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四月八日

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四月八日・木曜日。始業式。俺と美咲、秀馬、佐伯は三年一組、奏は二年五組になる。星坂高校では、ホームルームのクラス替えは三年を通じて無い。これからのエンブレムは三年がト音記号、二年が四分休符、一年が八分音符だ。今日は午前中が式典及び事務連絡、昼食を挟んで午後が部活となっている。さて朝の登校路で奏は、しきりに苗穂のことを心配していた。その苗穂からはグループラインで『さあいよいよこの日がきた。朝イチで告る』と入ってきたという。
「もう今頃告ってるかもしんないね」
絆橋を渡りながら、奏はそうつぶやいた。
「うまくいくことを祈ろう」
「うん…」
昇降口まで来た。今年度からは、奏と階段を上り、二階で分かれ、俺は三階までいく。音楽室のあるこの階が、三年生のフロアだ。一組の教室に行くと、そこにはすでに美咲も佐伯も秀馬もいる。挨拶を交わし、三人の元へ行った。
「苗穂ちゃん、告白なんだってね」
美咲が開口一番に俺にそう言ってくる。苗穂のことは昨日ラインで三人に話してあった。
「松橋の希望通りに行くかぁ?いっかねーだろうなぁ」
「いかないなら徹底していかないのがいい。宮入じゃない、全然別のやつに告るとか。そんなら別に、うまくいこうがいくまいが構わん。宮入に告るんなら、うまくいってもらわなきゃ困る」
「事は複雑だな」と、秀馬。「それで、苗穂ちゃんはいつ告白するんだ?」
「今日の朝イチらしい」
「わぁ、どうなるんだろう。なんかワクワクするね」
美咲は一人ではしゃいでいた。こいつ、この前アルファホテルで俺を怒らせた台詞を、また言いそうな勢いだ。
「とにかく、だ。俺はこの一件で奏に不利益がいかないことを願うだけだ」
「もし苗穂ちゃんが悠司のこと好きで、悠司が苗穂ちゃんを振ったら、奏、ちょっと立場悪ぃな」
「ああ…」俺はうつむいた。「この十二月までさんざんいじめられてきて、ようやく星坂に入って友だちもできて部活も楽しめるようになって、というとこなのに、またここで人間関係が軋んではな…」
「まあ、ここであれこれ言っていてもしかたがない」
秀馬が、相変わらずの落ち着いた声で言う。
「恋は博打だ。吉と出るか凶と出るかは、蓋を開けるまでわからないものだ」
俺は虚空を見つめた。不安だった。奏の笑顔が曇ることのないように、そのソプラノが泣きじゃくることのないように、俺は祈った。

その日、式典は短く済んだが、学年始めの事務連絡は多く、終わったのは正午前だった。俺たちは普段、昼食は四人でカフェテリアでとる。奏は、美玖や麗美子、苗穂たちと一緒にパンを買い、教室で食べるのが習いだ。さて今日、俺たちはいつも通りにカフェテリアに出たが、そこで奏を目にする。テーブルの前にぽつんと一人でパンを食べていた。
「あれ、奏じゃないか…。なんで一人でいるんだ?」
「なんだ松橋。奏が一人でメシ食ってたらヘンか?」
「あいつさ、いつも昼食はパンで、苗穂たちと一緒に教室で食べてるんだ。こんなところに一人でいるなんておかしい。俺ちょっと奏のとこ行ってくる」
「あ、じゃああたしも行く」
俺と佐伯は二人して奏の元に行った。
「奏!」
俺たちに呼びかけられ、奏は伏せていた顔を上げた。その顔には元気がなかった。
「あ。お兄ちゃん。遥先輩も…」
「どうした奏。こんなとこに一人で。お昼はいつも苗穂たちと一緒だろ」
「お兄ちゃん…」
奏の細くて小さな褐色の瞳に、見る間に涙が盛り上がる。
「お兄ちゃん…遥先輩…ぐずっ、ひっく」
「どうした奏」
佐伯が奏の肩に手をかける。
「ぐずっ…ボク、苗穂たちに…嫌われ…ちゃった」
ああ、やっぱり。もうこの後の話は聞くまでもないくらいだ。だが一応聞いておく。俺たちは、奏の涙を拭いながら、その話を聞いた。それは次のようなものだった。

朝いちばんに教室にやってきた苗穂。ほぼそれに続いてやってきた宮入。廊下に宮入を連れ出し、思いの丈を告げる苗穂だったが、返事はノーだった。
「どうして?せめて理由を知りたい!」
「他に好きな人がいる」
「…奏でしょ。見てればわかるよ」
「その通りだ。だから君と付き合うことはできない」
「それなら…それなら悠司、奏とくっついちゃえばいいよ。それならあたしも気が楽だし」
そのとき宮入は寂しげに笑ったという。
「奏は奏で、他に好きな人がいる。どのみち奏のことは僕が奪い去るつもりだけど、今のところ僕も奏とすぐには付きあえないだろう」
「誰よ、奏の好きな人って」

「まさか宮入のやつ、そこで俺のこと苗穂にくっちゃべったのか⁉︎」
奏は鼻水をすすり込んだ。
「その…まさかだよ」

宮入は醜い顔を歪ませて、苗穂にこう言ってしまう。
「湊先輩だ」
「え⁉︎何それ。湊先輩って、奏のお兄ちゃんの、あの湊先輩?」
「そうだ。奏は、実の兄を、愛している。そんな道から僕が今、引き戻そうと努力しているところだ」
「え…。何よそれ…。ありえない!」

宮入の野郎…。こいつ、やることなすこと、全部頓珍漢で、百害あって一利なしだ。宮入の好きな人が奏だというだけで奏の分が悪くなるのに、俺を愛していることまでしゃべくるとは…。この先星坂で奏が歩む道が、凄まじい光で照らし出されたかのような気持ちがした。

階段で俺と分かれた奏が五組の教室に入ると、苗穂が机に突っ伏して泣いている。その回りに美玖も麗美子もいた。すぐに状況を悟った奏が苗穂のところに駆け寄る。
「苗穂…。ダメだったんだね」
そして苗穂の肩に手をかける。ところがその手は振り払われた。
「うっせえ!さわんなクソ女っ」
「え…、苗穂…」
苗穂が顔を上げる。涙と鼻水でしとどに濡れていた。
「悠司から…、悠司から聞いたよ。キモいことしてやがって…。そんなやつにあたし、負けるのかよっ。いい加減にしろっ!」
状況が分からずに、おろおろするばかりの奏に、美玖が、愛想を尽かした口調で言う。
「奏。あんたキモいねぇ。苗穂から話聞いたけど、そりゃ苗穂かわいそうだわ」
「美玖…、一体何があったの?教えてよ」
美玖はため息交じりに、苗穂が振られたシーンを奏に話して聞かせた。
「奏さん。実のお兄様を愛してやまないというのは、本当なのですか?」
麗美子の目にも嫌悪感がある。そしていつの間にか、クラス中の視線が奏に注がれていた。
「……………」
「はっきり答えてください!」
「答えさせるまでもないよ麗美子」
と、苗穂が鼻をすする。そして、クラス中に響き渡る大声で言った。
「悠司が…、悠司がそう言ったんだもん。奏は、実の兄を愛しているってね。あたし、そんなキモいやつと今まで友だちしてたのかって思うと、反吐が出る」
クラスがざわめく。中には悪意のこもった視線を奏に放つ者たちもいた。
「とにかく」
美玖が言い放つ。
「私たち三人は、奏とはもう絶交だ。口もきかないしラインもしない。そんな、お兄ちゃん愛してるようなキモいやつとは、付き合えない」
「みんな…。そんな…」
涙でぼやける視界の中で、奏は苗穂にとどめを刺された。
「せいぜいお兄ちゃんと仲良く登下校してろ、クソが」

「お兄ちゃん、やめてっ、やめてったらっ!」
「松橋落ち着けっ!」
「やめろ湊!お前が行ってどうする」
奏の話を聞いた直後、俺は立ち上がり、脇目も振らず音楽室へ向かった。その後を奏、佐伯、秀馬、そして美咲までもがついてくる。
「うるせえ、宮入の野郎…今日という今日は我慢ならねえ」
音楽室前に着く。ガラリと扉を開けた。すでに室内には数名の合唱部員。奇異の視線が刺さるがそんなものどうでもいい。
「宮入っ!宮入はいるかっ!」
「ここにいます」
吐き気を催す坊ちゃん刈りが、音楽室の奥にいた。俺は宮入に歩み寄る。
「てめぇ…苗穂に何しゃべりやがった!」
「ふん」
憎々しげに顎を突き出す宮入。
「そのご様子なら、もう全部ご存知なんでしょう?重ねては言いません」
「クソ野郎っ!」
俺は宮入の胸ぐらをつかんだ。
「図に乗りおって。俺と奏のことまで苗穂にしゃべりやがったな!奏の立場がどうなるかわかっていたのかっ!」
「ではあの場面で『奏の好きな人は誰』て聞かれて、嘘を言ったり、はぐらかしたりすることが、僕にできましたかね」
「だからといって、てめぇ、わざわざ奏がいじめられるように仕向けたんだぞ」
「ふん、だから言うんです」
宮入は不敵に笑った。
「兄妹で恋しあっても何も結ばない、皆が不幸になるだけだって。奏がいじめられるなら、湊先輩、それはあなたのせいですよ」
その瞬間、俺の拳が自動的に繰り出され、宮入の顔に炸裂した。
「ぐうっ!」
「お兄ちゃんっ!宮入くんっ!」
奏が叫ぶ。殴り倒された宮入が床に這いつくばった。
「悠司!大丈夫か」
佐伯が宮入を助け起こす。その上から俺は傲然と言った。
「宮入。奏のことがそこまで好きだと言うんなら、今後、奏がどうなっても、てめぇが奏を守るんだろうなっ!」
「言われなくてもそうしますとも」
宮入はよろめきながら立ち上がった。一発殴られたくらいでよろよろしやがって、そんなひ弱で何が奏を守るだ。だが宮入は口だけは減らない。
「奏。たとえクラス全員が奏の敵になっても、僕だけは奏の味方だからな。奏は僕が守る。だから湊先輩なんてやめて、僕のもとに来るんだ」
そこでもう一発、今度は腹に、自動的に拳。
「ぐはっ…」
宮入が再び床に這う。
「お兄ちゃん、やめてったらっ!」
「松橋っ!その一発は余分だぞっ」
「湊くんっ」
「うるせえ…」
俺は、身体を震わせる。
「俺はな…こういう、自分の身の丈をわきまえないやつが、大っ嫌いなんだ!何も出来ない分際で、それでいて、しでかすだけしでかしゃがって、奏は僕が守るだ?笑わせるなっ」
また手を上げる俺だが、秀馬にその腕を取られる。
「よせ。もうそのくらいにしておけ湊!」
「………ケッ!」
俺は秀馬の手を振り払った。いくら憎んでも憎みきれない坊ちゃん刈りを睨みつける。宮入も宮入で、佐伯によろよろと支えられながら、俺を睨んでいる。三白眼が醜かった。
「もういい。こんなやつの顔なんて見たくもない」
「そのこんなやつの顔を見にわざわざお越しくださりありがとうございました」
「何をっ」
二発殴られても宮入は口が減らなかった。そんな宮入にまた怒りが爆発しそうになる。
「湊やめろ」
「お兄ちゃんったらっ!」
「湊くんっ」
三方から飛ぶ声が、俺の手を止まらせる。
「湊。もういいだろう。戻るぞ」
秀馬に腕を引かれる。俺は宮入をひと睨みして、音楽室を出た。その後に佐伯、奏、美咲が続く。
「お兄ちゃん!ひどいよ。あんなことしなくたって…」
そんなことを言う奏にも頭にくる。
「奏!宮入の味方をするのか!」
「そんなわけじゃないよ…。でも、乱暴はいけないよ」
佐伯もその後に続く。
「確かに悠司も失言したと思うけどさぁ、こうなっちまった以上、いくら悠司を責めてもどうしようもねえじゃねぇか」
それはそうだけど…。俺はそっぽを向いた。
「じゃあ…。じゃあこれからどうしろって言うんだよっ」
「そうだな湊。まずは、奏ちゃんがクラスの中でどうなるかによる」
こんなときにも落ち着き払った口調で秀馬が言う。
「ボク、いじめられるんですよね。また…」
奏が曇った目を伏せた。こういう顔をさせたくなかったんだ、宮入の野郎…。だがそんな奏に秀馬は、はっきりとした口調でこう言ってしまう。
「多分そうなる。苗穂ちゃんにも随分恨みを買ったようだしな。こうなった以上、奏ちゃんをどう守るかだ」
「悠司が、奏を守るって言ってたけど…」
「頼りになるかっ」
マヌケな発言をする佐伯を俺は怒鳴りつけた。
「あんなちっぽけでひ弱なやつに何ができる。せいぜい、奏と一緒にいじめられるのが関の山だ!奏は…奏は俺が守る!クラス全員、ぶっ散らばしてやるっ」
「お兄ちゃん…」
奏が、俺に小さな身体を寄せた。震えている。かわいそうに!
「奏…。俺が…俺が守ってやるからな!」
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