奏の澄みきって正確な歌声、僕の席までビンビンに聴こえてきたよ。このソプラノを聴いているのは僕一人だなってしみじみ思った。また合唱部がんばろうね』」
「このソプラノを聴いているのは僕一人だと?畜生ーっ!奏、スマホ貸せっ」
俺はスマホを奏から取り上げようとした。
「ダメだよお兄ちゃん、既読無視って言ったのお兄ちゃんじゃない!」
「落ち着け松橋!反応すんじゃねぇ!」
秀馬が俺の腕を取る。
「やめろ湊。そうやってすぐアツくなるのが湊の悪いクセだ」
「くっ…。これがアツくならずにいられるかってんだ」
宮入のやつめ。土曜日に散々なことをしておいて、今日また奏にほとんど無視に近い状態になって、それでもこんなラインを抜け抜けと送りつけるなど、どんな精神構造をしているのだろう。俺の理解を超えている。俺にはとてもこんな図々しい真似はできない。
「奏。今日一日、宮入はずっとこんな調子か」
「うん」
奏はうなずいた。
「教室で一人でいるとあれこれ話しかけられるから、なるべく苗穂たちと一緒にいるようにはしたんだけどね。それでも、ボクたち四人の中に割って入ってくるの」
「何だと…。宮入の野郎、筋金入りの図々しさだな」
俺が吐き捨てる。
「苗穂も美玖も麗美子もいるのに、三人を差し置いて、ボクにだけ話しかけてさ…。正直、迷惑。それに…」
奏の顔に困惑の色が浮かんだ。
「それに?何だ奏…」
「それにね、そんなことしてたら苗穂が、どことなく悲しそうな顔してるように見えた。…いや、ボクの気のせいかもしれないけど」
苗穂が、悲しそうな顔?なんでだ?ひょっとして苗穂、まさか宮入のことを…?
「苗穂って、奏の友だちか?」
佐伯に尋ねられた奏が応える。
「そうです。クラスの同級生です」
「悠司が奏に話しかける脇で、悲しそうな顔ねぇ…。これはひょっとすると、ひょっとするかもな」
「え、でも」
奏は慌てた。あまりそういう事態を想像したくないのだろう。
「た、たぶんボクの気のせいですよ」
「だといいが」
秀馬が、重々しい口を開く。
「事はあまり、複雑になりすぎないほうがいい」

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