姫と道化師

三塚 章

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三章

姫さま、姫さま、今までどこにいらしてたんです?

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 小さな宿の一室に、水音が響いた。リティシアはイスに腰掛け、足をタライの湯につけていた。
 叩き起こした宿の主人から借りたペンチで鎖はすでに外してある。後で宿代金をはずまないとならないだろう。
 ルイドバードはまだ帰って来ていない。ファネットはルイドバードを探しに行くと言って出ていった。あるいは気を利かせて二人だけにしてくれたのかも知れない。
「いや、いや、厨房にまだお湯があってよかったですよ。ぬるくなってますが、却ってちょうどいい」
 ラティラスの持つ布がリティシアの足をなでる。ラティラスは床にひざまずくようにして彼女の足を洗っていた。
 鎖に繋がれ、走って逃げたせいでリティシアの足首には細かな傷と泥がついていた。布を浸すたび、土と血が桶の湯に広がっていく。
「あとで香油を塗ってあげますよ。疲れが取れますから」
「ああ」
 安全な場所に逃げてきた安心感からか、温かな湯のせいか、リティシアは少し眠たそうだった。
「会場ではきちんと聞く暇がなかったから今聞きますけど、どこで何をしていたんです?」
 ゆっくりとした口調でリティシアは自分が監禁されていたこと、定期的に血を採られていた事を話した。
「それをもっと早く知っていたら、どうにかしてあの鳥男を八つ裂きにしてやったのに」
 そういうと、リティシアは一瞬驚いた顔をしたが、薄く笑った。
「ちょっと性格が乱暴になったんじゃないか、ラティラス。お前の方は何をしていた? お前もケラス・オルニスに囚われていたのか?」
 ロウソクが揺れ、二人の影が壁で揺らめいた。
「いえ、なんとか捕まらずにやってきましたが」
 ラティラスは自分が今までどうやってリティシアを探したのかを話した。
 花びらをたどり、ルイドバードと出会い、ケラス・オルニスの存在を知ったことを。
「それでは、あのお守りは捕まって奪われたというわけではなかったのか、ああもう!」
 リティシアは憤りを隠そうともせずに言った。
 ラティラスは思わず苦笑する。姫を助けるためならば、自分の命などなくなってもいいと思っていた。それなのに姫はこの自分のために逃げ出せなかったとは。
「ワタシのことなど放っておけばよかったのですよ」
「そんなことができるか」
 すねたような上目づかいでリティシアは睨みつけてきた。
「それから……これは告げるのはとても辛いのですが」
 ベイナーの死をラティラスは告げた。
 リティシアはうつむき、震える声で「そうか」と言った。膝の上の両手が強く握られている。
「ベイナーを殺した者には、それなりの報いは受けてもらう。だが……辛いな」
(そうだ。とても辛かった)
 我ながら今までよく生きてこられたものだと道化は思った。
(でもただ一つだけ、どうしても姫様に伝えたい想いがあったから、ワタシは駈けずり回ってここまで来た)
「ねえ、姫(ひい)様。こんな時にアレですが、聞いてくれますか。ずっとずっと、バカみたいに遠慮して言えなかったことを」
 ひざまずいた姿勢のまま、真っ直ぐにリティシアを見つめる。
 きょとんと見返すリティシアの瞳に映る自分は、ひどく追いつめられているような表情をしていた。自分自身のその表情が、ラティラスには少しおかしかった。
「大好きです、姫様。愛しています」
 そう言って、リティシアの爪先に口づける。
「こ、こらよせ! 足になんて、汚いぞ!」
 リティシアは耳まで赤くなった。
「洗ったばかりですよ」
 くすくすと笑って、すねに、膝に唇をつけていく。
 リティシアは軽く身をよじらせた。
「だ、だめだ、やめろ」
「ねえ、今でもワタシの事を好きと言ってくれますか?」
 リティシアの両足を抱きかかえるようにして、片頬を彼女の膝にのせる。
「あ、よ、よせ本当に……よせ!」
 最後の『よせ』はちょっとした悲鳴のようで、ラティラスは顔をあげた。
 首筋にチクリと痛みが走る。
「何をしている、道化」
 背後から、ルイドバードの低い声が聞こえた。
 首筋の痛みは、突きつけられた剣の先で傷つけられたものらしい。布と皮膚のわずかな隙間を血が垂れていく感触。
「ようやく塔から逃げ出して来てみれば。人の婚約者に触れるな」
 冷たい、押し殺した口調だった。
 剣が引っ込められた気配がして、ラティラスは頬から顔を上げた。
 リティシアが慌てて乱れたドレスの裾を整えた。
「ち、違うんだこれは…… 私が最初にラティラスを誘惑したんだ」
 見え透いた嘘に、ルイドバードは深いため息をついた。
「というか、な、なぜルイドバード殿がここに? 護衛も連れずに?」
「婚約者を探すのは当然のことでしょう」
 少し決まり悪そうにルイドバードが視線をそらせた。
 ラティラスは静かに口を開いた。
「リティシア様がいなくなってから、トルバド王はルイドバード様に『単身でリティシア様を捜し出し、結婚すること』と王位をつぐ条件をあげたのです」
 ルイドバードの行動は、リティシアを愛しているからではなく利己的なものだとラティラスはあえてはっきりとは言わなかった。
だがそういった含みがあるのはリティシアにも分かるはずだった。
「ラティラスのことを想っておられるのですね、リティシア様」
 憐れむような視線をラティラスにむける。
「ですがリティシア様には、私の妃となっていただく。二人の気持ちは分かってはいるが、それは変わらない。この婚約は国と国との約束事だ」
 そうだ。ルイドバードはリティシアと結婚しなければ王位を継ぐことができないのだから。ラティラスが自分の気持ちを認めたところでその現実は変わらない。
「それに、我が国はすでにロアーディアルに援助を行っていると思ったが」
 襟首をルイドバードにつかまれる。
「後で、ファネットという女性が来ます。我々の協力者ですので、ご安心を。お二人で使うには狭い部屋ですが、お許しください。私とラティラスは隣の部屋にいますので、ご用があったらお声がけを」
 部屋からひきずりだされるとき、リティシアの声がした。
「ありがとう、ラティラス。さっきの一言で救われた気分だ」
 小さな軋みをあげ、扉が閉まった。

 ラティラスを部屋の中に置いて、ルイドバードは廊下へ出ていった。
 いつの間にか、ファネットが立っていた。
「ラティラスさんとリティシア様は、本当に想い合っているのですね」
「ああ」
 ルイドバードは苦々しくうなずいた。
「おかわいそうなルイドバード様」
 まさかそこで自分の名前が出てくるとは思わず、ルイドバードは少し驚いた。
「本当はルイドバード様だってお二人がお幸せになれればいいと思っているのでしょう。ラティラス様はよいお友達なのですから」
 確かにそうだ、とルイドバードは認めた。
 今までラティラスのようなタイプの人間を見たことはなかった。
 ベイナーの死体の前でおどけて見せたラティラスの様子を思い出す。
 どんなに傷ついていても自分を苛(さいな)む悲しみや苦しみを嘲笑うことで、陽気な道化であろうとする。それが奴の戦い方なのだろう。その強がりも、妙に頭がきれるところも、ベイナーは気に入っていた。
 リティシアのことも、愛情ではないものの、尊敬にも似た感情を持っている。か弱い女性の身でありながら、敵の手を脱してきた所など、いかにも『血狂い姫』の彼女らしい。 二人には幸せになってほしい。
だが、その幸せを邪魔しているのは他でもない自分なのだ。かといって、ルイドバードとて自分の意志を曲げることはできない。
ロルオンはどうしたのだろう。あの塔で命を落としたのだろうか。でも、生きているとしても、死んでいるとしても、リティシアと結婚する必要がある。
市民も、王が条件をだしたのは知っている。ルイドバードが試練をくぐりぬけ、その条件を満たしたことを知らしめる必要があるのだ。そうでなければ、政敵に付け入るスキを与える。
「ああ。でも意地悪で言っているわけではないことは、むこうも分かっているだろう」
「やんごとない人は悩みがつきないものですね」
 少し皮肉気な微笑みは、純粋で無邪気なイメージのファネットには少し合わないようだった。
「ねえ、ルイドバード様。もう一つ、あなたを困らせることを言わせてもらいます」
 ファネットは真っすぐにルイドバードを見すえてきた。
「私は、あなたのことが好きです」
「え……」
 ラティラスはよくそんな事を言ってからかって来たが、改めてファネットの口から言われると動揺してしまう。
(なんと答えればいい?)
「お答えは結構ですわルイドバード様。立場上、何も言えないことは知っていますもの」
 ファネットはくるりと背をむけた。
「ただ、ラティラスさんを見て、私も少し我がままを言ってみたくなっただけですの」
 ファネットはリティシアのいる部屋のドアノブに手をかけた。
 このまま行かせてはいけない。そんな気がして、ルイドバードは咄嗟(とっさ)に口を開いた。
「望まない結婚をするのは――」
 ファネットの動きが止まる。
「――望まない結婚をするのはリティシア姫だけではない。私もだ」
 口に出して言えるのはここまでだった。
本当に結ばれたい相手は他にいる。そしてその相手は――
 言葉の裏にあるそのメッセージが伝わればいいのだが。
 ファネットは振り返り、寂しげな笑みを浮かべた。
「リティシア様が見つかったというのに、誰も幸せになれないのでしょうか」
 ファネットは部屋の中へ入り、扉を閉めた。
 呟かれた彼女の言葉が、ルイドバードの頭に響いていつまでも消えなかった。
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