詩歌官奇譚(しかかんきたん)

三塚 章

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第七章

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 にじんできた汗をそのままに、香桃は荒い息をした。あちこちから血を流しているものの、大きな傷はない。だが、香桃も敵になかなか効果的な攻撃を与えることができなかった。
「香桃!」
 楽瞬が叫んだ。紅嵐は笑う力もなくしたのか、ただ茫然とうずくまっている。
 香桃が地面を蹴った。
 腐土は前足を地面で叩くようなしぐさをした。香桃の行く手の地面が吹きあがる。
 香桃はとっさに横へ飛び、飛礫(つぶて)と化した石を避けた。着地と同時に鞭を振るう。
 だが、やはり装甲がわりの岩に阻まれる。
 鳴き声すら上げず、腐土は香桃に突進した。
「クッ!」
 香桃は鞭を真上に放つ。鞭の先端が枝に絡む。木の枝にぶらさがった香桃の爪先のすぐ
下を腐土が通りすぎようとする。
「香桃! 無理しないで!」
 楽瞬は頭に巻いた飾り布をむしり取った。虎と化した耳が完全に露出した。瞳のやわらかげな茶色の光が、金色の鋭い物に代わっていく。
 香桃は鞭をほどき地面に投げ捨てると、山刀を抜きながら腐土の上に飛び乗った。両手で山刀の柄を握ると、それを腐土の背に突き立てた。意外と軽い音がして、刃が折れる。
 腐土の尾が、まるでサソリの物のように持ちあがった。石をこする音をたて、尾がさける。ワニの口のようになった尾には、白い牙が植わっていた。
香桃が胴を挟もうとした時、黒い影が走る。
 影は香桃を抱き上げると、腐土の背から飛び降りる。
「情けねえなあ、香桃。それでも楽瞬の護衛かよ? しばらく見ないあいだ腕が鈍ったんじゃないか」
 香桃を腕に抱いたまま、腕嘲(せせ)ら笑ったのは、一見楽瞬をそのまま青年にしたような男だった。
 着物の袖や裾を止めていた糸は切れ、成人用に戻っている。そしてその両耳は虎の物。
「白虎!」
 青年の腕から逃れると、香桃は憎らしげに男を睨みつけた。
「おいおい、助けてやったんだから歓迎しろよ」
「楽瞬様の体を乗っ取ろうとしている奴を、どうして歓迎できますか!」
 雪山で楽瞬に会った神は、もちこまれた穢れで体は瀕死の状態だったという。だから体が死ぬ瞬間、その魂だけを傍にいた楽瞬に乗り移らせたのだ。
 体と意思を乗っ取られた楽瞬は、山をさまよっている所をある術者に見つけられた。術者は呪(まじな)いを込めた布を巻き白虎を封印した。だが、その副作用で楽瞬の体は封印を施された歳のまま成長を止めてしまった。
 だからこそ、楽瞬は詩歌官として世界を周っている。白虎の魂を分け、本来の年齢に戻る方法を見つけるために。
「絶対に、楽瞬様と引き離して見せますから! そうすれば楽瞬様も本来の歳に……」
「で、いちゃいちゃできるってか?」
「なっ!」
 香桃の頬に朱が差す。
何か続けようとした香桃の言葉を遮るように、空気を切る音がした。長い尾が二人を薙ぎ払おうとする。
 とっさに香桃は体を低くして尾をかいくぐった。白虎は尾を悠々と飛び超え、腐土の額の上にまで跳び上がった。
 中空で白虎は右手を振り上げた。その手には、人の物ではない長く鋭い爪が伸びていた。
牙ののぞく口をゆがめ、白虎が笑った。
 生木が割れ、岩がこすれる音がして、腐土が真っ二つに割れた。
「あ、ああ……」
 飛び散った石が近くに飛んできて驚いたのだろう。呆けたように座り込んでいた紅嵐が小さく呻いた。
 白虎が紅嵐の方に顔を向ける。
 おびえたように紅嵐が体をすくませた。
 だが、白虎の金色の目は紅嵐ではなくその腕の中の子猫を捕えていた。
「人間に傷つけられたのか」
 白虎が紅嵐に近づいていた。
「ちょっと……」
 紅嵐は小虎を隠そうとする。
「動かすな、治すだけだ」
 白虎は不快そうに顔をしかめて、手を伸ばした。腐土を割いた爪は、今は普通の人間の物に変わっている。白虎は、小虎の額に指先を触れさせた。
 猫は気持ちよさそうに目を細めると、ぐるぐると喉を鳴らした。正反対に、白虎は不快そうに顔をしかめていた。
「小虎?」
 紅嵐の声に「なに?」というように閉じていた瞼を開いた。なかったはずの瞳が紅嵐を見つめている。
「小虎!」
 紅嵐は小虎に頬ずりをした。
「へえ、優しいじゃない。血の穢れは苦手なのに」
 香桃がからかうように言った。
「ふん、俺の眷属(けんぞく)だからな」
「それから、私を助けてくれてありがとう。一応お礼を言っておくわ」
「一応?」
 ぴくっと白虎の耳が動いた。
 香桃が鞭を構えた。
 白虎が背中をむけて山に駆け込もうとする。
 蛇のように鞭が這った。先端が白虎の両足首を捕える。見事に白虎はすっ転んだ。
「いくら命の恩人でも、楽瞬様の体を渡すわけにはいきませんわ」
 逃げないように鞭を踏みつけつつ、両手に頭の飾り布を持って香桃は白虎ににじりよった。
「いつか、絶対にあなたを楽瞬様から追い出して見せますわ。そして、もとの年齢になった楽瞬様と夫婦に……」
「ちょ、ま!」
 白虎の抵抗もむなしく、香桃は布を白虎の頭に巻きつけた。
 白虎の魂を入れた楽瞬の体は、まるで時を巻き戻したように身長を縮め、片耳は人間の物になり、頭身の割合が変わっていく。
 数回瞬いたあと、その目の光は鋭い白虎の物から、柔らかな楽瞬の物になっていった。
「あー、また白虎のお世話になっちゃったなあ」
「『なっちゃったなあ』じゃありませんよ楽瞬様! 軽々しく白虎に体を貸すのはやめてください!」
 足首の鞭をほどきながら、香桃は言った。
「そんなに白虎の事を嫌わないで、香桃。悪い奴じゃないんだからさ」
「楽瞬様はお人よしすぎます! さてと」
 香桃は紅嵐に向かいなおると、咎めるような視線をむけた。
「どうして楽瞬様のジャマをしたの! もし村に魔物がおりて行ったらどうなったことか!」
「あなたこそどうして邪魔したのよ! こんな村なくなっちゃえばいいのに!」
 香桃がため息をついた時だった。
「おーい!」
 誰かが手を振りながら山道を登ってくる。
「雲石?」
 駆け寄った雲石は、膝に手をおき腰をまげて息を切らせていた。
「雲石? どうしてここに……その格好は?」
 雲石は腰にぼけた刀を下げていた。そして頭にはなぜか鍋をかぶっている。
 紅嵐の質問に、息をはずませ雲石は応える。
「なにか、大きな音が、したから。家に、紅嵐は、いなかったし」
 香桃はクスッと笑った。
「あら、健気ね。守ろうとしたのね」
「どうして……」
 座ったまま、びっくりした顔で香桃は雲石を見上げた。
「あなたは登黄とツルんでいたのに……」
「村で登黄に殴られそうになったとき、間に入って来たのは誰でしたっけ? たぶんこの人だと思ったけど」
 香桃はニヤニヤしながら言った。
「あ、ひょっとして、あの時も、あの時も……」
 どうやら紅嵐には他にもさり気なく守られていた心当たりがあるらしい。
 驚いた紅嵐の顔が、少しずつ歪んでいった。
「あは、あはは」
 紅嵐は泣き笑いの顔になった。その目からぽろぽろと涙がこぼれる。
「知らないだけで、気にかけてくれてた人がいたみたいね。ここの村の人間もそう捨てたもんじゃないじゃない」
 香桃がくすっと笑った。
「これを見てよ。詩と一緒のツボに入ってた」
 楽瞬が一枚の布を差し出した。
 その布には、精緻(せいち)な絵が描かれていた。
 地形から、この村を描いた物だと分かる。畑を耕す痩せた男。水桶を運ぶ少し太ったおばさん。枝でちゃんばらごっこをしている子供…… もしもその時代に生きていた者がそこにいたら、これが誰、これが誰、と当てることができただろう。
(素敵な村でしょう? 私はこの村を守れて誇りに思います)
 なんだか、楽瞬には紫星の声がその布から聞こえてくる気がした。
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