俺とつくも神。

三塚 章

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第二章 ピジョン・ブラッド

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 和樹と羽原ミコトとの出会いは、ちょっとばかり血塗られていた。
とある冬の日曜、午後三時。高校生の和樹は、カウンターに肘をついてだらだらとバイトの時間をつぶしていた。
普通、駅前にあるこの本屋では二人でレジに入ることになっているのだが、バイトの相方は今近所の床屋に定期購読の雑誌を配達に行っていて、今、店員は和樹しかいない。おまけに、いつもいるはずの店長は、今日に限って遅刻している。それはつまり、話し相手がいないということで。
しかたなく、和樹は万引き防止もかねて店内の様子をぼんやりと眺めていた。
「あ、こいつ新曲出したんだ」
「え、どれ? ちょっと、見せてよ」
仲のいいカップルが、一冊の音楽雑誌を引っ張り合ってくすくすやっている。 
(勘弁してくれよ。破れたら店長に怒られるの俺なんだからよ…… てか、それぞれ取ればいいじゃねえか、同じ本が目の前で山積みになっているんだから)
 あまりに退屈で機嫌が悪いせいで、和樹の心の中の突っ込みは容赦がなかった。
「ほら、ここ、ここ。この雑誌にカオリが載ってるの!」
 今度は部活帰りの女子中学生三人組がファッション雑誌を引っ張り出している。一人がページの隅を指差すと、残りの二人がガラスを引っかいたようなキンキン声で悲鳴をあげる。
「あ、ほんとだ。これ、読者モデルって奴?」
「カオリちゃん、すっごーい! あの顔でよく応募したよね~」
(……。女って怖いな。友達は選んだ方がいいぞ、カオリちゃんとやら)
マラソンの帰りに立ち寄ったのか、週刊誌を読んでいるジャージ姿のおじさん。彼の持っている雑誌の表紙には、おっかない顔をしたアメリカ大統領の写真が載っていて、その額辺りに『頻発するテロ。日本に危険はないのか?』とバカでかい活字が張り付いている。
(テロねえ…… 今ここで起きたら退屈はしねえだろうが…… 凍京ならともかく、彩玉県じゃな。ここを狙うのは相当のヒマ人……)
 ドン。いきなり爆発に似た音が響いて、客たちが一瞬動きを止めた。自動ドアが開いて、店の中にいた全員の視線が戸口に集中する。
そこには、誰も立っていなかった。幽霊か? と思った和樹だが、すぐに灰色の塊が自動ドア越しの外に落ちているのに気がついた。
それは、一匹のハトだった。怪我をしているようで、片方の羽が棒でも入っているように伸び切ってしまっていた。羽ばたいても飛び上がれず、ただぐるぐる右回りで円を描いている。ハトがセンサーの下を通るたび、バカな自動ドアが開けたり閉めたりを繰り返していた。
さっきの爆発音は、こいつが自動ドアに追突した音のようだった。その証拠に、ガラスには、羽の脂がぶつかった瞬間のハトの形にこびり付いていた。
「なんだあ? 酔っぱらってるのか、この鳥」
 カップルの、男の方が言う。
「やだ、ねえ、かわいそう。なんとかしてあげて?」
鼻にかかった甘い声を出して、彼女が彼の腕を抱きかかえた。
(ったく、そう思うならテメエでなんとかしろよ。くそ、やっぱ俺の仕事になるんだろうな。なんでよりにもよってこの店に……)
 動きまわるうちに傷口が開いたのだろう、傷口から血があふれ、アスファルトに赤い糸のような跡がついている。灰色の羽も辺りに散り始めて、なんだか壮絶な様子になってきた。
 少し顔をしかめながら、和樹が店の外へ出たときだった。
 暴れまわるハトの後で、磨かれたブーツが足を止めた。
ミニスカートに、セーターを着た少女が、ハトを見下ろしている。大体、和樹と同じ位の年齢だろうか。少女は、なかなかの美女だった。腰まである真っ直ぐで真っ黒な髪は、シャンプーのCM嬢もハンカチを噛んで嫉妬しそうなほど艶やかだ。真っ黒な瞳は、ぼうっと見とれている和樹の姿がはっきりと映るほど大きい。薄い唇は『今、どんな表情を浮かべたらいいのか特に思い浮かばないの』という感じでまっすぐに結ばれている。
折れそうなほど細い足を曲げ、落とした自分の帽子を拾うような気軽さで、少女はハトをそっと抱えあげる。彼女の着ている白いセーターは、あっという間に血と泥で汚れてしまった。
そして、真っ白な手を染める、血。極上のルビーの色を、ハトの血(ピジョンブラッド)と呼ぶ。何でか知らないが、和樹の頭にそんな意味のないトリビアが浮かんだ。
「店員さん。水を貸していただけないかしら。傷口を洗ってあげたいの。本屋にも水道はあるでしょう」
 少女は、やっと落ち着いた自動ドアをくぐる。別に神の御技というわけではないだろうが、胸にかけられている十字架だけが汚れもしないでキラキラと輝いていた。
「み……、水か。奥にトイレがあるから、そこで」
少し慌てながら、和樹は後を追った。
「ねえ、名前は?」
「羽原ミコト。今日、ここにバイトの面接に来たのだけれど。店長から聞いていないかしら」
店の中は、彼女が入ってくると静まりかえった。血まみれのハトを抱える美しくも不吉な少女は、たしかにどこか浮世離れしたというか、近寄りがたいものがあった。
「やだ……」
 小さく、カップル女が呟いた。
「へ。アイツ、さっきまで『ハトがかわいそう! 何とかして!』って言ってたんだぜ。何とかしてやったら、『やだ』かよ」
 微笑んでくれるのを期待して、和樹は少女に囁いた。
「アナタに責める権利はないんじゃないかしら」
 微笑の代わりに向けられたのは、そんな冷たい言葉だった。
「あなただって、このハトが自分と関係のない場所に落ちたら、助けようとはしなかったでしょう。店から出てきたときの表情で分かったわ」
 鋭い指摘に、和樹はグッと息を詰まらせた。
人の背丈ほどもある本棚の間を、二人は歩いて行った。ハトはもう諦めたのか、それともこの少女が味方だと分かったのか、もう暴れたりはしなかった。
「このハトを助けたのは私。だから、あの女の子を責めていいのも私だけ」
「はいはい、悪うござんした」
 和樹が肩を竦めた。なんだかこう、自分の気持つがすべて見抜かれた気がした。
 バイトをクビにされたくないから、ムカつく客にへらへらへら笑顔でサービスしている事とか、さっきのカップルの女と大して変わらない自分の本性とか。
確かに、彼女の言うことは正しい。えらそうなことを言いたいのなら、自分でさっさとハトを拾い上げ、手当てしてから好きなだけ言えばよかったのだ。
「ん……」
 小さなうめき声に振り向くと、羽原の体がグラリと揺らいだ。右腕でハトを抱いたまま、本棚に左手を着く。おかげて何冊かコミックに血がついたが、そんなことはかまっていられない。
「おい、どうした」
 駆け寄って、和樹は羽原の腕を支える。ほっそりした腕から、全身の振えが伝わってきて、ちょっと驚いた。羽原の唇が紙のように真っ白になっている。
「なんでもないの。私、少し、血がダメなだけだから」
「お前、そんな性格なのにそのハトを抱えてたのか」
 よろよろと立ち上がろうとした羽原だが、すぐにまた本棚に手をついてしまった。その衝撃で、本が一冊落ちてきて、まるでコントのように羽原の頭を直撃した。
「痛!」
「ああ、もう。貸せ! そのハト!」
 和樹は、羽原からハトを受け取った。
 羽原は、目に涙をためて和樹をにらみつけた。
「失礼な人。何で笑っているの?」
「別に」
 和樹は、笑いをかみ殺した。
そう、その日から、和樹は風変わりなこの少女に惹かれたのだった。

 羽原のアパートを飛び出した和樹は、ひたすら走った。走って、走って、走って、いつの間にか和樹は駅前の大通りに出ていた。
 夕方の町並みは、不思議なくらいいつもと同じだった。外まで漏れるパチンコのマーチに、自動車のクラクション。それより大きなセミの大合唱。仲がよさそうな母娘づれ。ポスターを張り変えている飲み屋の店員。ゴミ箱。この町から女の子が一人行方不明になり、もう一人が死んだというのに、風景は一つも変わらない。急に沸いてきた怒りに、頭の芯が熱くなった。和樹はいっそう足を速める。
 きっと、羽原はまだ近くにいる。そうあって欲しい。いや、きっとそうだ。
前を歩く女子高生の集団に、羽原と同じ長い黒髪のコを見つけ、肩に手をかける。
「ちょっと、何よ!」
「悪い、人違い!」
 振り返った彼女を突き飛ばすようにして、その横を通り過ぎる。サラリーマンを追い越して、
「アブねえな、バカ!」
 横断歩道を突っ走って
「信号を見ろ、信号を!」
 怒鳴り声が浴びせられながら、羽原を探す。
「羽原あ! どこだあ!」
 息のしすぎで、乾いた肺が痛い。横腹が杭でも刺さっているように重苦しかった。自分の鼓動が、うるさいくらい耳に響く。持ち上がらなくなった爪先が点字ブロックに引っかかって、和樹はものの見事にすっ転んだ。

 コンクリートに打ちつけた胸が痛い。額から汗がつたって、目の中に入りそうになった。肘をつけ、体を起こそうとするか、まるで自分の腕が寒天にでもなったように力が入らない。ほんの少し顔を上げただけで、和樹はまた地面に倒れこんだ。頭がしびれる。
(く、クソ! 羽原を探さなきゃ、いけない、の…… に……)
「ちょ、ちょっとボウズ、大丈夫かい」
「おい、ちょっと救急車呼んだほうがいいんじゃないか?」
 靴音がいくつか、傍で止まった。にじんだ視界に、古いスニーカーの爪先が映った。その隣には、黒い革靴。チョウの飾りがついたサンダルも見える。野次馬が集まっているようだ。足の隙間から、ショーウィンドウが見える。どうやら楽器店の前で倒れたようだ。飾られたドラムの足がチラッと見えた。
今まで気が狂いそうなほどだった焦りと怒りと悲しみが、少しずつ鈍くなっていく。たぶん、これ以上走ると危険だと体が判断して、防衛本能が働いたのだろう。それとも、限界になった精神が、どうにかなる前にいったん休もうとしたのか。おそらく、その両方だ。眠っている場合じゃないのに、眠たくてたまらない。和樹は、戦闘中敵に眠りの呪文を掛けられたRPGのキャラの気持ち、という珍しい気分を実感することができた。
 頭の隅に、洋楽が流れている。寂びた男声ヴォーカルだ。楽器店から聞こえてくるのだろう。古い映画に使われていた有名な曲で、英語の教科書に歌詞と訳が載っていたのを和樹は思い出した。確か、大事な奴へ傍にいてくれ、と乞う歌だ。愛しい人がいてくれれば、夜の闇も怖くないと。空が落ちても、泣いたりしないと。
 だとしたら、と和樹は思う。だとしたら、この歌の主人公はその『ダーリン』とやらがいなくなったら闇が怖くて怖くて仕方なくなるのだろう。
(ちょうど、今の俺みたいに……)
 なんとなく、和樹は笑った。そして、闇が意識を覆っていった。
    
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