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第九章 さくら・さくら
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真菜は、なかなか眠ることができなかった。傷の痛みはもらった薬でかなりましになったけれど、寝返りをうてないのが辛い。
天井の模様も見飽きて、真菜は仰向けのまま、顔だけを少し右に向けた。見えるのは、ベッドの端に、小さな台。その奥に木の壁。窓にはカーテンがかかっていて、月の位置からどれだけ時間が経ったかも知ることができない。
隣の簡易ベッドからは、付き添いの母の規則正しい寝息が聞こえた。明かりをつけて本を読むこともできなくて、真菜はなんとなく昔のことを思い出していた。
幼いときから母は教育にうるさくて、色々なものを真菜に習わせていた。お琴やお華、お茶から、これからは女も手に職をつけたほうがいいとかで、帳簿のつけ方まで。おかげで、あまり近所の子供とは遊んだ覚えがない。けれど習いごとは楽しかったし、真菜もいつもはきちんと母にしたがっていた。
そんな真菜も、一ヵ月くらい習いごとをずる休みしたことがあった。理由はとても簡単なこと。飼っていた犬のタロが、病気で死んだから。淋しくて、悲しくて、苦しんでいるのに助けてあげられなかった自分が許せなくて。ほとんど八つ当りで駄々をこねて、母や先生達を困らせていた。
空也と初めてあったのは、そんなときだった。その日も真菜は、習いごとをさぼって一人で遊んでいた。お城の池に行くのが、そのころの真菜のお気に入りだった。
池のまわりはぐるりと歩けるように砂地になっている。その歩道を囲むようにして、若い葉が出てきたばかりの茂みや大きな松が生えていた。
空は良く晴れて、深い緑色の池に、白い雲が揺れていた。真菜は、柵のない池の畔にしゃがみこみ、揺らめく水面を覗き込んだ。緑の木を背景に、つまらなそうな真菜の顔が映っている。真菜は、小石を池に投げ入れる。
水面にたくさんの輪っかがうまれて、青空と、真菜と、木の緑がゆらゆらと混ざり合った。
また、水鏡がもとの静けさを取り戻すころ。真菜は、ふと、変なものが波に流され近づいてくるのに気がついた。
それはたくさんの桜の花びらだった。ほとんど白に近い、淡い色が、手の平ほどの大きさに広がり、静かに漂っている。
「なんだろ」
おかしいな、と真菜は思う。桜が咲いているのは城門のそばで、この池は城の後ろ側にある。どんなに強い風が吹いてもこの池には届かない。どうしてだろう。不思議だな。少し理由が知りたかった。けれど、何かでたまたま入り込んだだけなら、明日からこんなことは起きないだろう。その日はただ、そう思っただけだった。
けれど、次の日も、また次の日も、その花びらはあった。いくら軽い花びらだって、ほうっておいたら沈んでしまうことくらい、子供の真菜にもわかる。ということは、毎日新しいのが池に落ちているということだ。なんだろう。真菜は明日、少し早めにここへ遊びに来ることにした。
次の日。池には昨日の残りの花びらが数枚浮かんでいるだけだった。どうやら、桜の花びらを散らす『何か』はまだ来ていないようだった。真菜は、茂みに隠れて待つことにした。桜を持ってくるのが、変なおばけだったら嫌だから。
ジャリ、と砂を踏む音。真菜はドキドキしながら茂みからそっと顔をのぞかせた。下駄を履いた、小さな足が見える。どうやら、桜を運んでいたのはおばけではないようだ。少し安心した真菜は、さらに身を乗り出した。
歩いて来たのは同い年くらいの男の子だった。耳の当たりで茶色の髪を切りそろえ、緑色の着物と紺の袴をはいている。手を振らないで、腕をまっすぐ前にのばしたままで。だらんとたれた袖は、なにかが入っているようで少し膨らんでいた。隠れたままで見ていると、男の子は池の縁に立つと袖を裏返した。
白い霧が舞った。そんなにいっぱい袖に入っていたのかと驚くくらい、花びらが宙に広がる。くるくるとまわりながら桜は風に流され、ゆっくりと池に落ちていく。
「あの」
声をかけると、男の子は驚いたように振り向いた。
「こんなところで何をしてるの?」
こう訊くと、その子はしばらくきょとんとしていた。隠れていたから、真菜が急に現れたように見えたのかも知れない。
真菜は、じっとその子を見つめる。どこかでみた顔だ。よく、家のそばの細い通りで遊んでいる男の子グループの一人だった。子猫みたいにやわらかく笑っていたのを覚えていた。
「ええと、空也くんだよねぇ。花びら、池に捨ててるの?」
その子はうつむいた。
「滝ちゃんに桜をみせてあげようと思って」
「滝ちゃん?」
真菜が首を傾げると、空也は悲しそうにうなずいた。
「滝ちゃんは、ここで死んじゃったんだ」
「え?」
「だから、ここに桜を持ってきてあげるんだ」
それだけ言うと、その子はまたどこかへ歩いて行こうとした。慌てて真菜は後を追う。
入り込んだのは城の裏手の一角だった。花見客もこない、静かなところ。桜が満開だった。まるで知らずに天国へ踏み込んでしまったようだった。地面は落ちた花びらで埋めつくされ、頭の上は霞のように桜が空を覆い隠している。吹雪のように風に舞う、限りなく白に近い淡い色。
「すごい、きれい。お城の裏にも桜の木があったのね」
「すみっこだから、みんなここ知らないんだ。僕の秘密の場所。誰にもいわないでね」
空也は、地面に落ちた花びらをていねいに指先でかき集め始めた。なんとなく手伝おうと思って、真菜もしゃがみこむ。形のくずれたハートみたいな花びらは本当に傷つきやすくて、少しひっかくと透明な筋ができてしまう。
「枝を折るのはかわいそうでしょ? それに桜は枝を切ると、木まで枯れちゃうんだって。母さんが言ってた」
そういって空也は微笑んだ。
「……変なの」
華道をやるときは、いっぱいお花を切るのだ。それをかわいそうだなんて。友達が死んじゃってつらいのに、桜の心配までするなんて。私はタロが死んで悲しくて、みんなを困らせているっていうのに。
空也はまた花びらを袖にいれると、またトコトコと池へ戻った。そしてもう一度花びらを撒く。全部の花びらが水に落ちきると、空也はほとりにしゃがみこんで、手を合わせた。真菜もその隣にしゃがみこんで、同じように手をあわせた。
真菜は、なんだかタロを思い出してしまって、鼻の奥が痛くなった。
「ふ、ふえええん!」
耐えられなくなって、真菜は泣きだしてしまった。
「う、ひっく、うわあああん!」
いつの間にか、隣で空也も泣いていた。大人がみたらびっくりしただろう。池のほとりで子供が二人、並んで大泣きしているのだから。けれど声をかけて邪魔をする者はなく、空也と真菜は思う存分泣き続けた。
風が吹いて、水面の桜がくるくると舞った。
天井の模様も見飽きて、真菜は仰向けのまま、顔だけを少し右に向けた。見えるのは、ベッドの端に、小さな台。その奥に木の壁。窓にはカーテンがかかっていて、月の位置からどれだけ時間が経ったかも知ることができない。
隣の簡易ベッドからは、付き添いの母の規則正しい寝息が聞こえた。明かりをつけて本を読むこともできなくて、真菜はなんとなく昔のことを思い出していた。
幼いときから母は教育にうるさくて、色々なものを真菜に習わせていた。お琴やお華、お茶から、これからは女も手に職をつけたほうがいいとかで、帳簿のつけ方まで。おかげで、あまり近所の子供とは遊んだ覚えがない。けれど習いごとは楽しかったし、真菜もいつもはきちんと母にしたがっていた。
そんな真菜も、一ヵ月くらい習いごとをずる休みしたことがあった。理由はとても簡単なこと。飼っていた犬のタロが、病気で死んだから。淋しくて、悲しくて、苦しんでいるのに助けてあげられなかった自分が許せなくて。ほとんど八つ当りで駄々をこねて、母や先生達を困らせていた。
空也と初めてあったのは、そんなときだった。その日も真菜は、習いごとをさぼって一人で遊んでいた。お城の池に行くのが、そのころの真菜のお気に入りだった。
池のまわりはぐるりと歩けるように砂地になっている。その歩道を囲むようにして、若い葉が出てきたばかりの茂みや大きな松が生えていた。
空は良く晴れて、深い緑色の池に、白い雲が揺れていた。真菜は、柵のない池の畔にしゃがみこみ、揺らめく水面を覗き込んだ。緑の木を背景に、つまらなそうな真菜の顔が映っている。真菜は、小石を池に投げ入れる。
水面にたくさんの輪っかがうまれて、青空と、真菜と、木の緑がゆらゆらと混ざり合った。
また、水鏡がもとの静けさを取り戻すころ。真菜は、ふと、変なものが波に流され近づいてくるのに気がついた。
それはたくさんの桜の花びらだった。ほとんど白に近い、淡い色が、手の平ほどの大きさに広がり、静かに漂っている。
「なんだろ」
おかしいな、と真菜は思う。桜が咲いているのは城門のそばで、この池は城の後ろ側にある。どんなに強い風が吹いてもこの池には届かない。どうしてだろう。不思議だな。少し理由が知りたかった。けれど、何かでたまたま入り込んだだけなら、明日からこんなことは起きないだろう。その日はただ、そう思っただけだった。
けれど、次の日も、また次の日も、その花びらはあった。いくら軽い花びらだって、ほうっておいたら沈んでしまうことくらい、子供の真菜にもわかる。ということは、毎日新しいのが池に落ちているということだ。なんだろう。真菜は明日、少し早めにここへ遊びに来ることにした。
次の日。池には昨日の残りの花びらが数枚浮かんでいるだけだった。どうやら、桜の花びらを散らす『何か』はまだ来ていないようだった。真菜は、茂みに隠れて待つことにした。桜を持ってくるのが、変なおばけだったら嫌だから。
ジャリ、と砂を踏む音。真菜はドキドキしながら茂みからそっと顔をのぞかせた。下駄を履いた、小さな足が見える。どうやら、桜を運んでいたのはおばけではないようだ。少し安心した真菜は、さらに身を乗り出した。
歩いて来たのは同い年くらいの男の子だった。耳の当たりで茶色の髪を切りそろえ、緑色の着物と紺の袴をはいている。手を振らないで、腕をまっすぐ前にのばしたままで。だらんとたれた袖は、なにかが入っているようで少し膨らんでいた。隠れたままで見ていると、男の子は池の縁に立つと袖を裏返した。
白い霧が舞った。そんなにいっぱい袖に入っていたのかと驚くくらい、花びらが宙に広がる。くるくるとまわりながら桜は風に流され、ゆっくりと池に落ちていく。
「あの」
声をかけると、男の子は驚いたように振り向いた。
「こんなところで何をしてるの?」
こう訊くと、その子はしばらくきょとんとしていた。隠れていたから、真菜が急に現れたように見えたのかも知れない。
真菜は、じっとその子を見つめる。どこかでみた顔だ。よく、家のそばの細い通りで遊んでいる男の子グループの一人だった。子猫みたいにやわらかく笑っていたのを覚えていた。
「ええと、空也くんだよねぇ。花びら、池に捨ててるの?」
その子はうつむいた。
「滝ちゃんに桜をみせてあげようと思って」
「滝ちゃん?」
真菜が首を傾げると、空也は悲しそうにうなずいた。
「滝ちゃんは、ここで死んじゃったんだ」
「え?」
「だから、ここに桜を持ってきてあげるんだ」
それだけ言うと、その子はまたどこかへ歩いて行こうとした。慌てて真菜は後を追う。
入り込んだのは城の裏手の一角だった。花見客もこない、静かなところ。桜が満開だった。まるで知らずに天国へ踏み込んでしまったようだった。地面は落ちた花びらで埋めつくされ、頭の上は霞のように桜が空を覆い隠している。吹雪のように風に舞う、限りなく白に近い淡い色。
「すごい、きれい。お城の裏にも桜の木があったのね」
「すみっこだから、みんなここ知らないんだ。僕の秘密の場所。誰にもいわないでね」
空也は、地面に落ちた花びらをていねいに指先でかき集め始めた。なんとなく手伝おうと思って、真菜もしゃがみこむ。形のくずれたハートみたいな花びらは本当に傷つきやすくて、少しひっかくと透明な筋ができてしまう。
「枝を折るのはかわいそうでしょ? それに桜は枝を切ると、木まで枯れちゃうんだって。母さんが言ってた」
そういって空也は微笑んだ。
「……変なの」
華道をやるときは、いっぱいお花を切るのだ。それをかわいそうだなんて。友達が死んじゃってつらいのに、桜の心配までするなんて。私はタロが死んで悲しくて、みんなを困らせているっていうのに。
空也はまた花びらを袖にいれると、またトコトコと池へ戻った。そしてもう一度花びらを撒く。全部の花びらが水に落ちきると、空也はほとりにしゃがみこんで、手を合わせた。真菜もその隣にしゃがみこんで、同じように手をあわせた。
真菜は、なんだかタロを思い出してしまって、鼻の奥が痛くなった。
「ふ、ふえええん!」
耐えられなくなって、真菜は泣きだしてしまった。
「う、ひっく、うわあああん!」
いつの間にか、隣で空也も泣いていた。大人がみたらびっくりしただろう。池のほとりで子供が二人、並んで大泣きしているのだから。けれど声をかけて邪魔をする者はなく、空也と真菜は思う存分泣き続けた。
風が吹いて、水面の桜がくるくると舞った。
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